「ウナネ」および「ウナネ社」について (上)- 伊賀・陸奥・上野・武蔵の事例から -
牛山佳幸
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はじめに
 「ウナネ」は「宇奈根」もしくは「宇虚根」の字を当てることが多い。「ウナネ社」というのは、中世史研究者にとっては比較的なじみのある社名であろう。と言うのも、中世を代表する荘園である伊賀国黒賑荘内にこの神社がかつて存在したし、また昨今、荘園絵図などの絵画資料を読み解くことが一種のブームとなっているが、その中でもよく取り上げられる『陸奥国骨寺村絵図』にもこの神社が登場するからである。「ウナネ幸しの性格については、現在までのところ二つの説があって、一つは用水の守護神とするものであり、もう一つは洪水除けの神とするものだが、前者がほとんど通説化しており、後者は少数派に属してきたと言ってさしつかえない。私は
「小社の歴史学的考察」を志して以来、この神社に注目していたが、やはり本来は、一貫して洪水の除去を祈願するために勧請された神
社であるとの結論を得るに至った。小論はこの問題について、これまでに存在したことが判明している四ケ国の事例を個別に検討しつつ、若干の考究を試みようとするものである。
一、
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 史料上、最も古くまでその存在が遡りうるのは、伊賀匿の.「ウナネ社」である。『日本三代実録軸貞観三年(八六一)四月十日条に、  授帰伊賀國正六壁上高蔵神、阿波神、高松神、宇奈根神並従五  属下一とあり、同書貞観十五年(八七三)九月廿七日条にも  授二伊賀醒……(中賂)……従五位下佐々神、肉感神、阿波神、  宇奈根神気従五位上一…とあるのがそれで、r貞観年間に従五位下から従五位上に昇叙されたことが知られる。また、延長五年(九二七)成立の『延喜式』巻九、神祇九の神名によれぽ、伊賀国定五座、名張郡二座のうちに「三流富志弥神社㎏が所見されるが、新訂増補国史大系本の底本となった享保八年板本では「ウナネノブシミノ」と訓じ、内閣文庫本や吉田家本なども「宇流」に「ウナネノ」と傍訓を付しているように、これを宇奈根神と同~とみなすのが通説となっている。このことが認められるとすれぽ、伊賀国の「ウナネ社」は十世紀初めまでには神階を授与されたのみならず、官社にも列する程の、地方有力神社に

183rウナネ」および「ウナネ社」について(上〉牛山
  図1 伊賀国(三重県)の宇奈根社(宇流富志禰神社)の現在位置
成長していたということになるだろう。 当社の鎮座地は平安期には、名張郡夏見郷簗瀬村に属したと推定されるが、この村がのちに東大寺領黒田荘の百姓の出作り地となったため、当地の領有をめぐって東大寺と国衙との抗争が長らく続き、これ以降も東大寺文書などの悪相荘関係文書に、その社名をとどめることになった。はじめに述べたように、豊富な黒田荘研究の中で触れられることも多く、中世史研究者の間でもよく知られた神社であるのもそのためである。 まず、東大寺文書の康保三年(九六六)四月二日伊賀国名張郡夏     (1)三郷刀禰等身案の署判部分に、     (術力×ママ)   夏見郷刃刀銘等         (ママ)     宇奈根祉認識部在判                     伊賀忠光                     志貴重則 (2)とある。この文書の内容は、右衛門督藤原朝成が伝領した薦生牧
(村)を立券申請しようとしたところ、それが東大寺懸板蝿杣(黒
田荘の前身)の四畿内にあるというので、東大寺側からの申請に基づいて調査に当たった在地刀禰らが、各々の四至を確定して勘申したものである。当時、宇奈根社には近郷の刀禰を勤める在地有力者が、その祭祀をつかさどる祝に就いていたことを示している。 これに次ぐのは東京大学所蔵文書の寿永元年(一 八二)八月廿       (3)五田藤原宗未起請文である。これは藤原宗末が源宗清なる者から借金の担保に手に入れたその私領、名張郡矢川村(のち黒田荘の一部)内の二段半の地に関わる本券文を亡くしたため、在地刀禰らの

で震ξ 門・1大 掌 教 育 学 音1ζ 糸己 要 蟹α80182
証判を得て作成した、いわゆる紛失状で、その謡講の詞の部分に、  藩士件券宗宋乍レ持不レ持ト申候者、當國当郡鎮守、心境宇奈根  大家子大明神、別ハ大佛八幡之罰藤原宗末女毎二毛穴一可レ蒙レ罷  候者也                おおやけこと述べられている。宇奈根大明神が大家子大明神とともに、郡鎮守として崇敬されていたことがわかる。ちなみに、大家子大明神は                おけご          ハイ 
