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広島被爆1か月の廃墟映す 日本映画社撮影か 爆心近くで遺体を焼却(中国新聞2007-08-02)

◇中国放送が映像所蔵

原爆による広島市の惨状を翌月の昭和20年(1945)9月5日に記録した動画が現存していた。爆心地近くの本川国民学校での遺体焼却など生々しい光景を収めており、大戦中にニュース映画を製作した「日本映画社」が撮影した可能性が高い。中国放送(RCC)が所蔵し、2007-08-02 午後6時16分からの「イブニング・ニュース」で初放送する。

16mmフィルムに複製されていた5分45秒の映像を中国新聞社が原爆資料館と検証し、撮影場所などを突き止めた。

映像は、トラックの荷台からカメラを回し、縮景園跡から八丁堀を経て、路面電車の残骸が傾く相生通り沿いの廃虚を移動撮影し、県産業奨励館(原爆ドーム)を撮らえる。

更に、「救護病院」と書いた板をコンクリート校舎に吊るした本川国民学校、運動場で筵を被せ遺体を焼く場面を写す。墓石も無残な国泰寺、被爆2日後に比治山国民学校に設けられた「迷兒まよいご収容所」を収め、最後に「撮影九月五日」の手書き文字が表れる。

撮影場所は、昭和天皇が広島へ派遣した永積寅彦侍従が9月3日に視察した行程と重なる。日映が同行し、侍従が雨の爆心地一帯を歩くニュース映画は同22日に公開されている。

今回見つかった映像は、トラックを調達した撮影や、侍従が視察した本川、比治山国民学校でも撮影している事から、日映の関係者が晴天となった5日に撮り直したとみられる。

中国放送(RCC)によると、テレビ放送を開始した昭和34年(1959)以来の所蔵フィルムを整理した際、「原爆投下直後実写」と箱書きされた16mmフィルムが見つかった。入手経路は不明という。2日午後6時16分からの「イブニング・ニュース」で放送。後日、全国放送する予定。


ヒロシマの空白再生 被爆1か月の映像現存 「ニュース」未収録分(中国新聞2007-08-02)

原爆で壊滅した広島市の実態を直後に収めた映像が、62年ぶりに蘇る。中国放送(RCC)で見つかった16㎜フィルムについて、同社の協力で貴重なカットを紹介し、埋もれていた原爆記録映像の「謎」に迫る。

広島の惨状を記録した現存する最も早い映像には、国策の社団法人「日本映画社」による「日本ニュース第257号」がある。昭和天皇が派遣した永積寅彦侍従が昭和20年(1945)9月3日に雨の被爆地を視察する光景などが同月22日、「原子爆弾 広島市の惨害」のタイトルで公開された(現在はNHKが所蔵)。

今回の映像は「撮影九月五日」とあり、当時の新聞記事にも残っていた侍従視察先の本川国民学校での遺体焼却など生々しい光景を収める。だが、その場面は「第257号」で扱われていない。占領統治を始めた連合国軍総司令部(GHQ)が9月19日に発したプレスコード(報道検閲)が影響したとみられる。

原爆被害の報道が禁じられた例に、やはり日映が製作した「広島・長崎における原爆の影響」がある。旧文部省の原爆災害調査団に同行して10月に本格的な撮影に入った記録映画は、米軍の指揮下に置かれ、完成した翌年5月に接収された。

その映画を製作した加納竜一さん(昭和63年=1988=死去)らが著した『ヒロシマ二十年』は、「第257号」について「侍従に、東京本社のカメラマンが同行した」と言及する一方、詳細は撮影当時から不明としている。

また、比治山小が保存している昭和20年(1945)当時の日誌には「侍従 迷子収容所ニ御来校」との記述が残る。子どもらを世話した元同校教諭の谷村保子さんは「こんな映像があったなんて」と驚き、「写っている女性は市から来ていた保母さんではないか」とみる。

昭和天皇が派遣した永積侍従の視察先に沿った一連の撮影場所や、トラックを使っての移動撮影などから、大戦中から唯一のニュース映画製作集団だった「日映」の関係者が、侍従が広島を去った後も留まって撮影したとみて間違いないだろう。それが16㎜フィルムに複製され、RCCに持ち込まれたとみられる。

