昭和17年の記
 この年の暮、東横本社は校庭の半分約二千坪を田園都市課で、住宅に分譲するから測量するといって五、六名の人達が測量器を持って来て、校庭の測量を始めた。私は驚いて、この人達に退去を求め、退去しなければ家宅侵入で訴えるといったが、「私達にはわかりません、本社へ交渉してくれ」といって測量を止めない。止むなく私は元の法相塩野季彦氏を中野の私邸に訪ねて「五島慶太氏に折角の美術学校をつぶさないように郷(長野県)の先輩として話してもらいたい」と嘆願した。塩野さんは「五島君か、弱ったねェ。彼は私が司法大臣のとき、三越の株を半分以上買占めて三越を乗取り、さらに全国のデパートを独占することをねらい、また私鉄を統合して自分の掌中に握る計画を実行していたので、時の蔵相兼商相の池田成彬君と話合い、池田君から五島君に中止するよう勧告をさせ、若し中止しなければ、私の方で五島君を逮捕することにしたのだ。あの男は五島慶太ではなく、強盗慶太だよ。五島君のところへは私の使いを出して話してやる」といわれた。
 数日後塩野さんから来いと電話があったので、中野の私邸へ行ったところ「五島君は俺に、多摩美の校長になってくれ。そして自分が理事長になって、多摩美を立派な学校にしましょうというのだ。また五島君は〝自分は行くとして可ならざるはないのに、多摩美の村田という男だけには……〟」といったそうだ。
「君、天下の五島をして村田だけはわしの意のままにならんと嘆息させたのだから、君も以って冥すべしだよ」といわれ、「わしは法律の学校なら校長にもなるが、美術学校の校長にはならんから、まあもう少し面倒を見てやってくれ」と伝えさせておいたとのことであった。其の後測量にも出来なくなって安心はしたものの、このままではいけないので、時の東条内閣の厚生省保険院長官檜貝詮三氏が、「工業学校と合併して美術学校を専門学校に昇格させてはどうか。それなら工業学校建築の材料と建築費は出す。また専門学校の基本金十万円と東横への肩替りの金も出す。出資者は山梨県の大きな木材会社の社長だから大丈夫だ」とのことであったので、私もこれで東横との縁も切れればと喜んだ。
 中目黒の檜貝邸も度々伺ったのだが、その後さっぱり金は出来ない。どうやら話は尻切れトンボに終わりそうなので、檜貝氏に話の決着を迫ったところ、「申訳がない。木材会社が駄目になったので金が出ない」とのことで、これも話は纏らないことになった。
 この一月に出来た翼賛壮年団なるものの世田谷区の理事に私に入って欲しいという話が翼賛本部からきたが私は断った。四月に翼賛選挙が行われた。北さんは非推薦で立候補した。推薦三百八十一名、非推薦三十五名である。十七年の翼賛選挙こそまことにひどいものであった。新潟の野沢という人が「君が選挙違反による公民権停止中で動けないことは判っているが、なにしろこんどの選挙は全く無茶だ。地方翼賛会の幹部や在卿軍人会役員等が、町村長や警察署長と連携をとっての大選拳干渉だ。わが党の幹部も警察がこわくて、わしのいうことなど聞いてはくれない。わしはもう心配で耳が全然聞えなくなってしまった。こんな時勢にこそ、北君のような人物が必要なんだ。日本で一人でもよいから非推薦の北君を当選させたい。君は是非わしの代りに各町村長や党の幹部等を説きまわってくれ」とのことで、私はそのまま佐渡に渡って、各町村を歩きまわり、さらに西蒲原郡、新潟市と暗行を続けた。
 幸い、この選挙にも辛勝することが出来たが、北さんは当選と時に 「造言蜚語」というかどで、新潟刑務所に収監された。塩野元法相、小原元法相等の尽力で、「流言蜚語」であっても「造言蜚語」ではないということになり、北さんは難をのがれた。
 翼賛選挙は東条内閣の下で、時の商工大臣岸信介氏が総元締となり、翼賛会推薦候補以外は一人も当選させないというものであって、非推薦になった候補者というのは「前年度翼賛会予算六百万円を今年度は三百万円に削減すべし」として、前年度より増額される政府の翼賛会予算成立に反対の青票を投じた五十数名の前代議士諸公であった。
 この時の選挙で非推薦で当選した者は、三十五名中保守系では尾崎行雄、鳩山一郎、北昤吉、安藤正純、星島二郎、芦田均、川崎克の七名だけであった。選挙がすんで直ぐ尾崎愕堂を除く六名が中心になって、非推薦姐が山王ホテルに「偲㑪会」という会を作り、毎日ここに会合していた。
 世話人はこのホテルの総支配人であった樋原悦二郎氏(非推薦落選組)であった。しかしこの会の人達はことごとに東条大将や軍部に睨まれ、いくばくもなく翼賛会に吸収されてしまったが、尾崎先生と北さんの二人だけは被告あつかいされて、翼賛会に入れなかった。鳩山さんは翼賛会には入ったが、直ちに軽井沢に逃避して、ついに終戦まで東京へは出て来なかった。
 終戦と時に軽井沢から東京に出てこられた鳩山さんは、さきに非推薦当選組五人を自宅に招請して、純正かつ清浄なる政党を結集したいといい出し、翼賛会推薦者は一人も加えないという意気込みであった。
 これが戦後自由党という政党の発祥となったのである。しかし、政党は「力」であり「数」であるから、やはり数を増やさなければ政党の力は出来ないということで、段々に入党者を増やして、ついに数百名の水ぶくれ自由党が出来たのである。
塩野季彦 元司法大臣
五島慶太  
池田成彬 蔵相兼商相
檜貝詮三 厚生省保険院長官
 
野沢 新潟
西蒲原郡  
小原 元法相
岸信介 商工大臣
尾崎行雄 翼賛会非推薦保守系
鳩山一郎 翼賛会非推薦保守系
安藤正純 翼賛会非推薦保守系
星島二郎 翼賛会非推薦保守系
芦田均 翼賛会非推薦保守系
川崎克 翼賛会非推薦保守系
樋原悦二郎 非推薦落選