「大宅子砿とも表記し、近世には「要素社」(『伊水温古』)、「樋子
春月(・宗鼠罫、穂子明神蓄髪(      (6)『三古地志』)などと呼ばれていた。明治四十}年(一九〇八)に黒田村(現名張市黒田)の勝手神社に合祀されるまで、宇陀煩左岸の井手村(現名張市井手)に                      ア あり、本来ぱ国衙領の鎮守であったとみられている。この神社が黒田荘の荘鎮守神として取り込まれていく過程については、黒田日出   (8)    (9)天頂の研究に詳しい。 鎌倉期に入ると、元久元年(一一}〇四)頃のものらしい東大寺図                    (10)書館所蔵左近吾長吏等詩裏文書の黒細新荘麦空解に、新荘(かつての名張郡矢川・中村両郷)の畠二十二町三段の地子麦が免除された寺社領として、「二反宇奈根若宮しが挙っている。これは新荘内に宇奈根社の末社が勧請されていたことを示す注目すべき史料であろう。新荘は宇多川の右岸、およびその支流矢川に沿った地だが、こ                    (11)の若宮のその後の経過についてははっきりしない。ついで、一誠堂                      (12)待費文書の建治二年(一二七六)黒田荘官物量解断簡を見ると、合計七十八町百歩のうちの除分として、「宇奈根神賑壼反しと「宇奈根御供免参反」がある。十三世紀後半になると当社に神田・御供免がそれぞれ一反と三反が給されており、完全に黒田荘内の鎮守と化
していたことが知られる。同文書には、ほかに「宇奈井壼丁七反」という記載がある。前後に「佐久里島井新」とか「葦宇津新井新一なども見えるところがら、おそらくは井料田のことかと思われるが、宇奈根社とどう関わるかは不明である。 以上に関係史料を掲げてきた伊賀国の「ウナネ社」については、いろいろと問題点も多いのだが、そのことは第一に、近代に至るまでしぼしぼ社名が変化したことと無縁ではない。『延喜式』に所見される神名からしてそうである。先述したように、「滞流富志弥神祉」は現存する写本や版本では「ウナネノ」、もしくは「ウナネノブシミノしと訓じられているため、菊岡行宣の『伊水温故』が「宇れママ 名根之社延喜式小名砂面」とするのを除けば、これを宇奈根社と同
一とみなすのが近世以来のほぼ通説となっており、古代、中世の史
料に見える宇奈根社の後身として有力視されてきた、名張市平二字藤ノ木三三九番地に鎮座する神社も、明治以後は『延喜式』の社号          ねに基づいて、「宇流麗志鷲神社」と改称して現在に至っている。と             みころが、『延喜式』諸本では「弥(彌)」とあるのに、現在の表記は ね                                        (13)
「禰」としていて、どちらが正しいかをめぐってまず議論がある。この点はいずれ誤字・誤読に由来するものと思われるので、深くは
言及しないとしても、「志学」を「ウナネ」と訓ずることは、新訂増補国史大系本の頭注でも「未レ知二其所p難しとするように、国語学的にはこのような訓じ方、ないしは音韻変化の過程を十分に説明することはでと刻、『延喜式』所載の神名と、『日本三代実録』や東大寺文書に所見される宇奈根神を同一とみなすことには、なお疑問の余地があるとする根拠となっている。

181「ウナネ」および「ウナネ社」について(上)牛山
  般に、荘園綱の解体などの社会的変動が顕著となる中世後期には、当初の由来が忘れられたり、神格が変化する神社が増加する。そのため、近世以降、国学や復古神道の成立に伴って『延喜式』や国史に所見される神社の見直しが始まると、一社に対して複数の神社が名乗りを挙げるケースも現われたが、宇奈根社についても同様であったらしい。当社の場合、最も有力とされているのは、既述のように名張市平尾に鎮座する宇流富志禰神社であり、その根拠は同社所蔵の元和二年(一六一六)の棟札に「宇奈根大明神」、境内の石造手水鉢に「宇奈根 天和浄福年 春日大明神 伊賀國名張郡           (15)仲夏吉祥日」と記されていることなどだが、近世には「春日明神」                    (16)もしくは「春醐神」と通称されていた神社である。一方、名張市夏見に鎮座する積田神社所蔵の慶長五年(一六〇〇)の棟札にも「宇       (貯)奈根大明神」とあることは、かつてこの神社も宇奈根社と考えられていた時期のあったことを示している。積田神社が宇奈根社とされ       (綿)たのは、『春日社記』等に春日神遷幸(御成)の旧跡地として「御成宮」、あるいは「宇成宮」とも呼ばれたことがあると記される点からして、音韻が似ていることに因むものだろう。なお、宇流富志禰神棚や積田神社がかつて春田社と呼ばれたり、春曇神遷幸に関わる伝承を伝えている点については、平安・鎌倉期に興福寺の春日塔寄人や東円堂寄人のような寄人・神人集団が、造営修理のために泉木津を結節点として、宇陀川・名張川水系の交通組織の旧い手となったことにより、名張郡内に春日明神信仰が押し広げられたとする、黒田日出男氏の見解がある。このほか、藤堂元甫の『三国地志』巻之七十九の宇流富志禰神社の頃には、『東大寺寳蔵素図』なるもの
