CTG マニフェスト
CTGは電子計算機およびその発達した形態の装置の中核とする多様な機会を駆使し、それらを支配して、人間の復権をはかる頭脳行動集団である。
われわれ戦後世代は生まれ落ちてから機械文明のなかでその人生を模索して来た。この恐るべき機械の時代を機械と全く絶縁して生きることは、それなりにあなどりがたい魅力をもっているが、それは猿への進化であり、われわれの目指す創造的進化とは異質のものである。
悪魔の魅力をふりまくコンピュータを飼いならし、これを権力に奉仕する機械としないことこそ、肥大した機械文明の混沌たるジャングルを切り抜く道である。
われわれは機械文明を単純に謳い上げたり呪ったりすることを選ばない。芸術家・科学者・その他の多くのジャンルの創造的な人々との共同作業によって、人間と機械との関係を冷静に見つめ、人間の生き方を考えてゆく。
<1967/04 CTG コンピュータ・テクニック・グループ
槌屋治紀 幸村真佐男 柿崎純一郎 山中邦夫 藤野孝爾 円羽冨士男 長谷川武 大竹誠 岩下繁昭 佐々木三知夫>
コンピュータ・アートは新しい芸術である。
芸術は人間存在の、世界の、メタフォアである。新しい芸術は我々に新たなる認識をせまり、新たなる地平線をきりひらいてきた。そして旧来の観念に打撃を与え、それを変革してきた。
コンピュータ・アートは新しい芸術である。コンピュータ・アートの発展は、現代芸術にはかり知れない変革をもたらし、さまざまな局面から、既存の芸術観と世界観をきりくずしていくと考えられる。
第一の局面は、機械の制作行為が人間の制作行為と本質的に異なるところにある。人間の感覚は、この世界を、この時・空間をある解釈の方法によって捉えているに違いない、そして捉えかたが過去の芸術を規定し、限定していた。しかしコンピュータ・アートの場合、我々が機械に与えたプログラムは、計算機の内部で、プロッターの動きを指令する言語、すなわち座標言語に変換される。座標言語とは、ある事象を、その性質と空間・時間に於ける位置とによっておきかえる言語である。具体的に言えば絵画をカンバスのうえにおかれた顔料の付着状況としてとらえ、画面中のある一点について、そこの点がどこに位置し、塗られている絵具はどのような状態であるかということで絵画を言い尽くそうとすることである。絵画の制作プロセスを座標言語に変換することによって、また座標言語に個有の思考方法は、在来の作品とはまったく別の発想と展開をもってコンピュータ・アートを成立させる。それらは、我々に強烈な刺激を支え、その観念の変換を迫ることだろう。
第二の局面は、コンピュータ・アートは芸術の方法を全面的に変えていくことである。そしてその変革は芸術にとってもっとも本質的なものは何であるかをはっきりさせる。すなわち芸術家の行為の職人的側面もしくは、機械的側面をすべて、コンピュータに明け渡すことによって芸術とは何か、があらためて問われることとなろう。世界に対する新しい解釈を想像するメタフォアとしてオリジナルイメージと、それを定着させるプロセスのプランニングがコンピュータ・アートをささえる本質である。
書評『The Computer in Art』(馬 定延)
「僕はアーティストでも、エンジニアでもなく、ひとりの男になりたいと思います」と書かれた一枚のクリスマスカードで終わる、薄っぺらな本がある。そのカードを書いたのは日本のコンピュータアートの先駆的なグループCTG(コンピュータ・テクニック・グループ)の槌屋治紀氏であり、それを引用した著者は、芸術におけるコンピュータとその芸術的可能性を取り上げた国際展「Cybernetic Serendipity: the computer and the arts」(ロンドンICA他、1968)で世界的に知られている企画者・研究者のヤシャ・ライハート(Jasia Reichardt)氏である。
ここで注目したいのは、コンピュータのような複雑な電子機械と人間の神経システムにおける制御とコミュニケーションに関する学問である「サイバネティックス」と、幸運を発見する能力という意味の「セレンディピティ」からなる詩的なタイトルではなく、むしろ、平凡な印象の副題の方である。なぜなら「コンピュータと芸術」、当時の日本語で「電子計算機と芸術」とは、1967年多摩美術大学で開かれたシンポジウムのタイトルでもあったからである。このシンポジウムのパンフレットにおいて、東京大学で工学を専攻していた槌屋氏と多摩美術大学でデザインを専攻していた幸村真佐男氏を中心に結成されたCTGは、自らを「電子計算機およびその発達した形態の装置を中核とする多様な機械を駆使し、それらを支配して、人間の復権をはかる頭脳行動集団」として定義し、「芸術家、科学者、その他の多くのジャンルの創造的な人々との共同作戦によって、人間と機械との関係を冷静に見つめ、人間の生き方を考えてゆく」と宣言するマニフェストを発表した。
