昭和21年の記


2月になって金融緊急措置令が交付され、>5万円以上の金の移動が出来ないことになってしまった。
3,000坪の日本光学の工場購入の交渉も夢の話となって消えてしまった。
そこで止むなく文部省へ行って、他の軍事工場跡の借入れの斡旋を頼んだが、文部省は海軍省の終戦事務処理局へ行って見ろといわれた。終戦事務処理局からは大蔵省の国有財産部へ行けといわれて、国有財産部へ行ったら、国有財産部では、割当ては全部すんで何にもないといって拒絶された。
仕方なく幣原内閣の内務大臣三土忠造氏に依頼するより外にないと思って、大手町にあった焼残りの木造の内務省へ出掛けて内務大臣に面会を求めた。
秘書官は「終戦処理を兼ねての内閣はいま超非常事態にあるので、あなたの焼けた学校の校舎のことなどは大臣に取次げない」と断られた。「いや私は三土内務大臣には大きな貸しがあるのである。今日はその貸しを返して貰いに来たのだ。私は直接大臣にお会いする」といって大臣室のドアに手をかけた。秘書官は大あわてにあわてて、「名刺を下さい、取次ぐだけ取次いでみます」といって、私の名刺を持って大臣室へ入った。「大臣がお目にかかるそうです。直ぐ閣議に出掛けるので、話は簡単にお願いします」という。
初対面の三土さんが「いま閣議が始まるので直ぐ出掛けるから立話で聞く」といわれたから、「私の学校が焼けたので、軍需工場を二棟ばかり国有財産部から拝借したいのですが、国有財産部では建物は何にもないといって相手にしてくれません。大臣から一つお骨折りを願いたいと思って参りました。」>
三土さんは何かも言わずに机上のボタンを押して秘書官を呼び「いまの国有財産部長は誰れか」と問われた。
秘書官は直ぐ大蔵省へ電話をした。その問に三土さんは名刺を出して、「知人村田晴彦君を御紹介します。出来得る限りの便宜、御取り計らいをお願いします」と書いて、国有財産部長加藤八郎殿と書いた名刺の下へ大きくサインをした。「この名刺で君の目的が達せられたら電話もいらない。来なくてもよい。お互い忙しいのだから。若し駄目のときは電話を下さい。私が直接行って必ず何とかしますから。今日はこれで失礼する」といって、秘書官を連れて急いで閣議へ出掛けた。私は流石三土さんは偉い政治家だと思った。僅かばかりの私のしたことを恩にきて、この超非常時によくも大臣としてこんな丁重なあつかいをしてくれたものだと全く感に堪えないのである。このときの三土さんの名刺の効果が本校の現在の溝ノ口校舎2棟三土忠造氏のこの厚意によって、戦後の本校が再建することの機会に恵まれたのであるから、このことは特筆しておきたい。
三土さんが昭和>9年の有名な帝国人絹事件という政治謀略による疑獄事件に前大臣●●として連座して投獄されたときのことである。
それは帝国人絹株式会社に台湾銀行から特別融資をして多額の収賄が行われたということで、時の商工大臣中島久万吉、鉄道大臣三土忠造大田大蔵次官、大野龍太大蔵省特別銀行課長等が市ヶ谷の監獄に投獄されて、ひどい拷問を受けて、自白を強要されたのであるが、独り三土さんだけは、自供に応じず、起訴事実を否定し続けたという当時大センセイショナルな大事件であった。私は某雑誌社の編集部にいて、この事件を知り、しかもこれが政友会の総裁をめぐる争いからで、旧政友会●●派に対する満州派の軍部と松岡洋右久原房之助鮎川義介等の長州派財閥との確執が疑獄事件をデッチあげた陰謀であることに怒りを感じて一役買ったのである。
「昭和聖代の怪事件、事実無根、砂上の楼閣」という見出しで、証據事実を論駁した十銭パンフレット三万部を印刷して、全都の駅の売店で販売したのである。このパンフレットはその時の鉄道次官弁護士名川侃市(代議士)が、三土氏のために苦心の上集めた証據を収録したものであるから、その信憑性は確かなものであった。
前●には●七●●●●外和●●●●で昭和の名判決として裁判史上に記録されている。
公判では「事実のデッチあげによる、猿が水面に月影を掬うが如きものである」という名判決で三土さん外全員が無罪となったのである。
