⟨物⟩から⟨もの⟩へ

『もの派』の危うさをいち早く見抜き、それへの懐疑を誰よりも早く発言した柏原えつとむ。しかしながら柏原の論は、出会いの芸術の流れに飲み込まれていくだけでなく、以降の『もの派』論の中に、違う形で丸呑みされていく運命をたどっていくことになる。その組み込んでいく急先鋒となったのが、多摩美の柏原の後輩で、文芸部の後輩に当たる作家の菅木志雄である。
菅は1944年岩手県盛岡市に生まれ、1964年多摩美油絵科に入学する。「絵は好きであったが自分の才能が信じられず、むしろ、文学がやりたくて、奥野健男氏が顧問の文芸部で詩作などをする」ような学生であった菅は、1966年、斎藤義重教室に進み、翌年の1967年8月には、当時の若手の登竜門であった第11回シェル美術賞の一席を受賞する。 受賞の知らせは旅先の京都で知ったと言う。(注12)
それまでのシェル賞は、“画壇に新人を送り出すと同時に新しい絵画の創造に積極的に寄与 ”する機能を持つ反面、過去十年にわたる審査のうちにシェル賞の“形式”が生まれ、応募する作家たちはそのシェルの形式を意識しすぎて、その枠にはめ込んだ作品ばかりが搬入されてきていたようで、この年のシェル賞は、形式化してきたシェル賞に新しい風を吹き込むべく「日本絵画の可能性の開拓」をテーマに京都で審査が行われた。
その搬入も兼ねて菅はこの時京都にいたのだろう。当時の斎藤義重教室の学生の多くが柏原を慕い、柏原の方法論を手立てに多くを学んでいったことは前述の通りである。齋藤が語る柏原の存在が関根や菅たちには大きかったのだろう。それだけでなく柏原と菅は多摩美文芸部でも先輩後輩の関係であり、菅は柏原の次の次の部長であり、菅が新入生として入部したとき柏原は4年、幸村真佐男に部長をゆずったばかりであったが、クラブつながりでたびたび話をしていた。おそらく《位相-大地》のとき柏原のもとを関根たちが訪れていたのと同様、シェル賞受賞時、菅は柏原を訪ねていたかもしれない。菅が柏原から多くを学んでいた事は当時を知る人達の多くが認める事実である。ちなみに菅の初個展は五反田辺りの喫茶店で、柏原は彼にその作品の手法などにはアドバイスした覚えがあると言う。
そういう手探りの段階でシェル賞を受賞した菅の “遠近感を錯視させたイスと洗濯機のシルエット”が描かれた作品も、そういう柏原のアドバイスの延長上の作品であり、菅が「自分の世界」と言い切るのは、はばかれるもののようである。柏原と菅の距離がかなり接近していた事、菅が柏原に大幅に傾倒していたことは事実である。
いずれにしろ当時まだ『もの派』という言葉は無かったわけで、そういう『もの派』らしき形式へ一番最初に警鐘を鳴らした前出の柏原の論文「造ることへの反逆者たち-現代美術の動向展・京都国立近代美術館」は、「物」という言葉を引っぱり出し、「物」をキーワードに、「つくらないことの肯定」への疑念として『三彩』1969年10月号に発表された。その4ヵ月後に発刊された翌年2月の『美術手帖』上の座談会が『もの派』の形式を決定付けたのであるが、その折、菅は「発言する新人たち 状態を超えて在る」という論文の中で、「物」という言葉を多発しながら、『出会いの芸術』論を擁護している。

菅木志雄「特集=発言する新人たち 状態を超えて在る」美術手帖、1970年2月
「……「もの」を造る場合において、造る認識を捨て切ることがまず必要だったというのは、人を主体においた「もの」の見方でしか対象物を客観的実在としてとらえられなかったのである。「視る」以前にまず「在るように在る」という、人と並んだ時点で感知しなければならないものだ。人は、視るという客観性において、人が「もの」を「視る」という一方的な見方でしか「ものの在り方」を認知できない。「もの」が「もの」としての在り方を念頭においた認識ができないならば、「もの」は常に「もの」そのものでない状態でしか感知できないことになる。
「もの」を「もの」で否定する一つの方法は「もの」のもつ先天的な特性をそれらのものでしか表象できない「現象」として表出することである。……「未知のもの」をさぐりあてるもう一つの方法は、「もの」の質量形体、容積あるいは時間性なり空間性なり物質性を同質の素材をもちいて変容させ、明らかに「異なるもの」としての感性を表出する仕方である。……規定され認知されていた一つのあるものが、一つのあるものを切りくずし、別のあるものへ変容する。実在から実在へ、「もの」が決して「もの」の概念からのがれ切れないところで、「もの」としての変容を試みるのである。
虚構から実在の世界へ、虚体から実体へ、観念から実体へ、またその逆もしかり。われわれは常に相対的に何かを基準にしながら表象することを思考して来た。ここに来てはじめて「もの」が「もの」自身の基準でそれを否定する意思をもち始めたことを知り、観念が「もの」と「もの」を、「作為と不作為」をはかりにかけた時に、われわれはすでに何かを「造らねばならない」という前近代的な創造思考の弊害に落ち込んでいるのだ。
人だけでなく、もしもあらゆるものが批評精神をもつとしたら、「もの」が人を、「もの」が「もの」自身を批判していいはずである。「もの」を造る意識が何らかの抵抗の意思表示であるなら、できた「もの」が造った自分も含めて、その創造意識や作用というものを、それに平行している行為動作というものをあからさまに批判の対象にしていることを知らねばならない。われわれは造るものをあまりに信じすぎているために、「もの」の本質、「行為」の本質、「視る本質」そして「認識」することの本質をみやぶれない。……」

