佐渡の製鉄と鍛冶
(1)製鉄跡
�安養寺穴釜遺跡(佐渡市安養寺字穴釜。鍛冶が沢)
1)穴釜から出土した木炭から放射性炭素14の年代測定結果は、710~890年。佐渡で初めて見つかった古代の砂鉄精錬跡。
2)大和田の山中にある鍛冶が沢。鍛冶が沢には、沢一面に製鉄くずや木炭が分布あい、沢に向かって右側の傾斜面に、数m離れて2ヶ所の横穴があった。
そのうち1基は山の傾斜面に幅1.2m、高さ1.5m、奥行1.2mの横穴。
a.奥の壁には煤(すす)が付着し、焼けた径20cmのエントツの孔(あな)がある。
b.天井部は焼けているが煤が付いていない径30cmの径が、それぞれ山の上面に抜けている。
c.横穴の前部は天井が残っていないが、床面は前方へ傾斜し横穴前部へ側壁とともにつづき、さらに奥壁部をまわって左右側壁ぎわには幅10cmの溝が設けられている。
d.横穴前部の左右壁には、1ヶ所ずつ位置をすらして縦に幅30cm位の凹部がある。
e.横穴前部から奥壁までの全長は4m。
f.横穴内外に、製鉄くずと木炭が多量に出土。
調査は1963年6月。「エントツ状の孔が数本もある構造の横穴は、日本のどこにもまだ発見例がない」「佐渡における『穴釜』の大きな特徴は、送風装置としてのタタラ(鞴)がなく、燃焼によって自然に風が吸い込まれる自然通風路であることと、炉が横穴状構造を持っている」(『金井町史』1979年刊)
3)安養寺穴釜遺跡近くに安養寺古墳がある。
a.出土品は盗掘をうけているが、刀子(とうし:鉄の小刀)2点・鉄鏃(やじり)・金環(イヤリング)1点、土師器(はじき)高盃4点、土師器マリ1点、須恵器片、人骨。
土師器の盃や高杯はどは死者への供え物をかざるのに使用したもので、型式・年代は佐渡各地の古墳出土品とほぼ同じ7世紀のもの。
b.穴釜同様山中にあることから、農耕民でない製鉄・鍛冶の専門集団がいて、その長の墓であるかもしれないとの見解もある。
4)金峯神社(佐渡市上横山)は、安養寺穴釜遺跡からは比較的近い。上横山に対し隣同士の下横山にも、似た名前の金峰神社がある。
a.祭神:金山彦守(製鉄の神)、菅原道真
b.由緒:上横山地区の産土神(うぶすながみ)で、天平年間(729~748年)に勧請。
�その他の製鉄跡
大和田の鍛冶ヶ沢穴釜、野坂穴釜の野坂穴釜、加茂歌代の井戸沢穴釜、同じく加茂歌代の穴釜山穴釜など。
(2)鍛冶の名残り
その昔 鍛冶師の集積した地には、それに係わる地名が残っている。
�鍛冶町(佐渡市鍛冶町)
1)河原田本間家は、1300年代相模国(神奈川県)から守護代として佐渡の統治を鎌倉幕府から任された本間家の子孫で数多くの分家で頭角を現わし、戦国時代には佐渡の二大勢力の一つとなった。1589年上杉景勝の佐渡攻めによって滅ぼされるまで河原田城下を統治。
2)町名に、鍛冶町が今日でもある。
町名例:鍛冶町、うるし町、塩屋町、大坂町、朱母衣町など。
3)鍛冶町は、製鉄跡の野坂穴釜、また金山で繁栄した相川からは夷・湊と比べてはるかに近く、湊のある沢根とは近隣。沢根には、石見出身(島根県浜田市)の佐渡有力な廻船問屋 浜田屋(先祖は石見銀山の山師、当初の狙いは鶴子銀山)がいて、石見や出雲から鉄を買って佐渡にも販売した。
�鍛冶屋(佐渡市赤泊・徳和)
1)山間平野部に「鍛冶屋」というバス停があり、この地区の過去帳や鉄くずなどの出土品から、精錬所・鍛冶屋があり鍬や鎌などの農耕具や刀などが作られたとされる。
