昭和十九年の記

 この年二月東条内閣改造で、運輸通信大臣になった五島慶太氏は文部省に対し「多摩美術学校を廃校にしろ」といったということで、文部省専門学務局から事情を聞きたいといって来た。
 私は「文部行政は命令が二途に出るのですか。運輸通信大臣には学校に対する廃校命令権があるのですか。しかも本校と東横の間には十八年五月限り関係は切れたのであります」といったところ、文部省は「いや、五島運輸通信大臣に対しては、学校の廃校は出来ませんと断ってあるのだが、一応五島さんと多摩美術学校との間にどんな事情があるのか、聞いておきたかったからです。これでよくわかりました」といった。
 さる十八年暮れの校舎転用協議会からの達による陸軍省との一件以来、陸軍省は手をひいて、海軍省から「海軍の疎開の一部の使用に校舎を貸していただきたい」と丁重な依頼があったので、海軍技術研究所に校舎を転用させることにした。学校の図書、備品は一括して本館の下の部屋に移して、私一人が留守居として残った。
 ところがこの一月以来、海軍技術研究所の一部が本校に引越してきて、海軍技術大尉一名、中尉、少尉等二、三名と職員十数名がきた。なお引続き来る予定らしいが、このとき時に本校の用務員等はすべて軍属にさせられた。ところが二月になると少尉殿が下宿代わりに学校内に寝泊りしたいと言い出して、軍隊用寝台を持ち込んできた。軍属になったおばさんに炊事をして欲しいという。まあ軍人さんのいうことだからとおばさんも承知して炊事をしてやった。米が配給で、割当であることもお構いなしに、飯は三杯から五杯位お代わりする。味噌汁は二杯以上も代える。
 副食物には文句をつけ、おばさんが「それでは困ります」というと地団駄を踏んでどなる。全く始末におえない代物らしい。「お前は軍属なんだ。俺は命令する。〝命令〟違反は軍法会議にかけて罰するぞ」といって毎日おどすとのことで、おばさんは「とんでもないことになりました。学校を止めさせて頂けませんか」と嘆願して来た。二、三回はおばさんを宥めていたが、そのうちに二、三人の職員が、学校の荷物のおいてある教室の中へ入って、絵を二、三枚と学校の金を持ち出した事実があった。私は海軍技術研究所長の某海軍少将に会って、余りの不届を詰問し、犯人と少尉殿の処分を要請した。またおばさんの解雇を申し出た。なお「軍民離間はこんなところにあると思う。戦局苛烈の折柄、軍も自重されたい」と卒直に進言した。
 少将殿は「全く申訳ない。早速調査をさせて処置します。〝沐猴にして冠する〟とはこのことです」といって、翌日大佐二人が学校に見えて調査し、犯人を他に移動させて、絵二点と金を学校へ返した。そしておばさんは軍属を解除した。なおさきの少尉殿と他の中尉、大尉等も第一線部隊へ移動命令が出たそうだ。更に全国の各海軍関係の軍需工場に対し「今後民間人に対しては一層丁重に応待すること」という通達を出したとのことであった。軍も此の頃から漸く反省期に入って来たようである。
 しかし、戦局はますます悪くなるばかりで、二月に米軍のマリアナ群島上陸、クェゼリン島、ルオット島の日本軍全滅。二月二十五日文部省は食糧増産のため全国の学徒の動員を通達した。
 三月九日B29による大空襲で、本所、深川方面は全滅となる。私は十一日に焼跡を徒歩で歩いて見て、その惨状に驚き、帰って家族を佐渡に疎開させた。
 三月三十一日古賀連合艦隊司令長官が戦死した。五月に入ると国民総蹶起運動中央総会開催となった。私も動員されそうである。陸軍省へ行って友森さんに会って見たら、友森さんはいかめしい参謀肩章を肩からぶら下げている。
 「どうされたのですか」と聞いたところ、「私も第一戦に出ます」というから「それは大変ですね」といったら「私は西部軍所属ですから福岡です」という。「福岡なら内地ではありませんか」「いや、内地も第一戦です」と言い切った。
 六月、米軍サイパン島上陸、マリアナ沖海戦で日本空母の大半を失った。
 七月にはサイパン島の日本軍全滅。
 七月十八日東条内閣総辞職。小磯、米内内閣成立。愈々戦争終結内閣が出来たと思ったが、戦争終結は仲々難しいらしい。
