多摩美創設の準備(一)

 昭和十年の盛夏。旧新宿武蔵野館の真前に、新宿ホテルがあった。そこの二階に二室を借り受けて、多摩美創設の仮事務所を設定した。
 東京府知事横山助成氏が「一先づ新設学校を造って帝国美術学校から分離した教員と学生を収容してはどうか」と助言され、また知事は「木下、北両氏の仲をあっせんして再び両校を合体させるよう努力する」と言われたので、一先づ多摩帝国美術学校という校名で発足することを北さん、井上さん、牧野さんと協議して、申請書を東京府に提出することにした。
 この七月の暑い日に私は「多摩帝国美術学校設立認可申請」という一枚の申請書に、申請人北昤吉として、東京府学務課へ提出した。
 学務課で一枚の申請書だけでは学校認可は出来ませんとことわられた。学校創立には、(一)所有土地の登記簿謄本または土地貸借契約書、(二)基本金、(三)校舎の設計図面、(四)教員組織表、(五)五ヶ年間の学校の予算書、(六)図書その他備品、器具、標本、什器一切の台帳、(七)警視庁衛生局の井戸の水質試験書等々が必要であって、学校認可は早くて半年、永ければ一年、二年はかかるとの話であった。学校の創立はまことに容易なものではないということを始めて知って全く驚いた。而もこれでは六無賽ならぬ七無賽である。
 (一)土地がない、(二)金がない、(三)校舎がない、(四)教員はそろわない、(五)五ヶ月年間の予算書の作り方も知らない、(六)図書、備品の台帳もない、(七)水質試験書もない。まったく困りはてた。そこで学校を繰上げ休暇として、残留教員と学生に、九月六日に開校するから上野毛校地へ集合することを宣言したのである。
 北さんも私も実に途方に暮れてしまった。北さんは「面子も何にもいらない。私は学校なんか止してしまう」と言い出した。こうなっては如何せんである。私は三十二才の血気盛んな時ではあったが、北さんが止すというのに、私一人が頑張るなどとても不可能だと一旦はあきらめたのだが、北さんを信じて上野毛移転に賛成した教員や学生を裏切ることになるのは何んとしても忍びないことである。成る成らんは後のことで、とにかく努力だけはしてみなければと心に決めた。
 先づ東横本社に小林清雄支配人を訪ねて、北さんを支持してきた教員と学生のために、また東横が沿線開発のために学校誘致を企図した計画にそうて、上野毛の土地五千四百坪の再契約をしてくれるように懇請してみた。小林氏は「五島社長が何んといわれるか、私の一存では返事は出来ない」といわれたので、翌早朝六時に渋谷の五島慶太氏の私邸を訪ねたところ、等々力のゴルフ場へ出掛けられたとのことで、すぐゴルフ場までかけつけて上野毛の土地の再契約を懇請した。
 五島氏は小林氏とよく話して見給えとのことであったので、その後は専ら小林支配人を相手として交渉を続けた。東横側の条件は第一は学校認可をとりつけること、第二は校舎建築資金の頭金として一万五千円也を現金で本社へ届けること。この二つが出来たところで土地契約を考慮しようということになった。
 東横からは学校設立認可が第一条件だといわれるし、東京府から学校認可には校地が第一条件だといわれるので全くここに進退きわまったのである。
 しかし何んとかこの難関を乗りきらなければ今日までの労苦も水の泡である。遂に意を決して横山知事に直接ぶつかって見るより外に道はないと決心した。そこで知事に会って「学校認可の暁には必ず東横との間で土地契約を取交して、知事にご迷惑はかけませんから校地に関しては東横の覚書で申請書を受理していただきたい」と懇請した。
 知事は、よくわかるが学務課が事務処理上それは無理というだろうが、一応学務課に話してみようといってくれた。
 そこで東横の小林支配人に「学校が認可になった節は、土地は必ず校地として北さんと再契約をする」という覚書を書いてもらいたいと頼み込んだ。小林氏は覚書を出すことは容易いことだが、東京府がそんな覚書で学校の認可を出しますか」と難色を示した。
 しかし知事が学務課職員を知事室に呼んで認可を出すようにと口添えをしてくれたので、漸く認可の見透しがついたのである。
 この横山助成知事はそれから三十三年過ぎた昭和四十三年四月に本学学長に就任された故石田英一郎博士の義兄であったことが石田学長葬儀の際横山未亡人が石田学長の義姉だと始めて知って奇しき因縁であることに驚いた。
 かくして、ようやくの思いで学校認可の見透しはついたものの素人の私はこのあとどうしたら書類が出来るものやら見当もつかないので実に困ってしまった。
 そこで府の学務課に行って、知事の勧告によって学校を新設するのだから必要な書類について教えて欲しいと頼んだ。そして或る学校の申請書綴を借りて、これを参考に、一週間ばかりで申請書を作り上げた。
 幸い今井兼次先生に学校移転のことで校舎の設計を依頼してあったので、急拠設計変更をして建築図面を完成してもらった。申請書は八月中旬に提出したが認可を九月六日の開校に間に合うようにと無理な要請を知事に申出た。ところが知事は無理を承知で、九月五日の夜、電話で認可書を明六日に知事室へ取りに来いといってくれた。
 昭和十年九月六日に多摩帝国美術学校は認可された。しかるに校舎がないので集合した教員と学生は隣地の田中貞治氏の庭の樹下で、当日北昤吉氏が孔子は樹下に教えを説いたということを例にひいて開校の挨拶を述べた。
 正に多摩美術大学は、この日、この時、この地に発祥したのである。集った教員は、北昤吉、井上忻治、牧野虎雄杉浦非水吉田三郎佐々木大樹、大隅為三、森田亀之助、渡辺素舟鈴木誠の諸氏であった。学生は僅かに四十数名に過ぎなかった。最初予定された二百名の学生の半数にも足らない集りとなってしまった。
 しかも東横とは校地の再契約や校舎建築資金の借入についてもさらに交渉を続けなければならない状態であったのである。