2)比較的近くには、砂金で有名な西三川砂金山がある。
a.砂金といっても砂金ばかりでなく、砂鉄の方が圧倒的に多い。(黒い石が砂鉄で、その中に金がある)
b.赤泊・徳和の藤井火倉家は、本龍寺(赤泊・莚場)の檀家で、明治の頃まで鍛冶屋をしていた。先祖は、1465年頃に愛知県から河野道場・一向宗徒と一緒に佐渡に来た仲間の一人と伝えている。目的は、西三川砂金山。
(詳細は、08年7月11日号「佐渡の寺院17:智光坊」)
�地名はないが、鍛冶職人の多くいた地区が、両津・夷(えびす)町の中にあった。
1)夷町の鎮守 諏方(すわ)神社の末社に金山彦神社があり、旧称 夷町・夷新町・谷地(やち:春日町)の鍛冶仲間によって建立された。
(07年5月16日号「佐渡の祭15:両津まつり」)
2)製鉄遺跡の穴釜が加茂歌代で2件見つかっているが、隣接地は鍛冶屋が多く居た夷と谷地。
3.まとめ
�佐渡の製鉄がいつ頃から始ったかの文献はない。従って、製鉄遺跡が唯一の手掛かりであることは、日本全国どこも同じ。佐渡の場合、穴釜に残る鉄片や製鉄くずが多量にあることで、それによって土器や塩などを作る釜でないことの見分けがつく。そして、専門家によって年代の推定がされる。
1)安養寺穴釜遺跡の年代推定は、西暦700~800年代。
2)地方豪族の墓=古墳に注目し、佐渡で最も古いとされる古墳の出土品に着目。
佐渡で見つかっている古墳は現在41基、その中で最も古いとされるのが、古墳が一定地域に集中している二見半島古墳群。
a.大佐渡の西端の二見半島にある。そのまま西に海を越えて行けば、能登半島、丹後半島、出雲・石見、その先は北部九州か朝鮮半島に向かう。
b.二見半島古墳群は、6世紀中頃。
佐渡には製塩遺跡が多くあり、西日本との交易によって利を得て富の格差が生じ、豪族が各集落に輩出したと考えられる。
3)古墳群を構成する主な古墳からの出土品は、次のとおり。
・台ヶ鼻古墳:鉄刀・鉄片・須恵器・耳環・人骨。
・谷地3号墳(大浦):鉄刀・土師器・須恵器。
・橘古墳:刀・鉄鏃(やじり)・鍬・鎌・土師器・須恵器・管玉・切子玉・臼玉。
・沢根古墳:刀子・馬具・須恵器
参考:「刀子(とうす)」は、物を切る・削るなど加工に用いる農工具の一種で、小刀のようなもの。
4)「6世紀中頃」であるから、西暦550年。
a.鉄製品の武器も農耕具は、全て島外からの移入品であるとは考えられない。
b.鉄製品は既に佐渡のどこかで作られ、製鉄はもっと古い西暦500年代の遺跡が発見されていないだけの話。それらの近くにある製鉄遺跡には「野坂穴釜」があった(年代は不明)。
�「製鉄は、6世紀半ばに九州・中国地方で始った」という通説からいけば、佐渡の方が、それらより早いと言える。
1)歴史ロマンになるが、何処の誰が?となると、鉄器文明を東アジアにもたらしたタタール人。
2)何処から来たか不明だが粛慎人(しゅくしんじん)が、544年に佐渡に来た。
今日でも、外海府海岸にロシア文字やハングル文字のペットボトルなどが漂着。それ以前に北方系民族が何かの拍子に佐渡に流れ着いても不思議ではない。752年渤海国使節団75人が佐渡に来た。画像は「敦賀の歴史」http://homepage2.nifty.com/tsuruga/bokkaisi.htmlから勝手に借用。
3)外海府にダッタン塚があるが、ロシア語では「タタール」塚となる。以前、同級生のK女史から、「高千(海府)美人」と「ロシア正教の信者が海府にいた」ことを聞いた。最大といってもよい関心事が、ロシア正教。この正月に会ってその事を確認すべく尋ねると その人は亡くなったが郷土史にあるはずと自信を持って応え、当然といわんばかりであった。