翌年の1968年、銀座の東京画廊で開かれた「コンピュータアート」展をきっかけにCTGと出会ったライハート氏は、「Cybernetic Serendipity」展にCTGの24点のCG作品、コンピュータ音楽作品、コンピュータ詩作品を展示することだけではなく、冒頭でふれた書籍『The Computer in Art』(Studio Vista / Van Nostrand Reinhold, 1971)においても、CTGの章を用意し、「アートとはシステムの発見である」という幸村氏の言葉を引用しながら、彼らの活動の特徴と代表的グラフィック作品と自動描画をめぐる実験的作品「APM (Automatic Painting Machine) No.1」などを紹介した。
カタログ『Cybernetic Serendipity』(Studio International, 1968)が、展示企画者の編集による1冊の共同研究書に近い側面がある反面、展示準備調査の成果でもある『The Computer in Art』は個人研究者としての著作であるため、ライハート氏の観点がより明確に現れているように思われる。後者において氏は、主に芸術の外部や周辺に属する人々の実践によって展開されてきたコンピュータをめぐる芸術的実験は、1970年前後の当時にはまだ十分探求されていない、未来に向けた可能性の領域であるといい、芸術におけるコンピュータの存在は、その複製性、抽象性、非人格性などを通して、美術館と作品の社会的・美学的意味に徐々に影響を及ぼしていくだろうと展望している。
このようなライハート氏の観点は、ある意味で「意外」なほど、現実的だったとも言えよう。なぜなら、『White Heat Cold Logic: the British Computer Art 1960-1980』(Paul Brown, Charlie Gere, Nicholas Lambert, Catherine Mason編, The MIT Press, 2008) などの書籍が示唆しているように、「Cybernetic Serendipity」展は、1970年大阪万国博覧会を目前とした同時代の日本の状況とも類似した、当時のイギリスの、技術に対する楽観的な雰囲気、一種のユートピア主義の文脈で語られる傾向があるからである。この紙面を借りて、2008年の近刊の代わりに、あえてほぼ半世紀前の書籍を取り上げる理由も、過去になった「時代」の方ではなく、その時代と向き合っていた「個人」の方に照明を当てるためである。
大阪万博の1年前、CTGは「解体」する。その最後のイベントにおいて槌屋氏は、「いまや、コンピュータアートは、エンジニアとアーティストの新しい関係を欲しているのであり、私にとって過去のものとなった」という文書を発表した。その新しい関係とはいかなるものであっただろうか。ライハート氏は、「コンピュータアートはアーティストによって切り開かれていくべきである」と、そして結局「コンピュータは、プログラムも、作品も、芸術も、我らの人生の意味も理解できない」と書いた槌屋氏の手紙を、芸術におけるコンピュータに対する最も痛烈なコメントとして引用した後、コンピュータがあろうがなかろうが、我らの人生は続いていくという究極の肯定も、結婚のニュースを告げる槌屋氏のクリスマスカードから見つけることができるという言葉で、『The Computer in Art』を結んでいる。
CTG
1966年,幸村真佐男,槌屋治紀を中心に,工学系と芸術系の複数の学生が集まって結成された,コンピュータを使って作品を制作したグループ.ほかに山中邦夫,柿崎純一郎,藤野孝爾,丹羽冨士男,長谷川武,大竹誠,岩下繁昭,佐々木三知夫が随時参加していった.日本IBMのコンピュータを自由に使える環境を得て,作品制作に取り組む.1967年10月にシンポジウム「電子計算機と芸術」を主催.1968年,アメリカのコンピュータ雑誌『Computers and Automation』のコンピュータ・アート・コンテストに応募し,作品が海外にも紹介される.また同年,現代美術の文脈でコンピュータ技術をはじめて本格的に紹介した「サイバネティック・セレンディピティ」展に出品したほか,東京画廊にて個展を開催し,自動描画装置《APM no.1》を発表する.そのほか,「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館,1969),「国際サイテック・アート展――エレクトロマジカ'69」(銀座・ソニービル,1969)に参加.第6回パリ青年ビエンナーレ(パリ近代美術館,1969)では,IBM2250(グラフィック・ディスプレイ)への同画像出力作品(16ミリ映画)を出品する.1969年10月1日に解散.
