昭和二十年の記

 一月五日に海老名さんと私は伊豆山の徳富蘇峰翁を訪ねた。翁は普段着の上に紫に真白な毛皮の裏をつけたチャンチャンコを着流して、まことに気さくに私達を迎えてくれた。しかもかつての弟子であり、二女の娘婿(その後離婚)でもあった海老名氏に対しては、二十年振りの懐しさもあってか、手をとらんばかりの応待振りである。私達は国民服に戦闘帽、防空頭巾を肩から背負ってゲートル、ゴム長靴という出で立ちなので、徳富翁は「いや大変だね、幸いここは燈火管制だけで飛行機は上空通過だから安心してこの通り着流しで居れる。さあ今日はここに泊って、ゆっくり湯にでも入って行きなさい。旅館をとってあるから、そこで休んで、明日ゆっくり話しましょう。これからは若い村田さん達にしっかりやって頂かなければならないから頼みますよ」とまことに如才のない振舞いに感激してしまった。誘われるままに熱海の桃山荘という旅館へ案内された。まず湯にといわれて湯殿で靴下を脱いだところ二人共全指の股は垢で真黒だ。湯に入っていると「流しを」といって男衆が来た。「いや、これは、これは」と二人共恐れ入って夢のような気分で、何年振りかで背中を流してもらった。
 湯から上ると女中が浴衣に丹前を重ねて羽織まで添えてくれた。部屋には近頃みたこともない大変な料理が出ている。しかもお酒もついている。これはこれはとばかり恐縮しながら久し振りのお酒にいい気になってお代りを数本もらった。いい気持で蒲団の中へ横になった。
 朝起きしたつもりであったが、もう十一時過ぎになっている。空襲におびえていた毎日毎夜が全くうそのようだ。一体これはどうしたことなんだ、夢の島へでも来たような気分だ。海老名氏「これはアメさんが日本占領の暁は熱海を保養地にする気で爆撃を避けて通っているのではないか」という。私も「そうかも知れないね」といった。
 再びみじめな防空姿に身を固めて伊豆山に出掛けようとしたら、女中が「伊豆山の先生からお電話で、お昼は網代の料理屋に用意をさせてあるから、そちらへどうぞ」という。
 もう十二時をまわっている。「じゃ、折角席がとってあるというのに行かない訳にもいくまい。夕方からお翁さんのところへ行くか」と海老名さんと二人はそのまま網代まで行った。鱈腹呑んで食って夕方伊豆山へと思って駅まで行ったところ、海老さんが「村田君、今日はこのまま東京へ帰ってまた出直して御馳走になろうや。話は手紙で書いてあるのでわかっているのだから、何度でも来ようよ」という。ついに要件の重大性も忘れて、夢の島の思い出に誘惑されつつ、東京行きの切符二枚を買ってしまった。
 東京へ帰ったその晩、海老名氏の自宅付近の狸穴一体は空襲で海老名氏は焼出されたらしい。二週間ばかりの後、福井市からの手紙でそれを知ったが、「伊豆山行きは、東京へ帰ってから相談しよう」といって来た。
 その後空襲は愈々激しくなり、列車への機銃掃射も始った。海老名氏から「汽車にも乗れなくなった。妻の郷里に蟄居している」といって来た。海老名氏はそれ限り東京へ出てこないので伊豆山行きもそれ限りになってしまった。
 思えば主戦論者であった徳冨翁、或はこれが手であって、肩すかしを食わされたのかも知れない、と今でも思っている。かつて、二・二六事件の磯部浅一の獄中手記の写真一部を小笠原長生中将に托して、秩父宮から上聞に達するようにお願いのため、私自身で小笠原中将にその写真を手渡したのに、却って軍の上層部にそれが渡って、私が追われる身となった失敗もあり、またしてもの失敗かと、いまさらながら自笑している。
 五月二十五日未明の大空襲で、学校の校舎は全焼した。学校の図書も備品も一切の書類もすべて灰燼に帰した。私にとっては妻子を一時に亡くしたよりも悲しいといって私は校舎の焼跡に毎日立ち続けた。単なる火災で焼けても、これとじ状態になる筈なのに、「戦禍」だ「戦災」だということが頭から去らない。「普通の死」と「戦死」とではやはり受けとり方の感懐が違うものだ、と私は信じている。
 小磯内閣辞職、鈴木貫太郎内閣成立、六月米軍沖繩占領、本土決戦決行と決定、八月六日広島に原爆投下、九日長崎に原爆投下、十四日ポツダム宣言受諾、十五日無条件降伏放送、戦争は終った。全国民虚脱状態となる。
 八月三十一日マッカーサー米連合軍司令長官厚木飛行場に到着。占領下の日本が始った。
 八月十五日、敗戦日本の中の本校、灰の焼跡、先生も校舎もすべて過去のものとなって消え去った。
 消えたとはいえ、過去十年間の教師の名前だけは記しておく。

昭和十年  杉浦非水  図案科教授 校長  死亡
      井上折治  学科教授 学監
      村田晴彦  主事 学生監

昭和十年  安田靱彦  日本画科顧問
      中村丘陵      教授 主任 死亡 
      山村耕花      教授    死亡
      郷倉千靱      教授 
      牧野虎雄  油画科教授 主任  死亡
      大久保作次郎       
      木村荘八            死亡
      鈴木 誠     助教授    死亡
      吉村芳松            死亡
      皆見鵬三     助手     死亡
      吉田三郎  彫刻科教授 主任  死亡
      佐々木大樹   (木彫)
      木村和一  図案科教授     死亡
      小川倩葭     講師     死亡
      新井 泉    

昭和十年 野津憲之丞  図案科助手
     大隈為三   学科教授      死亡
     三木 清             死亡
     渡辺素舟     
     木村雄山             死亡
     長瀬 誠     講師    
     末吉菊麿     
     森田亀之助     
     脇本楽之軒            死亡
     岸田日出刀            死亡
     今井兼次     
     佐藤次夫     
     逸見梅栄     
     滝沢信治  軍事教官       死亡

昭和十一年 小池 厳  図案科講師

昭和十二年 高村豊周  学科講師      死亡
      吉田澄舟  日本画科講師    死亡
      磯部 陽  図案科助手 
      大成龍雄  学科講師 
      西谷幸吉  軍事教官      死亡
      金子竹松  
      近藤称吉  学科講師      死亡
      上田畦草  日本画科助教授   
      建畠大夢  彫刻家講師     死亡

昭和十三年 中村研一  油画科教授     死亡
      小松平五郎 音楽講師      死亡
      坂井直芳  学科講師      
      高橋重郎  日本画科助手
      反町博彦  油画科助手
      児島正典  彫刻科助手

昭和十三年 寺内銈三  油画科助手     死亡
      福浦 三郎 図案科助手  
      関口 謙輔    講師
      生田 穣  学科講師

昭和十四年 加藤 泰     
      重信文雄  図案科助手
      田中田鶴子 油画科助手
      石本光太郎 日本画科助教授

昭和十五年 泉二勝麿  彫刻科教授
      里見宗次  図案科教授
      青柳正広  学科講師

昭和十七年 図司義夫  図案科助手
      岩下 洋     
      伴野三千良 学科講師
      長屋 勇  油画科助教授

昭和十八年 吉田謙吉  図案科講師
      塩塚四郎     
      藤川忠治  学科講師
      新 規矩男