を引いて「簗瀬條宇船明神」と記すが、これによれぽ近世以前には宇船明神と呼ばれたこともあったようである。 さて、この宇奈根神の性格については、これまで黒田荘をフィ…ルドに精力的に研究された黒田日出男氏が、「名張郡の用水の神」         (玲)であると指摘されているが、その根拠については別のところで「簗                    (20)瀬の耕地への用水の取出口にある」と述べているだけである。注に                       (更2)よれば、この見解は義江彰夫氏の「初期中世村落の形成」という論文に依拠したものらしい。そこで、義江氏のこの論文を見ると、初期中世村落における在地刀禰の代表的な事例の一つとして、夏見郷刀                (ママ)禰であった礒部某を取り上げ、「宇奈抵社」の神宮として在地の祭式を編成する主体ともなっていたと指摘するとともに、「伊賀国名張郡村落概略図」なるものを掲げて、地図上で簗瀬にある名張川か              (ママ)らの用水路の取水口近くに「宇奈抵社㎏を位置づけている。しかし、この論文では義江氏は、宇奈根社と用水との具体的な関係については言及されなかった。 伊賀国の宇奈根社の盤格について、現地に詳しいという特性を発揮されつつ、その立地条件から、とりわけ河川・用水との関わりに                     (22)注目して考察されたのは、管見によれぽ森川桜姓氏が最初である。森川氏の見解で重要な点を要約すると次のようになる。 ω 当社は名張川の屈曲点の先端に位置しており、名張川と宇陀  川の合流点をひかえて、この地域はたびたび水害に見舞われ、  現在もその危険にさらされていること ② 真弓常忠氏の論文「宇奈提考」(『神道史研究』第二四巻二号、  一九七六年)が「ウナデ(池溝)」を「排水と給水を兼ねた人工

信州大学教育学部紀要Nα80180
  の水路」であるとする説に依拠しつつ、東大寺文書の康保三年  (九六六)四月二日伊賀国夏見寸閑禰等解案の一通だけに見え  る「宇割織(ウナデとは単なる書き違いとは思われないこと ㈹ 寿永元年(=八二)の藤原宗末起請文に「当至当郡鎮守、  殊ハ宇奈根・大家子大明神」とあり、この両者は対の関係で重  視されているが、大家子大明神(近世の樋子社)でしばしぼ雨  請指斥が行なわれたことから、それは宇陀川の水神と考えられ、  従ってそれと対応する宇奈根社の方は、名張川の水神として機           へ23)  浴したと考えられること こうして森川氏は、宇奈根祉の神格を水神とされ、とりわけ「用水の守護神」として結論づけられた。しかし、森川氏は宇奈根社の成立事情を考える上で、この地域の地勢等について、ほかにも多くの注目すべき指摘をされており、そこからはむしろ、水神は水神でも、もっと別の性格を有していた可能性がうかがわれるのである。すなわち、ωの点に加えて、かつて東大寺領黒田本荘の荘民と国衙との間に、出作りをめぐって絶えず紛争が起ったのも、名張川と宇陀川の合流点付近が洪水によって、しぼしぼ河道の変遷をくり返したことに一因があること、さらに元久元年(=一〇四)の文書に見える宇奈根若宮の鎮座地は、かつて洪水防止罵の「丈六の大藪」と称する津藩直轄の藪があった、滝煩沿いの名張市丈六付近に比定できると指摘され、やはり若宮の勧請も洪水除けと関係のあったことを示唆されたことなどである。森川氏が「用水の守護神篇と表現されているのは、黒田日出男氏の前掲論文に影響を受けたためと思われ、森川氏の論旨から浮かび上ってくるのは、むしろこのように水