柏原が「⟨物⟩と人との対決を余りにもきびしい限界線上に選んだ」と語った⟨物⟩の存在は、4ヵ月後に発刊された『美術手帖』で菅によって⟨もの⟩へと置き換えられる。この⟨物⟩から⟨もの⟩への変換は極めて大きい。本来厳密に取り扱うべき⟨物⟩の存在はひらがなに置き換えられることで観念化され、⟨もの⟩と変化することで意味が曖昧になり、誰もが非常に使いやすい言葉に変えられた。⟨もの⟩が大衆化した一瞬である。
そして⟨もの⟩の存在、「在る」ものをそのものの極限的な「在る」状態に置きかえることを説いたこの論は、言い換えれば「既にあるものをさも新しいものに見えるようにほどこす」事である。これは個人性を最大限に押し出して人間の創造力の崇高さを表現する本来の芸術、さらにはそれを踏まえて柏原が主張する「人間がもともと持っている創造性や好奇心」の構造を「芸術という幻想」つまりは近代以降の形式化したイズムを相対化していくことでいかに乗り越えていくかという人類の芸術の限界線上での戦いをいとも簡単に脇へと追いやり、柏原がいどんだ論争そのものまでも闇に葬り去っていく。
当り前だが、難しい論争には多くの人は参加しない。人間は安易な方に流れていく動物である。「つくらない芸術」は以降、急速に一般化・大衆化し、「もの派にあらずんば、作家にあらず」と言われる程に拡がりの様相を見せていく。つまり柏原の論を闇に追いやって⟨もの⟩が登場したこの地点が『もの派』の語源の出発点に当たるのである。
菅が論文を発表した1970年2月の『美術手帖』の締切りは、推測するにおそらく前年の年末あたりだろう。前年、京都国立近代美術館で開かれた1969年現代美術の動向展で発表された李、小清水、吉田等の作品は当時の話題作として多くの注目が集まっており、かなり多くのメディアや美術評論家が取り上げている。それに寄せた柏原えつとむの三彩の文章が、実際に多くの人々の目触れたのかどうかは別としても、菅と柏原との間の個人的な関係から推測するに、菅はおそらく目を通しているのではないだろうか。李禹煥の登場以降、関根らと柏原との間では作品の話は出ないようになっていたようであるが、柏原は依然として論客であり、かといって柏原は東京に住んでいるわけではなく京都在住なので、メディアの中央からは距離があり、そのアイデアや思考が盗み出しやすい存在でもあった。
「面白い人がいる!」と言って、李の周りに集まっていた「つくらない作家」たちは、同時に「つくらないことに疑問を放つ」柏原にもおおいに傾倒していたわけだから、『もの派』を語っていく上で、柏原えつとむの存在は絶対に欠かしてはならない。そういう深層の部分だけでなく、表層の部分でも、柏原は『つくらない芸術』に最初に警鐘を鳴らした人物であり、『出会いの芸術』に対して真っ向から戦いを挑んだこれもまた最初の作家である。その記録はきちんと残されている。しかし現実はこれまで何回か開催されてきたいずれの『もの派』展にも柏原は呼ばれず、またそこで論じられる文章にも一切名前が上がっていない。柏原と『もの派』の関係性をたった一言でも書いた『もの派』論も存在しない。
物質へと還元していく時代の流れにかき消されていくように、柏原の論理はかき消され、『もの派』的な作品は、以降、今度は当時の状況を反映させた展覧会として登場する。「1970年8月展」である。参加作家は、狗巻賢二、大西清自、河口龍夫、小清水漸、菅木志雄、高橋雅之、高松次郎、田中信太郎、成田克彦、本田真吾、矢辺啓司、吉田克朗、李禹煥の13名。ここで東野芳明が論じている文章は⟨もの⟩が多発し、⟨もの⟩が市民権を得、流行語大賞的なノリで使われている。