ことときの裁判長が藤井五一郎先生であり、また偶然、私に対する昭和>40年のデッチあげによる事実無根の告訴が不起訴となったときの弁護士がこの藤井五一郎先生であったことは全くの奇縁である。
このとき私は時の右翼団体と憲兵隊の特高課からはえらく批判されたが、事実に反する陰謀を糾弾することが、私の性格から来る特異性でもあったので、私は敢えて市ヶ谷刑務所の三土さんに白隠禅師の訓話集一冊を名を告げずに差入れたのである。その日は大暴風雨を伴った台風の日で、大阪の天王寺の五重の塔が倒れたときのことでもある。
三土さんは無罪の判決による枢密顧問官に復帰したが、戦後>20年>10月幣原喜重郎内閣の内務大臣となったのである。私は一度も面識はなかったが、学校の校舎問題で、元大蔵大臣三土忠造を利用しようとしてはじめて面識を得たのである。
事実このときの名刺紹介で、即日その場で、国有財産部長の加藤八郎氏は他に予約中の日本光学の建物>2棟を多摩美術学校に貸付けることを>5月>23日付の中央命令で決定してくれたのである。
それが終戦後本学がこの建物を本據として、専門学校に昇格し、短大にも、また>4年制の新制大学にと発展して今日に至った基盤となったのである。また多摩芸術学園もこの校地と建物で誕生し、大学寮もここに出来たのである。
思えば不思議な因縁でもある。
三土さんに返してもらった私の貸しと、三土さん達に無罪の判決を下した藤井五一郎裁判長が、昭和>40年に逸見梅栄氏等が起こした本学の紛争において私のためにデッチあげによる事実を明らかにして不起訴の決定をとってくれたのが藤井五一郎先生であることは不思議な奇縁である。
4月>1日から焼残りの>1棟>80余坪の大破校舎を修理して、その一室を宿舎として、学生>4、>5名を宿泊させた。また戦災を受けて防空壕生活をしていた森田亀之助さんが、本校再建に最善の協力をするということで、大破校舎の一室に移ってきた。焼残り校舎と溝ノ口の元軍需工場>2棟>800坪とで専門学校の申請をすることにして、>5月に文部省へ申請書を提出した。
専門学務課の米原課長が、>6月に実地調査に来た。
溝ノ口の仮校舎では専門学校の認可は出来ない、上野毛の校地と校舎とを見に行くといって、同道したが焼跡に立った米原課長は「これで専門学校認可をせよというのですか、これでは如何ともし難い」といわれた。私は「若し戦争さえなければ、とうに専門学校になり得るだけの施設を備えていた学校が、戦争ということのために文化系の専門学校の新設にストップがかかって、この通りの姿になったのです。これは国の方針の間違いであります。学校は戦災で焼けたのです。本校>10年の歴史はこの焼跡の中に歴然と残っています。この灰の中から立上ろうとする日本の文化再建に対し、文部省は進んで協力体制をとってもらいたい。必ず立派な専門学校として、スタートして見せます」といって懇請した。
米原課長は「考えさせてもらいたい。なお金沢市立の美術工芸専門学校は校長予定者の森田亀之助さんが村田さんに押へられているので、金沢市立美術工芸専門学校の承諾書が出せない。そのため認可が出来ないで困っているのだが、森田さんの校長を承諾してやって欲しい」という。
私は「別に森田さんを金沢にやらないというのではないが、多摩美術も同時に専門学校に認可してもらいたいのです。」>
また上野美校の高村豊周さんが来られて「実は私を金沢市が校長に予定して、金沢市立美術工芸専門学校を申請したのだが、私は行けないので森田さんを私が校長に推薦したので、是非森田さんを金沢へやって欲しい。森田さんは村田と多摩美再建を誓ったので今更他へ行くわけにはいかんというのですが、森田さんの金沢美校校長承諾に同意してもらえませんか」と言われた。
私が速座に森田さんの金沢行きを承諾したので、>8月に森田さんは高村さんと一緒に金沢に行かれて、市の当局者と会って金沢美校の校長が決定した。
金沢美校は>9月に開校と決定し、多摩美はこの年は認可にはならなかったが、翌22年>4月の専門学校認可は確定的となった。