害除け、洪水防止の神ではなかったかという点なのである。 語源の点から、当社のこうした性格を導き出されたのは清水潔氏 〔24)である。清水氏は、九条家本『延喜式』の祈年祭祝詞式に「宇事物頸根衝熊鷹、皇御孫命願望豆乃幣吊平、構融寛奉鍬宣しとあり、「頸根」に「ウナネ」の訓があるから、「宇奈根」は「首の付け根」の意味であるとされ、旧名張川の河道が当社の崖下で屈曲していた時代には、その鎮座地が名張川の屈曲点の先端に位置していたことにより、この神名が生じたと推定された。そして、この流域は名張川が氾濫をくり返した氾濫原にあたり、この宇奈根社はそうした名張川の河川の神の怒りを鎮める、治水の守護神的な性格を担って創祀されたとするのである。また、「ウナネ」は本来「ウナデ」で、用水の守護神ではないかとした前記の森川氏の説に対してぱ、唯一の典拠である康保三年(九六六)四月二田付の東大寺文書の原本(但し案文)によれば、問題の「宇奈抵」は「宇奈根」と読めることにより、当社を平尾用の水路としての溝と結びつけた議論はその根拠を失ったと結論づけられたのである。 以上のように研究史を整理しつつ、それらの論点を再検討してみると、従来「用水の守護神」とする説が圧倒的に多かった伊賀国の
「ウナネ社篇は、洪水除けの神であると考えた方がより妥当性のあることは明らかであろう。なお、筆・者は一九九三年五月二十四日に
現地調査を実施したが、当社の鎮座地、とくに名張川の屈曲点に位置する当初の鎮座伝承地付近が、黒田氏や義江氏の指摘されたように、当時から「用水の取水口」にあたっていたという事実は確認できなかったということを付記しておく。

179牛由:「ウナネ」および「ウナネ社」について(上)
  図2 陸奥国骨寺村の現状(岩手県一関市厳美町本寺)と宇那自社の比定地
二、陸奥国の事例
 陸奥國は、かつてはかなりの数にのぼる「ウナネ社」が存在していたとみられる地である。現存するのは管見の範囲で、宮城県宮城郡宮城町芋老妻明神一四番一号に鎮座する宇那禰神社のみだが、建長三年(ご一五一)冬に中尊寺領の愁々の惣検注が実施され、その               (25)結果を翌年正月に注進した取帳写断簡なる文書によれば、たまたま残存する宇津木村と辻脇村の分に「宇冠根神田三段」なる記載があり、このように除田が設定されている点から両村内に各々宇那根社が存在したことが推定されるとともに、当時、この地方の他の村々にも同社が勧請されていたことが示唆されるのである。そして、そのことは後述のように、東北地方に今日広く分布する「ウソナン社」が、「ウナネ社」の音韻変化によるものと考えられる点からも裏付けられるだろう。 しかし、これまで東北地方におけるこの社号の神社の存在が、中世史研究者によく知られているのは、何と雷っても、かつて陸奥園磐井郡骨寺村(現在の岩手県一関市心切町本寺がその遺称)に所在した宇那根社のためであることは疑いない。というのは、近年荘園絵図を中心とした絵画資料を読み解くことが歴史学や関運諸学で流行しているが、そうした中でも代表的な中世村落絵図とされる、中尊寺所蔵の二枚の『陸奥国骨寺村絵図臨に、この宇重根社が描かれているからである。しかも、この中世の骨寺村は中尊寺経蔵別当領として相伝されたものだが、平安期以来の経蔵文書がある程度まとまって伝存しているため、絵図とこれらの文書を合せ用いることに

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より、東北中世村落を復原する対象になりうる点でも垂球されてきた。従って、骨寺村に触れた研究は少なくな匡醐、そのうちで最も精力的に取り組まれ、字豊根社についても最も詳しく論及されたのは大石直正氏であるので、ここでは主として大石氏の論考に沿って、中世骨寺村の宇那根暗の性格と成立事情について再検討してみたい。 大石氏の論考は二本からなる。第一論文は「中尊寺領骨寺村の成
(27)
立篇で、二枚の絵麟の作成目的を論じたものである。これによると、まず「郡方」「寺領」という記載が見える図(これを仮にA図とする)の方は、鎌倉時代に郡地頭(具体的には磐井郡の地頭葛西氏)との聞に山野の帰属をめぐる掘論が起った際、証拠文書として中尊寺によって作成されたものと推定する。もう一枚のB図は、「宇那根田」を始めとする神懸(免田)表記の多いことから、、平泉惣別当の交替に伴なう寺領検注の際に、鎌倉常住の惣別当(原則として鶴岡社僧の兼務)と寺僧との間で、蒔田の存在や面積をめぐる櫓論があり、そのために寺僧側で作成したものではなかろうかとする。以                  (28)上の見解については反論もないわけではない。とりわけ作成時期については、大石氏は二枚とも鎌倉期とされたわけだが、従来はB図               (29)の方を南北朝期とする意見が多かった。しかし、私自身は右の点に関してだけ言えば、大石氏の見方に異論を云えるだけの用意がなく、また絵図の作成躍的が宇那根社の成立事情と直接関わることはなさそうに思われるので、絵図そのものの問題についてはこれ以上雷及しないこととする。ここではただ、骨寺村の宇宮室社が遅くとも鎌倉期にぱ成立しており、領主層の信仰を得て免田を与えられていた神社であったことを確認するにとどめておきたい。