1966年,幸村真佐男,槌屋治紀を中心に,工学系と芸術系の複数の学生が集まって結成された,コンピュータを使って作品を制作したグループ.ほかに山中邦夫,柿崎純一郎,藤野孝爾,丹羽冨士男,長谷川武,大竹誠,岩下繁昭,佐々木三知夫が随時参加していった.日本IBMのコンピュータを自由に使える環境を得て,作品制作に取り組む.1967年10月にシンポジウム「電子計算機と芸術」を主催.1968年,アメリカのコンピュータ雑誌『Computers and Automation』のコンピュータ・アート・コンテストに応募し,作品が海外にも紹介される.また同年,現代美術の文脈でコンピュータ技術をはじめて本格的に紹介した「サイバネティック・セレンディピティ」展に出品したほか,東京画廊にて個展を開催し,自動描画装置《APM no.1》を発表する.そのほか,「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館,1969),「国際サイテック・アート展――エレクトロマジカ'69」(銀座・ソニービル,1969)に参加.第6回パリ青年ビエンナーレ(パリ近代美術館,1969)では,IBM2250(グラフィック・ディスプレイ)への同画像出力作品(16ミリ映画)を出品する.1969年10月1日に解散.
CTG(コンピュータ・テクニック・グループ)は槌屋治紀と幸村真佐男の出会いをきっかけに、1966年12月に山中邦夫と柿崎純一郎を加えた4人(最終的に10名)で結成されたコンピュータ・アート集団。その設立趣旨は「芸術家・科学者・その他の多くのジャンルの創造的な人々との共同作戦によって、人間と機械との関係を冷静に見つめ、人間の生き方を考えてゆく」(CTG マニフェスト,1967年4月)ことにあった。その作品群はCG(コンピュータ・グラフィックス)やムーヴィーに留まらず、「インタラクティヴ」や「インスタレーション」など、その後のメディア・アートのキーワードとなる形式や方法の萌芽が多数含まれていた。CTGの代名詞であるジョン・F・ケネディやマリリン・モンローのポートレイトおよびモーフィングの先駆となったCGは、68年、アメリカの月刊誌『Computers and Automation』の第6回コンピュータ・アート・コンテストおよび展覧会「サイバネティック・セレンディピティ」(ICA、ロンドン)を通じて海外でも知られることとなった。同年9月に「コンピュータ・アート展:電子によるメディア変換」(東京画廊)を開催し、「光や音ならびに人間の行動は、コンピュータによる電子化を通じて、CGや絵画に変換(さらには相互交換)が可能である」というコンセプトを具現化したインタラクティヴ描画装置《APM(Automatic Painting Machine)No.1》を発表した。CTGはその作品群と活動を通じて、コンピュータが単なる電子計算機にとどまらずアートを表現するメディアにもなりうることや、やがて「メディアを統合するメディア」になる潜在能力を持つことを示唆した。グループは3年弱の短期間に爆発的に作品を発表した後、69年10月に「解体」した。