1937年に後の母子手帳の根拠法令となる母子保健法が施行された。
1941年の人口政策確立要綱で見られる「1夫妻5児」のような、戦時体制下の極端な人口増加施策の一環であった。
1942年 国による妊産婦手帳制度が発足。
戦時下においても物資の優先配給が保証されるとともに、定期的な医師の診察を促すことを目的とした。
戦争中の生まれなので、役所がくれた母子手帳は書き損じの廃品利用。しかも、名前が間違っている。
育った自宅の防空壕は縁の下の縦穴式であった。
戦後は庭で放し飼いしていた食用鶏が、縁の下に卵を隠していた。
疎開は、父の実家の播州で、牛小屋の前を通り抜けた行くと、溜め池があって、菱の実が沢山あった。
以来食べたくても手にはいらなかったが、近年、雲南市に旅行したら路上で売っていた。
幼稚園の弁当はレバーステーキが多かった。以来好物である。
小学校の給食のスキムミルクとコッペパンは大好きであった。以来好物である。
ユネスコがくれた絵本「物の中が見れたら」が宝物であったが、紛失して今は無い。
小学校低学年の担任は代用教員の保健婦、高学年の担任は10才の代用教員であった。
中学校の担任は、抑留帰りのコミュニストで、日教組と右翼宣伝車が煩かった。
晴れても雨でもラグビーをしていた。