昭和20年8月16日 焼跡からの復興

9月中旬、 出陣学生7-8名が焼跡に集まって、学校再建を私に懇請した。
しかし、校舎は灰塵に帰し、教師の大半は疎開して東京には5-6名しかいない。
だが10月には再建を決意して邁進することにした。
実は、3月の貴族院議員選挙に多額納税議員として当選した岩波茂雄氏の選挙事務所から、本校教授三木清が3月28日に警察へ拉致されたが、西神田署に連れていかれたのか、警察庁に留置されているのか、その場所が不明である。差し入れが出来ない。またどうゆう理由で連れて行かれたのかが、警視庁で調べてもらいたいと岩波茂雄から使いの者が小生の自宅へ来られた。
私は早々警視庁の特高部へ云って、それらのことを尋ねたが「こちらでもわからない」の一点張りであった。
私は腹が立って「こんなことでいいのですか」と怒鳴ってみたが、その当時はまだ戦争の敗色は濃いとはいっても軍も警察庁も鼻息だけは荒いときなので、如何とも出来なかった。
9月26日三木清が獄死したことから「思想犯は全員釈放しろ」とGHQの命令が出て、志賀義雄、徳田球一、宮本顕治等は18年間の北海道網走監獄での服役中を釈放されて、共産党は合法政党となったのである。
10月になって、私は在京の牧野虎雄井上忻治今井兼治吉田三郎鈴木誠渡辺素舟等6名の先生達に新宿内藤町の牧野さんの自宅に参集してもらって本学の再建のことについて協議した。
その頃、昭和医専の上条氏から「多摩美術学校は最早復興は不可能だろうから、君に100万円渡すから上野毛の校地を昭和医専のものにしてくれないか。昭和医専を昭和医大に昇格させるから君は昭和医大の予科長に就任してもらいたい」と交渉を受けた。
私は「先制の学校は非戦災校であり、私の学校は戦災校である。終戦と同時に日本は戦争を放棄して文化国家建設を国是おすることを世界に宣言したのであるから文化の最先端を行く美術学校である本校を是非復興させていただきたい。それには借りている20万円を帳消しにして更に復興費として50万円を貸してもらいたい」と申し出た。
上条氏は「君のその意想にたいして、医大昇格の校地も、予科長の話も御破算にして、20万円の貸金については考慮っせてほしい。但し新規貸出のことは断る」といわれた。
11月になってから、私は或る人を通じて、元内相の河原田稼吉氏に紹介されて、学校再建のことについて援助を依頼した。
「何れ今の金は凍結されるだろうから、金を学校へ出しておい方がよい」という事を河原田さんが大阪の某実業家に話してくらたのだが、当時はなかなかウンと云って踏ん切りをつける人は少なかった。
又私の友人は「児玉誉士夫氏が児玉期間の金を寄付のかたちで出したらしいから、行って話してみてはどうか」といってくれたが、児玉氏に面識のない私は断った。
さきの河原田氏の話を待っている間に、私は溝ノ口の日本光学の元軍需工場跡の建物約3,000坪の購入を交渉した。
日本光学はかねが出来次第売渡してもよいということで建物の配置図もくれた。
この当時渡しはまた反面において社会党の田原春次浅沼稲次郎中村高一氏等の提唱で出来た海外同胞引揚促進運動と日本漁民組合とに関係させられていたので、社会党の結成準備事務所や是等の事務室に出入りしていた。
それは社会党の結成準備事務所が新橋の堤第一ビルにあったので、虎の門の文部省へ行くのに便利であったからだある。
というのは、私は多摩帝国美術学校の復興と専門学校昇格を文部省大学局専門学校課に交渉を重ねていたので、政治運動にからめてこれらのはかりたかったからである。
 
友森清晴
旧姓:馬場

陸軍士官学校卒34期
陸軍省徴募課課長 s16-17
軍務局兵備課高級課員
1945/8/9 油山での捕虜殺害事件
  B29の搭乗員8名を殺害
  処刑の指揮官友森清晴大佐
  西部方面軍軍参謀副長
戦犯  
世界真光文明教団代表役員
  地位保全事件 証人尋問

奥田 海軍大佐
藤田 海軍大佐
日高第四郎 1946年 文部省学校局長
戦後の学制改革に参加
森田 文部省総務課長
米原 文部省専門学務課長
 
檜見詮三 東条内閣保険局総裁