紀淑雄 きのとしお []

1872年 東京出身。
     東京専門学校(現早大)を卒業し,母校の講師
1897年 帝国博物館より帝国美術略史編纂掛を嘱託
     共著[日本帝国美術略史]」福地復一郎編 帝室博物館
1900年 同編纂常務委員となつた。
1901年 国華社発行「国華」の解説起草主任を嘱託
1907年「開国五十年史」大隈重信侯編輯 中、美術に関する事項を起草
1911年 早大の教授。東洋並西洋美術の講座を担当
1912年 東京帝室博物館より美術部編輯委員を嘱託
1917年 美術研究所を創設,初代校長
1918年 「日本美術学校」と改称 豊多摩郡戸塚町(現 新宿区西早稲田)
帝国美術学校の先駆けとなる美術理論系学科の設置、デザイン教育を行った。
1936年 死去。65歳。

  

薄田泣菫「茶話」「一万円の仏画」
 早稲田大学の美学教授 紀淑雄 ( ぎのとしを ) 氏は、近頃真黒に ( くすぶ ) つた仏画を持ち廻って ( しき ) りと 購客 ( かひて ) を捜してゐる。幾らだと訊くと、「まあ、ずつと見切つた所で一万円」といふので、大抵の人は肝腎の仏画は見ないで ( きの ) 氏の顔を見て笑つて済ましてゐる。
 紀氏は 遅緩 ( もど ) かしくなつて、友達仲間を説き廻つて、
 「誰でもいゝ、この ( ) を一万円に 周旋 ( とりも ) つて呉れたなら、手数料として千円位出しても可い。」
といふので、仲間の美術通や 画家 ( ゑかき ) などは、 血眼 ( ちまなこ ) になつて得意先を駈けづり廻つてゐる。言ふ迄もなく美術通や 画家 ( ゑかき ) などいふものは、 閑暇 ( ひま ) がある代りに 金銭 ( かね ) が無い 連中 ( れんぢゆう ) である。
 一体仏画といふものはざらにあるが、 ( フフ ) 高い二十五菩薩 来迎 ( らいかう ) 山越 ( やまごし ) の阿弥陀などを ( ) けると、 ( いづ ) れも凡作揃ひでお 談話 ( はなし ) にもならぬが、美術の好きな者には 盲目 ( めくら ) が多く、 盲目 ( めくら ) には 富豪 ( かねもち ) が多いから、下らぬ仏画に万金を投じても悔いないのだ。
 紀君の仏画はまだ見た事もないし、それに売物の事だから 彼是 ( かれこれ ) 言はうとも思はないが、一体何を 標準 ( めやす ) に一万円といふ売値をつけたのだと訊いてみると、亡くなつた岡倉覚三氏がその画を見て、米国へ持込んだら 屹度 ( きつと ) 三万円には売れるだらうといつた、その一 ( こと ) 標準 ( めやす ) に、大負けに負けて一万円といふのださうな。
 岡倉覚三氏は邦画の 鑑定 ( めきゝ ) にかけては、随分鋭い鑑識を持つてゐた人だから、あの人の鑑定つきだったら、三万円位 ( ) り出す 富豪 ( かねもち ) があつたかも知れないが、さうかといつて紀氏も地獄へまで 鑑定書 ( かんていがき ) を取りにも ( ) けまい。 ( もつと ) も大隈伯に佚も頼んだら、二つ返事で地獄の門番に 添書 ( てんしよ ) だけは書いて呉れるかも知れない。あの人は人に親切を尽すといふ事は、 添書 ( てんしよ ) をつける事だと ( わきま ) へてゐるのだから。
 その一万円が手に入つたら、紀氏は真面目に 支那画 ( しなゑ ) を研究したいと言つてゐる。支那画も善いには相違なからう。人間といふものは、 金銭 ( かね ) が手に入らない ( うち ) は、いろんな善いことを考へつくものだから。

2004年「會津八一記念博物館研究紀要」6号 紀淑雄の美術家養成活動(沓沢耕介)