昭和十二年の記

 徴兵猶予の特典を受けるために、陸軍省の徴募課の友森清晴大尉のところへお百度を踏んだ当時のことであるが、友森大尉は二・二六事件の香田、安藤、中野大尉等と親しい間柄であったそうで、多摩の徴兵猶予のことについては特別好意的であった。
 当時は日支事変の起きる直前であったので、文科系学校は「つぶせ」というような傾向も強かったときで、陸軍の鼻息は荒らく、徴兵猶予の特典などを新たに学校へ与えるということは考えられそうもなかったことである。しかるに友森大尉の計らいで、三月三十日にこの特典が多摩に与えられて、四月一日から全学生が徴兵検査は受けなくてもよいことになったのである。
 十一年二月の二・二六事件は当時の一大センセーショナルな大事件であって、青年将校等に対する軍法会議における審理はすべて秘密審理であったので、その審理内容は外部から伺い知ることは到底出来ないことであった。しかも七月五日に青年将校十七名は死刑の宣告を受けて、うち十五名が十二日に死刑執行となったのである。そして村中孝次、磯部浅一両氏は刑の執行が延期されていたのである。
 この村中、磯部の両氏は「北一輝、西田税が首魁か、真崎甚三郎大将が首魁か」、このことについての判決のための参考人として死刑の執行は延期されていたのである。というのは、先きの軍法会議中、磯部、村中両氏が、二・二六事件の首魁は真崎甚三郎であって、北、西田ではないといって獄中で真崎甚三郎大将を告訴したからである。
 さらにこの告訴の中には、当時の戒厳令司令官香椎中将に対して「奉勅命令の伝達がなかったに不拘、われわれ皇動隊を奉勅命令に反するものとして、反乱軍とさせられたが、香椎司令官こそ奉勅命令の伝達違反者である」ということで、香椎司令官をも告訴したのである。
 この軍法会議の秘密が、磯部浅一氏の手記として獄中から、当時の便所の塵紙二十八枚に書かれたものが北昤吉氏に届けられて、これがキャビネの乾板に写しとられて現像されたものが、世上に現われたことから、私は憲兵隊の特高課と警視庁の特高課に追いまわされる身となったのである。
 そのとき私は地下に潜っていながら陸軍省の徴募課へ日参していたのだから、友森大尉の厚意は特別なものであったと思う。またこの地下潜行中、大久保百人町の露地奥に荒畑寒村氏がいたが、当時刑事二名が寒村氏を監視するために露地口に立ん坊していたのに、私はその寒村氏の家の斜す向いの家に潜入していて出歩いていたのであるが、大物の寒村氏にのみ注視していたものか、かえって私は安全であった。
 なお国技館の初場所に私は相撲見物に行っていたとき、場内アナウンスで「美術学校の村田さん木戸までお出で下さい」と呼ばれたが、私は上野の美術の森田さんのことかと思って木戸へは行かなった。相撲がすんで木戸口で学校の職員の皆見君が「危いから逃げて下さい」といったので、私は咄嗟にしゃがんで木戸口から逃げ出した。私は背が高いので、憲兵の特高は見落したものと思う。
 また、北昤吉氏の自宅に連絡に行ったとき、杉並署の特高の高橋刑事が「村田さん、よいところで会った。あなたに対する逮捕状が出ているから、警察に来て下さい」といったので、「いや、会わなかったことにしてくれ」といって私は北家を飛出した。
 一月の国会では、予算会議に秘密会を要求して、獄中からの磯部氏の手記について、陸軍大臣に北代議士が質問するということで、政党人間では評判になっていたが、その前日の本会議において、浜田国松代議士が、寺内陸軍大臣に対する質問中、軍を侮辱したということで、寺内大将が浜田代議士を詰問したことから浜田代議士は「私の質間中に軍を侮辱した個所があれば、私は腹を切って見せる」という大見得を切ったあの有名な浜田代議士の腹切り問答があって、議場は騒然となり、国会は三日間の休会となったのである。私はこのとき国会の傍聴席でこれを目撃していたが、休会の宣言と時に人ごみを利用して虎口を脱した。この国会二日間の停会中に「軍は北一輝は絶対に死刑にはしない」という杉山参謀次長の謀略にかかって、ついに磯部氏の獄中手記は軍部にまき上げられてしまったのである。しかるに八月十四日北一輝は死刑の宣告を受けて、十九日に死刑を執行されたのである。
 私は三月に母が亡くなり、八十四才の祖母がまだ中風で寝たきりなので、家内と子供を郷里に帰していたから、八月中は郷里の佐渡へ帰って居た。