 米内さんが小磯さんに「現役に復帰して、陸相を兼務して、陸、海が一体となって戦争終結に努力しよう」ということで出来た内閣なのに、陸軍が小磯大将の現役復帰を仲々承知しない。しかも阿南陸軍大将が陸相となって、却って陸軍は「本土決戦」「竹槍戦術」などと称へ出した。しかも、われわれのような銃後の廃兵に対しても「暁の訓練」と称して、毎朝銃槍の練習を強いた。
 これは余談だが、十八年に前フィリピン司令長官本間雅晴陸軍中将が、東条首相によって、軍司令官を被免されて退役になったとき、私達郷の者で本間中将の慰労会を新橋駅上の食堂で開いた。そのとき本間中将が、戦局の見通しについて卒直に無理な戦争であることを述べた。「東条君が大命降下のとき私(本間)に陸相を引受けてくれといったのだが、私は断って、君は陸相であるべきで首相になってはいかんと忠告したのが勘にさわったらしい。東条君と私は陸大が期で卒業時の一番が田中静壱、二番が今村均、三番が私、山下奉文君が七番、東条君はたしか十七番位だった筈で、しかも私達は参謀本部系で、作戦用兵のことばかりやってきたので、戦争をやる第一線指揮の方ではないのに、われわれ参謀系の田中、今村、僕、山下等を第一線部隊の司令官にして、却って戦争屋さん達が後方で作戦用兵をやっている。このことからが大体無理なことだ。私はこれからは晴耕雨読でなく晴読雨読で余生を送りたい」といわれた。
 この本間中将が戦後マッカーサー元師によって、コレヒドルの米軍捕虜を虐待したということで、フィリッピンの米軍裁判で死刑になった。
 友森大佐は米軍の横浜裁判で、本間中将はフィリピン裁判で共に死刑に処せられたが、私の知る限り、この二人は当時の陸軍きっての文化人であり正義感の強い人達であった。決して捕虜を虐待したりするようなケチな人間ではないのである。まことに立派な人達であったのである。
 兎角人を裁く人間というものは得てしてあやまちを犯し易いものであるが、マッカーサー元師も調子に乗ってこんな非人道的な戦争裁判で、善良な人達を死刑にして却って悪い人達を生かしておいて日本の政治にまた汚点を残したのである。
 十一月に入ったとき、NHKの論説委員の一人であった海老名一雄(海老名弾正の長男)さんが来られて、「どうも戦争は駄目だね。実は、これは絶対内緒のことだが、僕がキャッチしているフィリピンのマッカーサー司令部からの情報だと、朝鮮の代表李承晩は、日本の全面降伏は武装解除でなくてはならないという。重慶の蒋介石代表は、日本の武装は解除しないで、中国軍と連合して中国共産党を押えることにしたいといって譲らないので、結論には達しないらしいが、とにかく日本の全面降伏を前提としての敗戦後の日本の処理について、すでに米連合軍は検討しているのである。日本の敗戦は既定事実として討議している。絶対に勝てない戦争なんだが、これについては君はどうしたらよいと思うか」と問われた。私は「最早や鶴の一声以外は戦争終結の方法はありません」、「鶴の一声をどうしたら出すことが出来るか」といわれたので、「海軍は初めからこの戦争には乗気でなかったのだから、海軍の上層部を通じてやることですね」、「海軍の上層部とは誰れのことか」、「岡田啓介大将です」、「岡田大将には誰れが話すか」、「さあ誰れがいいでしょうね」といったが「私は今動くと直ぐに憲兵隊の特高と警視庁の特高から連れて行かれるから動けない」、「いや、今の司法大臣松坂広範は私の大学の期だから、松坂に話して君は逮捕させないようにするがどうだ」といって海老名氏はその日は帰った。それからまた来て「松坂君は警視庁の方は絶対責任をもつが、陸軍の方は気違いのようになっているから憲兵隊は難かしい。しかし陸軍以外の各閣僚は全部が賛成で、とくに外相は大賛成だ。是非民間からこの運動を推進して欲しいと言われた」とのことであったので、私は海老名さんと相談の上、海老名さんの恩師でもあり、もとの義父でもあって、実母(横井小楠の娘で海老名弾正の奥さん)と従弟妹の間柄である「徳富蘇峰」翁(ぢい)さんに話してみるかということになって、海老名さんが伊豆山の徳富蘇峰さんに手紙を出したところ、徳冨さんから「是非会いたいから来てくれ」との返事があったので、二人は欣喜雀躍して正月早々伊豆山に徳冨さんを訪問することになったのである。