a.ネット検索と『佐渡相川郷土史事典』で調べたが、無い。しかし、大いに有り得ると思っている。江戸時代キリスト教徒への弾圧の激しかった長崎において、数百年来信者の秘密を代々守り続け、明治維新後信教の自由が認められるようになって名乗りを上げた人がいたほどであるから納得できる。佐渡は徳川の直轄地であり弾圧は厳しく、多数の信者をそこで処刑したというキリシタン塚がある。
b.海府の人 自らの書き込みに、当地は「海府美人」といわれる美人の産地で、目が青く肌が白いという記事があった。北方系民族の血が混じっていることには肯定的で、DNA遺伝子が何かの機会に稀に発現することもあるのだろうとの見方をしている。
c.900m級のどんでん高原は、草原でタタラ峰の名があり、タタラ製鉄が行われていた可能性があり、そのようにも伝えられている。タタラ製鉄に必要な木炭を得るために木を伐採、芝など生えているがそれがなければ禿山(はげやま)同然。牛の放牧地として中国山地とは、まったく似ている。
�付記
1)上横山の金峯神社
昨年6月頃の関心テーマが能舞台巡りにあったので訪問。小さな鉄製の鳥居が掲げてあったのを記憶している。その時は、鉄のことなど眼中になかった。
(08年6月28日に訪問。6月30日号「佐渡の能楽12:能舞台巡り(加茂歌代~安養寺)にあるが、鉄の鳥居については触れていない)
2)能舞台巡りの中で昨年7月偶然、真野・倉谷の智光坊を訪れその彫刻群に感動し、それ以来神社・仏閣の拝殿にある彫刻作品・彫刻師に関心を持った。
a.その時初めて、それを彫る鉄製道具は佐渡で作られたかどうかに興味が沸き起こった。(08年7月11日号「佐渡の寺院17:智光坊」)
b.新穂・根本寺では、二王門の仁王像の足元に先に金峯神社で見た時と同じような鉄製鳥居が立て掛けてあった。今度は鉄製鳥居の入った写真を意識的に撮った。当時は「根本寺はなぜ大きくなったか、それは金山の山師の支援による」ことを知った喜びの方が大きく、関心は鉄に及んでなかった。(08年7月22日号「佐渡の寺院22:根本寺」)
3)昨年末、ひょんなことで久々に名古屋出身・新進気鋭のコンサルタントT氏と新潟で会い、翌日飲食を共にした。その際名古屋出身であることから書籍『佐渡広場�』を用意し、「羽茂言葉は名古屋弁」(07年11月14日号)の所を開いて見せた。
a.彼は、佐渡の羽茂弁が名古屋弁と同じことに非常に驚いた。「似ている」次元を越え、「全く名古屋弁そのもの」とのことだ。岐阜の方言に佐渡夷と同じ言葉があるのを知っており、夷のもんが羽茂弁を聞くより、岐阜の方がよく解かるに違いないと冗談に言って笑わせた。魚のフグは、羽茂・小木ではフクであり これは下関・博多と同じだが、夷・湊などではフグである。従って、佐渡弁という一般的なものはなく、地区の事情・歴史でそれぞれ異なり 簡単・単純に捉えられるものではない。むしろ日本の他地域に比べ日本各地との係わりが非常に多くあって複雑ということだ。
b.なぜ、佐渡の羽茂言葉が名古屋弁であるか、私の歴史ロマンはこうである。
・1450年代に西三川砂金山を目当てに、一向宗・河野道場の門弟=技術者集団が愛知から佐渡に渡り、赤泊で道場(現、本龍寺の前身)を開いた。