広島市の『図説戦後広島市史』の編纂者で、映像を見た松林俊一さんは「原爆の凄まじさが伝わってくる。『原爆投下はしょうがない』などと恐ろしいまでに風化が進む中で、この映像が現れた意味は大きい」と指摘している。


原爆投下から1か月~1945年9月5日の未公表フィルム その1(中国放送イブニング・ニュース2007-08-02)

被爆後のヒロシマを映した最も初期のフィルムの1つがRCCの所蔵庫で見つかりました。2日と3日の2日間でそのフィルムを特集します。この映像は原爆投下から僅か1か月後の昭和20年(1945)9月5日に撮影されたヒロシマです。「被爆の生々しさ」「復興への第一歩」その映像は見る人の心を揺さぶります。

フィルムは、被爆した馬の映像からはじまります。爆心地から1・3kmにあった縮景園。トラックの荷台に乗ったカメラマンは、そこから南へ下りまだ人影もまばらな八丁堀周辺を映し出します。

このフィルムには昭和20年(1945)9月5日のヒロシマが5分45秒間にわたり記録されています。今から62年前、誰が撮影したのか?フィルムの入手経路などRCCでも正確なことは分かっていません。

地元新聞社で17年間にわたり、原爆記録の掘り起こし作業を続けている中国新聞社の西本雅実編集委員は「瓦礫」の多さを指摘します。

「この映像が凄いのは瓦礫が物凄く生々しく残っているとこですね。広島は9月17日、枕崎台風で広島県内2000人の死者が出ますけど、それで原爆の瓦礫って物凄く押し流されるんですよ」(西本編集委員)
「広島の町は一昼夜燃えているわけですから、その燃えた灰がたくさん積もって、その後大勢の方が亡くなってるわけですから、あっちこっちで焼いたりして、独特の臭いとかそういうものがずーっと町に染み付いてんだそうです」(原爆資料館・菊楽忍さん)
原爆投下の目標となった相生橋の欄干が消滅しています。

「ここに迷児収容所って看板が見えますけど、これは比治山小学校です。当時の比治山国民学校。あの原爆の2日後に迷児収容所が置かれますけど所謂市が引き取り手のない子どもを収容する所で(西本編集委員)
現在の広島市南区。当時と同じ場所に比治山小学校はあります。

「これですね」
終戦から62年。当時の事を記録した日誌が、歴代の校長先生に引き継がれ今も大切に金庫に保管されていました。
「昭和20年8月6日快晴午前8時15分高性能曳光爆弾落下の為児童約30名重軽傷者を出し校舎9分通り破損す町内より負傷者来校救護所において手当て施工す午後3時より」「昭和20年8月8日晴午後4時市収入役孤児連行迷児収容所開設さる」(日誌より)
「余談ですけど多分この人たちやらせだと思います。戦争終わって、親は帰って来ないわ泣いてるわ、飯食わせるだけで大変っていう、校舎使ってこんな事しないですよ。これ多分ね、侍従が来るからだと。だってお遊戯してるでしょ」(西本編集委員)
撮影日は9月5日でしたが、この2日前の日誌に永積侍従が収容所を訪れた事が書かれていました。

「昭和20年9月3日雨午後永積侍従迷児収容所に御来校詳細ご視察の上有難き御言葉御伝達あり一同感激す」」(日誌より)
「これは本川小学校ですね。このフィルムで一番凄いのはこっからですね~これは救護病院にですね、救援隊が入られた、所謂遺体を焼いてるんですね。塗炭を置いて」(西本編集委員)
あの日、400人の子どもたちが一瞬にして命を失った本川小学校は、翌日から臨時病院になりました。県立吉田高等女学校の教師として2年目の夏を迎えていた青山恭子さんは8月12日から1週間この本川小学校で救護にあたった1人です。

「火傷したのか、ずるむけになっとるからね。薬ゆうたってどれだけあっても足らんのです運んで来られた人が何日生きているかって事は昨日元気だった人があくる日行ってみたら莚が被せてある。グランドの隅っこに穴掘ってそこで焼くのも仕方なかったかもしれんけど、そこで煙が絶えないぐらい毎日毎日人を焼くっていったらどれだけ沢山の人が亡くなったかと思いますし、私らも65歳までよう生きんじゃろと思っていましたけどね」(青山恭子さん)
明日は、本川小学校の映像を中心に2回目をお伝えします。