 八月十四日に北一輝死刑の号外をみて仰天した。丁度一輝さんの佐渡の生家に一輝さんの実母の「りん」さんが帰郷中であったので、直ちにお母さんのところへ車でかけつけた。
 そこへ北昤吉氏から「兄との面会が許されたから母を東京へたたせよ」と電報が来た。私がそれをお母さんに話したところ「いや、わしは行かない」といって土間に蓆をしいて、横になって夏の涼を入れた。ところが「いや、村田さん、わしは東京へ行く、供はつけなでくれ」というのである。
 一輝さんの生家の港町では号外を見た全町の人々が内証で北家の菩堤寺へ続々集って坊さんに読経を頼んでいるということである。
 北一輝に対する町の人々は偉人、英雄の扱いである。しかるに警察は大謀反人として北家への出入りは差し止めるとのお達しである。私一人が船場まで実母を送りに出た。翌早朝、東京荻窪の北昤吉さんの家に着いたお母さんに、昤吉さんが「お母さん実は」といったら「昤、何も言わないでよい。わしは知っている」といって帯の間から一輝さん死刑の号外を出したとのことである。
 昤吉さんは十六日に「母と昤吉さんの二人だけを一輝さんに面会させる許可が出た」ということを話しして、面会に行くことをお母さんに勧めたところ「昤、お前一人で行け、わしは行かない」といってついに行かなかったのである。母として、死に行くわが子に会いたくない筈はないのである。思うに若くして革命に身を投じ、意志とちがって敗れて死に行く人に悲しみを見せたくないと思う親心であったろうと思うのである。その後私は東京でお母さんに会ったとき「輝はしたいことをして死んだのだから倖せ者さ、あれの父は五十才で死んだのに父より三年も永生きしたし、何も言うことはないさ」といって涙一つ見せない。そして黄興や宗教仁等支那の革命の志士達が、若い日の一輝さん等の戸塚の家に遊びに来て、朝から鯉を油で煮て困ったなどと話しをしてくれた。
 お母さんは非常に気丈夫な人であって、何事にも、くどき事や愚痴めいたことは一つも言わない人であった。昤吉さんが一輝さんに面会のとき「兄貴、日支事変がおきたよ」といったら「困ったことになったものだ」と答えたという。また一輝さんは「家へ出入りした若い人達が、皆死んだので、おれも死んで帰れば満足だよ」といって笑ったということを昤吉さんから聞いた。
 二・二六事件の青年将校達も、北一輝や西田税も日支事変や大陸政策などの愚策は思慮にはもってはいなかったのである。さきにも述べた長州閥による陸軍の寺内寿一大将、政界の松岡洋右、岸信介、財界の久原房之助、鮎川義介等による満洲の権益及び北支の支配権、延いてはアジア全域への野望とが大東亜戦争にまで発展したのであって、これを北一輝のアジア政策に結びつけることは最も危険な歴史観である。
 北一輝はかつて異民族が異民族を征服してはいかん。征服された異民族は、必ず征服者に報復するから、やはり民族自決であるべきで、日本が朝鮮を合併したことは間違いであると喝破したのである。
 これらのことは学校の建設とは全く縁のない事であるが、学校建設途上における私の生涯の中で忘れることの出来ない事柄であって、私がもし学校に関係しなかったなら或はこの半面の方向に終始していたかも知れないので、記しておくこととしたのである。
 この年十月に東京府学務課から、「多摩美術学校はお隣りの守屋東さんに学校を譲渡するのですか」と藪から棒に聞かれた。「とんでもない。学校等は売りませんよ」と答えたら「でも東星学園女学校がお宅の土地を校地とすることを地主田中という人との間に、土地の賃貸契約が出来たという届が出ています」というのである。それは全くの事実無根であって、本校の承諾を添付するよう学務課から東星学園へ要請して欲しいといって帰った。
 東星学園(後の大東学園)は運動場を持たない学校であったのに、学校認可は全くナンセンスである。その後守屋東さんから、度々運動場を共使用にして欲しいと申込まれたが、その都度お断りした。
 昭和四十五年に大東学園はほんの一部を残して校舎の九割方が土地会社の所有となって元の校舎は全部撤去された。四十六年春に高層なマンションがその土地会社の手で建てられた。何んでも学内の内輪もめが原因で訴訟にまで発展して土地会社に校地を取られたのだそうである。お蔭で本学も高層マンションのために環境は著しく悪くなった。