・定住した一部は、鉱山技術を生かして農耕具や建築金物などの鍛冶屋となった(赤泊に「鍛冶屋」のバス停があり、鍛冶屋ヶ沢という地名ある)。また、その鍛冶屋の中に建築金物を通じて宮大工の棟梁になる者が現れた。
・羽茂に名門番匠(大工)の「高野」家があり、それは元々も出身地「河野(こうの)」と読み替えることができる。同じく羽茂で名門番匠の鴉田(からすだ)家は本家の姓は「藤井」である。愛知から赤泊に本龍寺とともに来たことがハッキリしている赤泊の藤井火倉家は、明治まで鍛冶屋をやっていた。
広く羽茂地区には、名門大工が2軒ありいずれも愛知の出身。その地区には、佐渡一の宮・度津神社(わたつ・じんじゃ)があり、小比叡には佐渡一広い寺領を持つ蓮華峰寺がある。
・皆、技術者であり一向宗の先生であったから、名古屋弁がその地に普及・定着した。
�日本の高炉メーカーの製鉄主要原料である鉄鉱石は、大半が輸入に頼っている。一方、日本で資源豊富なのは、くず鉄。それが、電炉による製鉄原料となる。くず鉄は古紙同様 輸出されている。
1)5年余り前になるが、新潟県燕市にある電炉の工場を見学した経験がある。今はどうか分からないが、当時は日本一(あるいは、世界一)の最新・巨大設備であると聞いた。
2)見学して強く感じたこと、
a.鉄は国家。日本は、廃自動車などの鉄スクラップに関しては資源大国。
b.電炉業界は、化学反応を利用し鉄スクラップから新たな鉄鋼を生み出すリサイクル産業。
c.ガラス越しから作業風景を眺めると
・数人の作業員が全身防護服に身を固め、棒を持っている。
・棒を炉の中へ入れ、灼熱・溶融した鉄をすくい出す。非常に危険な作業で、まさに戦っている雰囲気。
・品質などの状況を確認するために行う。最終的には、データなどでなく人間が実物に触れた感覚による判断がものをいう。
3)佐渡の野山を歩いていると 人の行き来がほとんどない所に、車が捨てられているのを見つけることがある。不法投棄。
鉄を作るのにどれだけの労力と資金がかかったか、天然資源は有限で 風化した資源は戻って来ないことを考えると非常にもったいない話だ。目先の採算云々では無い。後世に係わり 影響を及ぼす事柄。
誰がやったか見つかれば、行政は当然罰金を取る。わからなければ、効率的に一斉回収して業者に競売。利益が出れば次の環境予算に組み入れる、損失が出ればその分は住民負担=環境税として上乗せする。他に名案・手立てがなければ、それも止むを得ない。
以上
追記:佐渡における「タタラ」の意味 09年4月8日
『故里つばき 佐渡椿村落史』(編集発刊 荻野よしゆき 2008年刊)に、次のことが書かれ、非常に参考になったので追記した。
・タタラ峰=ドンデン山について、古い地図には「タタラ峰」の名が多い。
1836年(天保7)の「越湖勝覧鳥瞰図」には、ドンデン山は「多々良嶺」となる。
・佐渡の他の地にも「タタラ」の名前がある。
柿野浦から新穂へ抜ける頂上付近に「タタラ野」というなだらかな草原で松がボツボツ生えている場所があり、「牛タタラ」という場所もあって、ここは平らなカヤ場。豊岡に「牛タタラ」、月布施に「タタラ」という地名がある。
いずれも、なだらかな平地で牛馬の放牧に適した場所であるという。
・これらの諸説を総じてみると、地形を元につけられた地名で、草地になる場所が「タタラ」と呼ばれ、「タタラ峰」の語源になったというのが有力。
(「タタール(人)→タタラ(製鉄)→タタラ峰(製鉄によって木が生えず草地のみ)」の解釈には、無理があるということだ)