原爆投下から1か月~1945年9月5日の未公表フィルム その2(中国放送イブニング・ニュース2007-08-03)

2日と3日の2回に分けて原爆投下から僅か1か月後に撮影したフィルムをご紹介します。フィルムの舞台は昭和20年(1945)9月5日のヒロシマです。原爆の破壊力と再生への第一歩を踏み出した貴重な映像が5分45秒間にわたり記録されていました。

RCCの所蔵庫で見つかったもので、被爆後のヒロシマを映した最も初期のフィルムとみられます。一体、誰の撮影かははっきりしませんが、撮影場所がこの日の2日前被爆の惨状を視察するため昭和天皇が派遣した永積侍従の訪問地と重なる事から、同行取材した日本映画社の撮影という見方が濃厚です。

2回目は本川刻印学校での救護活動に動員されたためにその後、ずっと病気に苦しめられた女性の話です。

苦しめたのは病気だけではありませんでした。爆心地傍の本川小学校は、被爆の翌日8月7日から救護所として利用されました。晴れた日は、毎日のように遺体を焼く煙が校庭の片隅から立ち上っていたといいます。

薬が不足する中、介護にあたったのは三次や東広島などの高等学校に通っていた女学生でした。三次市にあった三次高等女学校。終戦後の8月19日、200人余りの生徒が救護活動のため広島に向かいました。大江賀美子さんと中倉アサコさんも廃墟となった広島に着きました。

「驚きました。泣く泣く歩きましたよ」
―何故涙が?

「日本が負けた事がね。終戦になって。凄く愛国心の強い女学生でしたから。廃墟を見てびっくりして涙が出て、それで人骨を踏みながら、何も物を言わなかったね」(大江賀美子さん)
2人が救護活動をする事になったのが映像にある本川国民学校でした。今の本川小学校では、当時の校舎の一部を資料館として保存しています。

「こんな階段でしたよね。夜真っ暗でね」(中倉アサコさん)
「あれあれ本当、ちょっと見るのも何とも言えない、あの当時を思い出したら」(大江賀美子さん)
負傷者で溢れかえった校舎で寝泊りしながら、2人は被爆者の傷に付いた蛆
うじ
をとったり、食事を運んだりしました。
「ザラザラした所に粗莚が敷いてあって、頭を揃えて全部被爆した人が並んで、夜は呻き声と痛いよと。子どもが痛いよといってもお母さんは何もできんからと」(大江賀美子さん)
「私が一番怖かったのは夜中にトイレに行きたい。被爆者が助けて助けてと足を掴む。踏みつけるようになる。どうしようかと思った」(中倉アサコさん)
1週間の活動を終えて、女学生たちは三次に帰りました。その直後から大江さんの体に異変が起こります。吐き気や下血などの症状が半年ほど続き、全身の「だるさ」に1年間も悩まされたといいます。

「何かあの子はおかしい、毒を吸ったのではないかと煎じ薬をお母さんが作って飲ませた」(大江賀美子さん)
結婚して子どもを出産しましたが異変は続いていました。乳癌をはじめ、胃癌や卵巣癌が次々と見つかりました。

「癌の原因は原爆の放射線だ」―大江さんは二度、「原爆症」の認定を国に申請しましたが、却下されました。国の審査基準では被爆から13日も経って広島に入った大江さんのようなケースが「原爆の放射線の影響がある」と認められる事は殆んど無いからです。

大江さんは国の認定却下の取り消しを求めて裁判の原告になりました。去年8月、広島地裁は大江さんの癌の原因が「原爆放射線」と認めました。爆心地に近い場所で活動した事により、建物や被爆者の体などから残留放射線の影響を受けていたとしたのです。しかし、国は判決を不服として控訴しました。

「地裁で認めて頂いたのに、何で高裁でこんなこと言われるのかと思う」(大江賀美子さん)
当時、残留放射線が人々にどんな影響を与えていたのか。フィルムには今も解明されていない、否、国が解明してこなかった「原爆被害の闇」が映されているのかもしれません。

見つかったフィルムが原爆被害をきちんと今の社会に伝える、そして政府に伝える手掛かりとなって欲しいですね。このフィルムについて何かご存知だという方は番組の方にご連絡下さい。