テクノロジーは、基本的に社会制度上の枠組みに規定されているために、目的内での整合性(合理性はこの与えられた枠組み)でしかなく、結局のところ、その方法は効率を優先させた吝嗇の原則にのみ基づくほかはない。

科学は、世界の外部に位置する中立的な観察者という立場を前提とすることで真理への帰属という正当性を確保してきたが、この中立的かつ特権的な観察者の位置は、それ自身の立場を観察できないという意味で破綻せざるをえない。

芸術は経験主義的な主観の曖昧さから抜け出そうとして、テクノロジーの非個性的な方法に接近し、あるいは科学主義的な観察に依拠せんと試みてきたが、結果として、それぞれが抱える問題をそのまま抱え込むことになった。

テクノロジーも科学も自らの理論的な枠組みの正当性を自ら証明できないし、自ら規定することもできない。とすれば問題は、いかにその枠組みが生成してくるのか、その生成の揺れ動きをいかに捕捉するかというメチエの獲得にある。

科学は必ずしも一つの理論的説明に常には帰することができないような経験の即物的データをも保証しうる経験主義に戻っていった。データこそがシステムなのだ。事実の具体性は自然法則によって説明できるかもしれないし、できないかもしれない。出来事は起こる。そして出来事こそがリアルなものなのである。こうした与えられたデータに対する存在的な寛容さは、科学を一種のブリコラージュであるハプニングやアクション・ペインティングに類似した行為的な立場に導いていく。存在とはそれ自体が構造であり、量子力学において矛盾は、現実性の徴候であるということもある
 今日の科学者は普遍的法則に気を払うよりも事物が全面的に偶有性の中にある、あリ方を研究することに没頭している。新しい科学は科学者が何を行なったかという行為の集計──中世の教会を建築した無名の職人のように、個性を抹消したチームワークによる活動として捉えられるほかない──として説明されるのである