昭和十一年の記

 正月元日に北昤吉さんから「自分は多摩帝国美術学校長を退いたのだから、衆議院議員に出たいと思うのだが」との話があった。私は「校長は辞めても雑誌社の社長をやっているのだから、雑誌社に専念しては如何ですか。普選第一回の昭和五年に東京都から立候補して惨敗した苦い経験もあるのでよした方がよいのではないですか」と忠告したが、是非出てみると言張るのであった。正月四日に私は北さんと夜行の寝台車で新潟へ向った。水上駅に着いたとき、北さんは寝台車から出て、煙草を吸おうといって喫煙室へ行った。水上駅から一人の素晴しい美人が小母さんを連れて乗込んで喫煙室へ入って来た。寝台が満員なのだろう。北さんは話を打切って煙草ばかりふかしている。私は寝台へもぐりこんだ。
 汽車は長岡駅で停車した。吹雪と積雪のため長岡駅で停車と決って、駅前の大野屋旅館で休憩することにした。朝の四時頃で空はまだ暗い。さきの美人も大野屋へ入った。正午過ぎて一時頃汽車は漸く出るという。私達も乗車した。さきの美人は隣の席だ。女は新潟へ着くと直ぐ迎えの車に乗ってしまった。私達は「小甚」という旅館に入った。
 夜は新潟師範出身の渡辺泰亮氏が来訪して新潟第一区の選挙情勢の分析をしてくれたが皆目判断はつかない。翌日は渡辺氏が校長をしている巻という町へ行き小学校の先生達の会合に北さんと−緒に出席した。そのときの話で新潟師範閥と高田師範閥の争いの中へ巻込まれそうな形勢となった。というのは昭和十年に高田師範が焼けたのを機会に、その復旧の起債を許可しないで、新潟師範一校にまとめるように北さんに大蔵省へ働きかけて欲しい。そうすれば新潟師範卒業生は一体となって北さんを応援するというのであるが、新潟師範閥が応援すれば、高田師範閥は猛反対するだろう。しかも起債問題と師範学校の一県一校に統一するという問題は至難中の至難事だから私はこの案に不賛成であるといって反対して、北さんには一先づ東京へ帰ってもらい、私一人が新潟に残って、情勢分析をして対策を立ててみることにした。しかし当選十三回、当選十一回、当選九回という古強者達を相手にしての戦いであり、その上二十年も郷里を離れていた北さんが、例え弁論の雄と雖も敗色は濃い。併し幸い、新しく北陸に鉄道局が出来るというので新潟市は是非これを新潟へ誘致したいと猛運動をしているとの聞き込みを得た。
 よし、これで勝負を決めるように中央での運動を推進することに決意して帰京した。北さんもこのことに全力を注ぐこととなり、ついに新潟鉄道局実現の可能性がついたので北さんは立候補に踏切った。
 二月二十日の開票で北さんは見事当選して代議士になった。ところが即日から選挙違反の摘発が始った。北さんの身辺にも火がついて、選挙事務長が逮捕されて北さんは当選無効になる可能性が強くなった。さらに困ったことには二十六日に例の二・二六事件が突発した。やがて北さんの実兄一輝が収監された。この上北昤吉が新潟で選挙違反に問われてはと、私は遂に北昤吉さんの身替りになることになり選挙違反事件を買って出た。馬鹿な話であるが、そのときの成行きでは仕方がなかったのである。そのとき病気中の私の祖母と母の容体が悪かったので、家内と子供達は一先づ郷里へ帰したのだが、その後母は危篤状態となりついに三月十四日に亡くなった。この間に於いて私は新潟の未決藍と自宅の間を数回往復した。
 このとき私は学校を止す決心をして井上さんと牧野さんにその旨を伝えたのだが、学生が徴兵猶予の特典がないことで騒いでいるから、この間題だけを何んとか片付けて欲しいから上京するようにと両先生から手紙で頼まれたので、再び単身上京して陸軍省にお百度を踏んで嘆願これ努めた。しかし十一年度中には認可とはならず、転入学した学生達はみを徴兵検査を受けて兵隊に行くことになった。止むなく再び学校に止どまって、十二年度中には改めて徴兵猶予の認可を得るようにすることを決意したのだが、それには先づ学校は財団法人としての認可を受けなければならないこととなり、基本金として最低三万円の積立金をしなければならないのであった。
 またしても東横の五島慶太さんに頼んで三万円を借り出すより外に道がない。再び東横本社の小林支配人を通じて、五島さんに基本金借入れのことの交渉を始めた。この間の苦労は並大抵のことではなかった。まさに血の出る思いとはこのことかと思った。しかし十月に女子部併設の認可を受けたので、漸くのことで五島さんも表向きは寄附金、裏では年八分の利息付きの貸金ということで三万円の借入れが出来た。そこでこれを基本金としての財団法人として、理事長に東横常務の丹羽武朝、理事に東横の重役杉浦由太郎、学校側からは一名杉浦非水氏を入れた。しかし東横は何時でも法人を解散して、学校を東横のものにすることの出来る形におかれた。
 さきの借地の地代は一年間も支払っていない。さらに十万円の校舎建築費の借入金の利子も払っていない。その上また利息付き三万円の借入れである。「仏の顔も三度まで、ということもあるから、そのつもりでいなさい」と東横本社からはおどかされた。しかし無い袖は振れない。地代も利子も払えない。まして元金においておやである。
 漸く十二年一月三十一日に財団法人の認可がおりて、三月三十日に徴兵猶予の認可がおりた。学生は十二年四月一日から、五年間は徴兵検査を受けなくてもよいことになったので一安心した。