 ところで、大石氏は宇罪質祉の性格については、理由を示さずに
「ほぼ用水路の神と考えられる」と指摘されたのみだが、この点について詳細に論じたのが第二論文の「東北中世村落の成立一中尊寺領舜専輪ごである。ここには、前章でも紹介した、伊賀国の字奈根
茎を名張郡の用水の神であるとする黒田日出男氏の説も引き合いに出されているが、主要な論拠は次の二点に絞ることができそうである。 第一は「ウナネ」の語源解釈である。国語辞典によると、「苗の付け根」「後頸部〕などの意味を持つ「頂根(ウナネとという語が出ているが、これは「ウナジ(頂)」に「ネ(根)」を加えてできた語で(ウナジナネ↓ウナネ)、「ウナジ〕の根元の意味であり、宇那根社の「ウナネ」とは直接関係ないとする。ところが、これと似た古語に用水溝を意味する「ウナデ」という語があるから、「ウナジしにそれと嗣じように根元を意味する「ネしを加えて「ウナネ篇となり(ウナデ÷ネ↓ウナネ)、用水溝の根元、すなわち泉や取水口を意味する語となったと考えれば理解しやすいというものである。 第二は従来の民俗学の成果に着目され、それを批判的に継承された点である。骨寺村にかつてあった宇那根津は現存していないが、二枚の絵図に見える宇那根無が鎮座したと思われる地点は、今B
「ウナンダ屋敷」と呼ばれており、また宇那根田のあったと思われる場所には「ウナソダ」「ウナン沢」という地名が今も残る。このことから、岩手・宮城両県の農村部に広く分布する「ウンナソ様」「ウソナン権現」「ウナ権現」などと呼ばれる小祠も、現在は雲南・
運南・運安・宇南・卯名・有南・温南などの様々な字が充てられて

177「ウナネ」および「ウナネ社」について(上)牛山
いるが、いずれも本来は宇丸根社ではなかったとするのである。これらの「ウンナン様」「ウンナン神」については、柳田国男『石神                          (31)問答』(一九一〇年)以来、民俗学では古くから注目されていたも      (32)       (33)      (34)      (35)      (36)ので、藤原相之助・早川孝太郎・鈴木巣三・大島英介・三崎 夫・  (37)佐野賢治の各氏などによる多くの研究蓄積があるのだが、早川孝太郎氏以後は鰻の信仰に結びつけている点と、それらの多くが水神・田の神といった広い意味での農業神とされる点でほぼ諸説一致している。 大石氏は、とくにこの申で湧水や水田の中の用水取入口の近くに存在する事例や、三崎}夫氏が紹介した「ウンナン神」の力によって用水が確保できたとする伝承を重視して、『骨寺村絵図』の宇那根祉も「中澤」という水路の水源の近くに描かれているという共通性に注目された。さらに、これまでの民俗学による研究の到達点とも署うべき佐野賢治氏の論考で、「ウンナソ社」の分布状況が近世の新田開発高の高い地域と重なると指摘されたことを受けて、実際には近世の新田開発の盛んであった地域とは必ずしも一致しないものの、「ウンナン神」(つまり宇蝦根社)の成立が中世以前に…遡りうること、そして「ウソナソ社」の分布が平泉周辺に稠密であることなどに着目されつつ、奥州藤原氏の全盛期である十一 世紀が水田開発の高まりをみせた時期であるとして、東北地方の宇荒根信仰はこの時の水田開発との関わりで、中央から用水技術とともに持ち込まれたものであると結論づけられたのである。 ここで触れた佐野賢治氏の研究は、大石説の当否を批判検討する上でも避けて通れないので、その概略を次に紹介しておこう。暇本
の各地に鰻を食べぬという伝承、いわゆる鰻に対する食物禁忌を持つ地域がある。そこでは「虚空各様のお使い」とか「虚空言様の好物」だとの理由で説明されることが多いが、これは何者かが虚空蔵信仰と鰻とを結びつけたに違いなく、その媒介となった宗教者を真言系の修験者であったとする。それには、鰻が古くから水神的性格を持っていたが、とりわけ洪水の減水期に出現する性質があったため、洪水にしぼしば襲われた地域の人々は、洪水への恐怖心を抱くと同時に、洪水の権化としての鰻を畏敬するようになったという背景があった。一方、経典による虚空蔵菩薩はその効能の一つとして災害消除的性格を有していたことから、修験者たちは洪水に苦しむ農民たちを救済する手段として、虚空蔵経に依拠する加持祈濤を盛んに修した。そのため、いつのまにか虚空蔵信仰と鰻が結びつき、洪水を起こさせないようにということで、鰻を大切にする風習とともに、鰻が虚空蔵菩薩の「使」とか「好物」とされる伝承として定着したのではないかとするのである。こうした成果を踏まえて、東北地方に鰻食物禁忌を伴う「ウンナン議しが顕著に発現したのは、近世の仙台藩領では北上川・迫川・江合川などに沿った地域で大規模な新田開発が行なわれたために、頻繁に洪水・水害をもたらしたことが第一の要因であり、合わせて東北地方には鰻が車越して分布するという自然条件や、伊達氏の熱心な虚空蔵信仰などでも作用していたのではないかという点を指摘している。 以上の佐野氏の見解には、歴史学の立場からすると明らかに成立しがたい点がある。すなわち、早川孝太郎氏が「ウナン・ウナ・ウナギ等の語が水中または泥中を来往する動物に対して与えられたも
