福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
丸山鶴吉
まるやま・つるきち
警視総監、福山誠之館東京同窓会会長
丸山鶴吉


経 歴
生:明治16年(1883年)9月27日、松永に生れる
没:昭和31年(1956年)6月3日、享年74歳、法名:松寿院殿宗鶴遺芳大居士、東京青山墓地に葬る
明治35年(1902年)3月30日 20歳 広島県立福山中学校(誠之館)卒業
明治38年(1905年)3月 23歳 第一高等学校卒業
明治42年(1909年)7月 27歳 東京帝国大学法科大学卒業
明治42年(1909年) 27歳 内務省に入る
明治42年(1909年)12月25日 27歳 香川県警部兼県属
明治42年(1909年)4月16日 27歳 警視、警保課長
明治43年(1910年)暮 28歳 警視庁監察官
大正2年(1913年) 31歳 警視庁特高課長(第2代)
大正5年(1916年)5月 34歳 警視庁保安部長(私娼撲滅運動)
大正5年(1916年)10月30日 34歳 叙正六位
大正6年(1917年) 35歳 欧米各国に出張
内務省救護部長(初代)
静岡県内務部長
大正8年(1919年) 37歳 朝鮮総督府事務官
大正8年(1919年) 37歳 朝鮮総督府警務部長
大正13年(1924年) 42歳 辞職帰京
大正13年(1924年) 42歳 日本青年館理事
大正14年(1925年) 43歳 大日本聯合青年団結成式の議長
大正15年(1926年) 44歳 東京市第一助役
昭和2年(1927年) 45歳 ジュネーブ軍縮会議随員、バルカン・欧州・印度視察
昭和4年(1929年) 47歳 警視総監
昭和6年(1931年) 49歳 貴族院議員に勅選
昭和9年(1934年) 52歳 東京市会議員、市政革新同盟
昭和12年(1935年) 63歳 米・中南米歴訪
昭和13年(1937年) 56歳 東京市会議員(再選)
昭和16年(1941年) 59歳 フィリピン・スマトラ・セレベス・千島列島視察
昭和16年(1941年) 59歳 大政翼賛会事務総長
昭和17年(1942年) 60歳 宮城県知事、東北行政会議々長
昭和20年(1945年) 63歳 東北地方総監、知事を退職(公職追放)
昭和24年(1949年) 67歳 東京誠之舎の再建
昭和26年(1951年) 69歳 武蔵野美術学校校長、追放解除
福山誠之館東京同窓会会長
従三位勲二等


生い立ちと学業、業績
沼隈郡松永町(現福山市松永町)に初代丸山茂助・ショウの二男として生れる。明治30年(1897年)福山中学校(誠之館)へ入学。入学式の時の校長の訓示「誠実・剛毅・広大」が、生涯心に残る言葉となった。寄宿舎に入っていたが、上級生の横暴に反撥し村八分にされたり、通学生と対立して停学処分になるような、負けん気の少年だったが、5年生になる頃にはすべてを仕切る存在になっていた。

一高に合格。本郷西片の誠之舎に入る。生来子ども好きだったので、付近の子どもを集めて遊び、「少年連隊長殿」と慕われた。

東大法科に入学。当時の東大の運動会は華やかで社交場のような雰囲気であったのに反撥を感じて、質素なシャツに荒縄のベルトといういでたちで、1000mと障害物競走に出場、見事優勝してしまった。

誠之館の先輩の
高島平三郎先生の児童心理学を聴講したりしていたので、東大を退学して高師に入り直して、教員になりたいと思ったこともある。

卒業後内務省に入り、香川県警部の辞令を受ける(警察畑は一番なりたくない職場だった)。その後東京に帰り、特高課長・保安部長を歴任。大正6年(1917年)欧米視察をして、第一次大戦下のアメリカ・イギリスの状況をつぶさに体験した。その折に買って帰った沢山の新刊書を活用して、丸山読書会を主宰した。参加メンバーは、
福原麟太郎藤野恵挟間茂、富永真造、前原達一などの、いずれも誠之館出身の秀才たちであった。

大正8年(1919年)朝鮮総督府警務部長となる。日韓併合後、政情不安な土地での勤務は緊張の連続だったが、現地の人々にも慕われ、その交流は戦後も、その死の時まで続いた。

