美術大学とコンピュータの関係は、コンピュータのハードソフトの発展ととも歩んできた。

1960年代に当時学生であった幸村真佐男は東京大学の学生であった槌屋治樹などとCTGグループを結成し、1968年にロンドンで開催された”サイバネティクス、セレンディピティ展”などに作品を発表して話題となった。

当時、美術大学の学生が利用できるコンピュータは、東京大学の大型計算機センターで、古くなったメインフレームを全国の学生の利用に供していたのが唯一であった。
言語は、科学計算用のフォートランか事務処理用のコボル、入力装置はカード読取り機、出力装置はXYプリンターかラインプリンターのみであった。
このような貧弱な出力表現媒体に挑戦して、実験的な美術創作が試みられた。
データは、ジャガード織機の型紙の様なパンチカードを環ゴムで束ねて持ち歩き、プロッターで出力した図形は、シルクスクリーン製版された。

当時のコンピュータアートやエコロジー運動は、ヒッピーなどに代表される反体制文化であった。

その頃、多摩川の近くの製品科学研究所にサザーランドのピクチャー・システム2が導入され、幾人かの学生が見学にいっが、高価な貴重品で、真っ黒な画面にオシロスコープのようなランダムスキャンの線画を画いてみる機会はめったになかった。

1973年に端山貢明、幸村真佐男、高橋士郎らが中心となって第一回国際コンピュータアート展がソニービルで開催され。
会場には富士通のミニコンが運び込まれ、毎朝、16個のトグルスイッチを操作して、穿孔テープをテープリーダーにローディングし、女子美大の田中四郎の学生作品が実演された。
この展覧会には、ナムコの前身である中村製作所がゲーム機を展示し、アスキーの西和彦が高校生アルバイトとして神戸から通って来た。

1970年代には、石田晴久の著書などによりマイクロコンピュータが広く普及するようになり、美術作家などが個人的動機と目的でコンピュータを組み立てて使用できるようになった。
NECからマイコンの組立キットTK80が発売されると、筆者も早速徹夜でハンダ付けをした。
明け方、例によって稼働しないマイコン回路にがっかりしながら、鏡をみると自分の顔がハンダの脂で真っ黒なので驚いたことがある。

1980年代になると、マイコンを組み込んだパソコンとラスタースキャンのモニターのセットが各社から市販されるようになった。
1983年から3年間、ナムコの中村雅哉社長から頂いた寄付金は、多摩美術大学の情報化の切っ掛けとなった。
この寄付金でNEC9800シリーズとその周辺機器やワープロを多数購入して、学校の中に実験的に配布することが出来た。
マックスベンゼンの情報美学の翻訳に挑戦していたグラフィックデザイン科の草深幸司はさっそくBASICによる作画の授業をカリキュラムに取り入れた。

1989年、美術学部が八王子へ移転した跡の上野毛校舎に、美術学部二部が新設されるのを契機に、コンピュータの授業が企画され、当時はまだワークステーションの時代に、多摩美術大学は、アップルジャパン社の武内重親社長と4年間の産学共同契約を締結してMAC2を30台を購入した。
米国で活躍していた卒業生の五十嵐威がデザイン学科長に就任、猪股裕一を中心としてパソコンによる美術教育のカリキュラム開発が始まった。
また、須永剛司を中心としてヒューマンインタフェースの授業が、アンドレアス・シュナイダーを中心としてインターネットの授業が開始された。

現在では、日本のデザイン界の大半はMAC党となっている。

また、1997年には、卒業生でありゲームメーカー光栄の副社長である襟川恵子の援助を受け、シリコングラフィックス社の最新機O2が多数導入され、ハイエンドなCG教育が可能となっている。

この度、新設された情報デザイン学科は、上野毛校舎での教育研究の成果を発展させ、美術学部での本格的な情報教育を開始しようとしている。

1998年4月から八王子校舎には、インターネット、イントラネットの技術を利用した全学的なキャンパスネットワークが構築され、グラフイックデザイン学科、環境デザイン学科、生産デザイン学科においても新しいカリキュラムが研究されている。

さらに、2000年には、メディアセンター棟が完成し、活動を開始する予定である。

物質世界の単元が素粒子ならば、観念世界の素粒子はビットといえる。
デジタル技術の進展によって、インターメディア、マルチメディアなどの新たな芸術の風景が創出されようとしている。