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償州大学教育掌部紀要漁80176
の」とする指摘を継承して、語源的な検討を経ないままに「ウンナン些し挫早年とする前提に立っていることである。このことは、佐野氏が「ウンナン卑しの発現を近世と考えられている点とも密接に関係しているが、大石氏が前掲論文で批判されたように、「ウンナン」は宇那根の音韻変化とみることができるから、最初から鰻を意味する嗣語であったわけではない。また、その成立時期についても平安末期まで遡りヶる可能性があり、最初に触れたように、鎌倉期にはすでに各地の喜々に勧請されていたと推定されるものである。 しかし、一方で「ウソナン神」が鰻食物禁忌と濃厚に結びついている事実は、大石氏のように~概に「後世のものしとして片付けられないような気がする。仮に後世的な付会としても、両者が結びつくには、それなりの背景がなけれぽならないからである。この点、大石氏の「用水神」とする見方では、その理由は説明できないし、佐野氏が明らかにされた中で大きな部分を占める、鰻と洪水との密接な関わりを示す伝承も全く捨象されてしまう。ただ、佐野氏の見解にしても、鰻食物禁忌と虚空平信像と洪水除去という三者の関係はよくわかるのだが、「ウ」ソナン」を宇那根とすれぽ、なぜそれが鰻と結びつけられたのかという点が理解しにくい。佐野氏を含めたこれまでの民俗学研究者の多くは、莫然と「ウンナン」と鰻とが音通することによると考えられているようであるが、これだけではいかにも根拠が弱いように思える。むしろ、「ウンナン神」(つまり宇那根神)がもともと洪水除けの神としての神格を有していたがために、洪水と関係の深い鰻の伝承が付加されるに至ったと考えるべきではなかろうか。あるいは、鰻と「ウソナン」の音通という点を重
視するとすれば、宇那根が「ウンナン」に変化したのは単なる時間的、方言的な音韻変化というだけでなく、洪水の権化とされた鰻の音に近い神名に呼び慣わされた、という爾のあったことも考えうる。 こうしたことを念頭に置きながら、大石氏が「用水神」と主張された根拠の是非を検討してみると、ほかにも矛盾点のあることがわかる。第一の語源解釈についてもそうで、「ウナネ」を「用水溝の付け根、取水口」とするのはやや強引であろう。大石氏は「ウナデ
(用水溝)+ネ(根)↓ウナデネ↓ウナネ」とすれぽ理解しやすいと
されるが、従来刊行されている古語辞典や圏語辞典の類いには、「ウナネ」は「首の付け根」といった意味しか載っておらず、このことは現存する文学作品や記録等で、この意味で使われた用例がみられないことを示している。つまり、「用水溝の付け根」の意の
「ウナネ」は、大石氏の全く造語に過ぎないのではなかろうか。そ
もそも、中世骨寺村の宇豊根社にしても、用水の取水口に位置していたという確証があるわけではないのである。 『骨寺村絵図琶のB図から、大石氏は宇那根社が「中澤篇という   ・ …                           (38)水路の水源近くに描かれているという点を重視しているが、谷岡武           (39)              (40)親等などが早くから指摘され、              大石氏も認められているように、骨寺村全体の堅田用水系は檜山川(現在の本寺川)、およびそこからの引水が中心であった。むろん、大石氏の指禍のように「中澤」も小経営農民の開発に利用されたことは否定できないかもしれないが、宇那根社が領主層の崇敬を受けた、領内の神社の中でも中心的な存在であったとみられる点を考慮すれぽ、それはむしろ、領主的な大規模開発を担ったとされる檜山川沿いに成立したはずではなかろう

175rウナネ」および「ウナネ社」について(上)牛山