昭和2年(1927年)ジュネーブ日英米三国海軍軍縮会議に随員として渡欧した際、購入して帰った沢山の新刊書を読む会が「丸山読書会」のきっかけとなり、多くの同郷の青年達を育てた。

昭和4年(1929年)44才で警視総監となる。昭和6年(1931年)福山市郊外で陸軍大演習が行われ、陛下の行幸もあるとのことで初の里帰りをしたところ、浜口首相が東京駅頭で狙撃されるという事件が起きた。責任を感じて辞任する。その後、貴族院議員に勅令されるが、社会事業家としての活躍が多くなる。壮年団の結成・選挙粛清運動に関わり、北米武徳会総裁・敵国在外同胞対策委員会事務局長・大政翼賛会事務局長などをつとめた。

終戦は宮城県知事・東北地方総監として仙台で迎えた。公職追放の身となり、養鶏や野菜作りをしていたが、誠之舎が財産税のため整理されると聞き、「最後のご奉公」と金策に奔走する。昭和24年(1949年)迄に300万円集め、財団法人誠之舎が発足する。

昭和26年(1951年)追放解除となり、武蔵野美術大学の学長となる。昭和31年(1956年)没。最後まで病床についていてくれたのは朝鮮の方達だったという。
   鍋島喜八郎(昭和28年卒)
誠之館との関連
丸山一族では他に、丸山雷蔵丸山茂樹が誠之館にかかわりがある。

撰文と揮毫

昭和10年(1935年)1月、福山市沼隈町能登原に建つ「青年の父山本瀧之助先生頌徳碑」の題字を揮毫した。
昭和13年(1938年)、福山市神村町八幡神社境内に建つ「福原甚之助顕彰碑」の撰文及び揮毫を行なった。
昭和29年(1954年)3月には、東村町の東口に建つ「石井翁頌徳碑」を揮毫した。


誠之館所蔵品
管理 氏  名 名  称 制作/発行 日 付
00070 丸山鶴吉 書 人生訓「春風」 昭和29年
00071 丸山鶴吉 書 一行七言詩句「語尽」 昭和29年
00325 丸山鶴吉 書 扁額「剛直和平」 昭和29年
06657 丸山鶴吉 撰 拓本「福原甚之助先生顕彰碑」
03863 丸山鶴吉 著 『五十年ところどころ』 大日本雄弁会講談社 昭和9年
01991 平野義一 編 『私設社会事業 丸山鶴吉先生古稀記念集』 東亜援護協会 昭和28年
07148 佐々木龍三郎 著 『ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む 童謡詩人 葛原しげるの生涯』 文芸社 平成26年


出典1:『福山学生会雑誌(第50号)』、38頁、福山学生会事務所編刊、大正6年1月1日
出典2:『読書と在る人生(新潮選書)』、89頁、福原麟太郎著、新潮社刊、昭和42年5月10日
出典3:『福山の碑』、87頁、「青年運動の指導者 山本瀧之助碑」、三上勝康著、福山市文化財協会刊、昭和50年11月10日
出典4:『新編「福山いしぶみ散歩」』、95頁、「福原甚之助先生頌徳碑」、佐野恒男著、福山市文化財協会刊、1996年9月1日
出典5:『新編「福山いしぶみ散歩」』、96頁、「石井翁頌徳碑」、佐野恒男著、福山市文化財協会刊、1996年9月1日
関連資料1:『誠之館記念館所蔵品図録』、70頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
関連資料2:『誠之館百三十年史(上巻)』、779頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日
関連資料3:『備後先覚者名鑑(郷土を創った人々)』、20頁、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和35年6月
2005年4月13日更新:所蔵品●2005年5月9日更新:本文●2006年5月8日更新:タイトル・所蔵品●2007年11月6日更新:誠之館所蔵品●2008年1月30日更新:誠之館所蔵品●2008年7月29日更新:経歴・本文・誠之館所蔵品・出典●2009年6月30日更新:経歴・誠之館所蔵品●2010年2月2日更新:本文・出典●2011年3月31日更新:誠之館所蔵品●2011年7月12日更新:誠之館所蔵品●2011年7月13日更新:経歴●2011年8月24日更新:本文●2012年3月7日更新:本文・出典●2012年3月12日更新:出典●2014年10月30日更新:誠之館所蔵品●