か。実際、宇那根社はA図からすると堂々たる神祉であり、しかも二枚の絵図とも村内の中心部に描かれている。河川との関わりで考えるならぽ、村内を流れる河川で、この神社と対応する存在は磐井川しかないだろう。ところで、谷岡・大石両氏によれぽ、磐井川は深く切れ込んだ谷を作っており、中世においては、その水を濫概用水として利用することは不可能であったとされる。とすれぽ、磐井川と宇那根神の神格を取り結ぶのは、やはり洪水ではなかったかと
鰭譲一,     樋       ● 「
∵口
6 =葛
・,ーーーL」
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いうことが示唆されてくるのである。 以上のように、歴史学と民俗学の双方の研究成果を整合的に理解しようとすれぽ、宇那根神は最初から洪水除けの神として勧請され、その性格がのちのちまで記憶されて、洪水の権化とされた鰻の食物禁忌と結びついて今日に至った、と結論づけられることになろう。なお、磐井川が実際に水害をもたらしたことを示す史料的徴証は、管見では今のところ見出していないが、北上川本支流の流域におけ             る洪水の被害は、記録にとどめられて
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上野国(群馬梁)の字業根社(諏訪神社)図遵
いる近世の例だけでも甚大なものがあったことは、これまでの研究で明らか          〔41)にされているところである。
三、上野国の事例
 群馬県琶楽郡板倉町大高島字高鳥の宇那根集落のはずれに、宇那根神社が鎮座している。もっとも、この社号は
『全国神社名鑑』にも登載されている
ものだが、地元では正式の社号を諏訪神社とし、宇病根集落にあるために宇那根神社と通称されているとの理解が          (42)なされているようである。現地を訪れてみると、境内に建てられた公民館の入り口にも「諏訪公民館」の表示が出ている。狭い境内には樹木はほとんど
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信州大学教育学部紀要晦80174
なく、拝殿を兼ねた覆堂の奥に一間社流造りの本殿があるだけの、典型的な小事である。 ここに宇那根の地名が残るのは、かつての上野国佐貫荘うなね郷に由来している。中世の佐貫荘は領家は不明だが、地頭には佐貫氏が補任されていた。現在の館林市と邑楽郡の各町村(板倉晦・明和村・千代田村・量楽章・大泉町)から太田市にかけて展開した大荘                       (43)園で、少なくとも一四ケ郷からなっていたことが知られ、その一つが「うなね郷」である。具体的な史料として、長楽寺文書の元応元                 〔44)         …年(=二一九)九月廿七日梅原修羅坪付帳に「ミなミはうなねとののはたけにさかふ……」、あるいは正木文書の明徳二年(一三九こ        (45>              …七月二B藤原氏女譲状に「上野國さぬぎの庄うなねの郷たての単二  ママヅ在家川間、はたけ弍溜男反、あらた挙隅相伝の所領たるの間……」などと見えるのがそれである。「うなね」の現存地名としては、大                    (ママ)高鳥の宇那根のほかに、隣接した下五箇にも宇奈根集落があり、近世にはすでに別々の村となっていたが、本来は一つの集落であった    (46)と考えられ、中世のうなね郷の範囲はだいたいこのあたりを中心にした地域に比定される。 ところで、中世の佐貫荘関係の史料には、荘内に「ウナネ神扁が祭祀されていたことを示すものは見当らない。残存史料が極めて限られていることによるかとも思われるが、中世のいわゆる『上野国   〔47>内神名帳塾の邑楽郡九神の中にも所見されず、管見でぱ今のところ、中世における「ウナネ蔑しの存在を文献上で確認できないでいる。しかし、中世以降、信濃の諏訪上下宮への信仰が高まり、全国各地に末社が盛んに勧請されていることから、本来の「ウナネ社」が諏
訪信仰の流布によって、祉号が変更されたことは十分に考えうるところであろう。いずれにしても、うなね郷が「ウナネ神」と関わる地名であるとの想定に立てば、仮に現在の諏訪神社が当初の「ウナネ社」の後身ではないにしても、この地に鎌倉時代以前から「ウナネ社」が勧請されていた可能性は否定できないと思われる。 問題は、この上野醐佐貫荘に成立した「ウナネ社」の性格である。この点について言及した先行研究は見当らず、うなね郷について峰                            (48)岸純夫氏が、「うなねの語源は用水溝のほとりの音脚味」としているのが唯一の見解である。峰岸氏はその理由について全く述べられていないが、この指摘のあと、前掲の明徳二年(一三九一)の藤原氏                     〔籍田)女譲状の一節を引きつつ、「うなね郷の在家に、あら整磁町が付属していることに注目しておぎたい。うなね郷は、現在利根川と谷田川の間の低湿地で輪中集落の景観をなすところであるが、上五箇、下五箇という語源的に荒蕪地を意味する地名も近所にあり、そのような低地部分に中世において集落が出来、新田開発が行なわれていることは興味深い」と述べられている。要するに峰岸氏は、うなね郷が荒蕪地に位置したことを認められつつも、そこで当時も新田開発の努力がなされたという点に光を充てようとされており、先の指摘と合せて警衛すれぽ、「ウナネ神」は用水の神を意味していると      (49)いうことになろう。しかし、そもそも右の史料の「あらたしは「新田」のことと断定できるであろうか。むしろ「荒田」(つまり、水害等で恒常的に荒廃した田)と解釈する余地も残されているように思われるのだが、それは次のようなこの地域の地理的環境や、それのもたらした歴史的経緯によっている。

173「ウナネ」および「ウナネ社」について(上)牛
 かつてのうなね郷の領域を中心に含んだ、現在の板倉町とその周辺の歴史が、一方でこの地方有数の穀倉地帯でありながら、利根川、渡良瀬川および谷田川の三つの河川に取り囲まれた低湿地帯で、しかもその間に多くの内沼を湛え、全域が水に浮いたような陸の孤島のために、近世以来数多くの洪水や水害に苦しめられ、まさに水との闘いの連続であったことは、これまでも多くの文献で指摘されて (50)きた。すなわち、当地域はかつて「水場しとも呼ばれ、「カエルが小便しても水が出る」と言われたほどの水害常習地であるが、それは単なる水郷地帯のゆえではなく、すり鉢の底のような状況を呈し落差のほとんどない地形にも起因している。そのため、平常でも排水が困難であり、ひとたび洪水が発生すれば湛水が一〇~二〇日も続き、田畑や農作物に大被害を与えてきたとされているのである。こうした水との闘いの中で、人々は自らの生命と財産を守るために、               みつか三~五メートルの高さに盛り満した水塚を造り、米麦・衣類などの                       あげぶね保存場所として万一に備え、また緊急の際の輸送用に揚舟を用意するなどの生活上の工夫をこらしていたが、神々に洪水の除去を祈ることも怠らなかった。 民俗学的調査によると、板倉町内には水神信仰が濃厚に残存して          (51)いることが報告されている。ことに有名なのは板倉町板倉の長良神社であるが、これは洪水除けの神として迎えられたもので、今でも雨が続くと、村人が集まって不動尊を祠から取り出し、雨の上がるのを祈る儀式を行なっているという。長良(長柄)神社は板倉町内に一五社もある。また、板倉町海老瀬にはアソバサマ(大杉大明神)信仰が残るが、この神は久慈川の洪水に苦しめられた地域に特
                   (52)徴的に分布するものであることが知られている。ちなみに、板倉地区の水害の青苗だが、記録にとどめられたものだけでも明治年間ま       (53)でに六〇圓以上ある。大部分は渡良瀬川右岸堤防の破堤を原因とするもので、宝永元年(一七〇四)から明治四十三年(一九一〇)までの二七〇年間に四〇回となっている。五年に一回の割合である。これに対して利根川左岸堤防の決壊によるものが、寛文十一年(一六七一)から明治四十三年(一九一〇)までの二四〇年間に =二圓記録されており、こちらは一〇年に一回の割合である。 以上紹介してきたことは、だいたい近世以降の状況だが、洪水・水害についての具体的な史料を欠く中世以前においても、この地域                       (54)の置かれた事情はむろん同様であったとみてよいだろう。そして、当地域の神社信傭の多くが水害の除去祈願と結びついていることは、伊賀国の事例に照らして、やはり上野の「ウナネ神」も洪水除けの神であったと考える方に歩のあることを示しているように思われる。長良信仰や大杉信仰が利根川流域に流布した年代については必らずしもはっきりしないが、早くて戦国期、おそらくは近世以降のこと     (55)ではなかろうか。従って、この地域における水害除けの信仰としては、「ウナネ」信仰の方がより先発的な形態のものであったことになり、逆に言えば、当地の宇等根神社が諏訪神社とも呼ばれ、本来の神格が忘れ去られたようにみえるのも、近世以降新たな流行神とも言うべき、長良信仰や大杉信仰の降盛した陰に追いやられた結果であると言うこともできるだろう。                (一九九三年八月三一日 受理)