20年>11月に結成された日本漁民組合の役員を引受けていた私は反面日本の再建に対しても、働かなければならなかったので、二世で、ジャパン・タイムスの編集部員山村有君を通訳として絶えず>GHQ天然資源局水産部へ出入りしていた。私は>21年>5月にアダムス水産課長を私の郷土、佐渡へ同行した。水産日本の端国佐渡島の実態を見聞させて日本水産の再建に協力を求めることにしたのである。
農林省から水産課長と資材係長二人も同行した。大謀網の網の絲の配給が数年間絶えているので、浜辺でコールタールを煮てこれに網をつけてタール漬けにした網を使って操業していることや、帆布と油のないことで出漁出来ない現状などをつぶさに説明して早急に綿絲と油の配給のために輸入に多大な便宜を図ってもらうことにした。
また牡蠣の養殖筏に針金がないので、藁縄を使っているので至急針金の大量配給のことも考えてもらって、日本の水産には大きな効果をもたらした。
なお「日本は公海において、自己の危険において操業している者による魚による蛋白資源を攝取したいから沿岸三海里の操業区域を撤廃をしてもらいたい」と要請した。
また南氷洋の鯨、赤道直下の出漁によるマグロ、カツオの漁獲も許可して欲しいと要請した。
7月にはまた水産部長のフイードラ氏と資材課長ポーランドの両氏を佐渡に案内して、同様の要請をしたが、すべての要請が許可せられて、日本の水産漁業は復活することになったのである。
このため神奈川県三浦三崎と千葉県鴨川の二ヶ所で盛大な漁民祭を催し、>GHQ水産部からもアダムス他男女>5、>6名が出席した。
特に鴨川では老若男女全町の漁民が海浜で大地引網の実演をやったり、大漁節を全員で踊ったりして一層の興を添えた。
この漁民祭りに、鴨川に疎開中の染色科の木村和一教授と図案科の卒業生神谷君も来てくれた。

本校は>5月>23日、木造>3階建>1棟>600坪と木造平家建>1棟>200坪を溝ノ口の日本光学の元軍需工場を大蔵省国有財産部から借入れて、>3階建の建物を学科教室に急造し、荏原製作所羽田工場の青年学校から戦後不用になった机、椅子、黒板、戸棚等を貰い受けて運びこんだ。平家建>1棟は学校工場を作るべく、元海軍の軍需工場の焼跡から、焼けた旋盤、ミーリング盤、スーパー、ボール盤等の工作機械等払下げをうけて運びこんだ。
また更に丸鋸、帯鋸、電気かんな、機械のみ等の木工機械器具一式を中目黒の木工工場から買受けてこれを据付けて、>200坪のうち、半分を金属工作場、残りを木工工作場に二分することにして学校工場を作ったのである。
この企図は学校を復興するに当り、授業を>Aクラス月・水・金、>Bクラス火・木・土に分けて、更に工場での労働を逆に>Aクラスを火・木・土、>Bクラスを月・水・金に勤務させて、その手当を授業料並びに寮費に充てて全寮制としての学校と学校工場との並立を企としたのである。
取敢えず金属工場では電気スタンドを製作するために、旋盤職工>3名を雇入れて、この製作にかかり、出来た製品を私自身で当時、品不足の三越、白木屋、高島屋の各本●電気器具販売部へ持込んで買上げを交渉して、委託販売ということで店頭においてもらったのである。
また木工工場では、建具類を製作して、建築業界に売込むべく、今井兼次先生の紹介で竹中工務店その他の建築会社へ私自身で交渉に出掛けた。
木工工場では現在の立体デザイン科技術員林藤一郎氏他>4、5名が製作に従事したのである。即ち木造3階建の2階を学生寮として、学生を宿泊させ、希望学生をアルバイトに工場で使ったのである。
この本校復興企画を戦後の全国私学の復興に利用することを時の文部省大学学術局長、学校教育局長日高第四郎氏に私は建言した。
日高氏は「実は私は一高の教頭をしていたので、今後の私学再建は如何にしたらよいのか、私も困っているのです。貴方の計画は面白いと思います。文部省としても是非取上げてみたい」と言われたので、私は「私学はすべて財団法人として民法>34条で規定されておりまして、御承知の通り財団法人は公益法人であって、営利を目的とする事業を営むことを得ずということになっていますから営利を目的とする事業が出来る法人に改めなければ学校は何にも出来ないのです」と答えたところ、日高さんは「たとえ法律を改正してでも、私学が復興することが第一条件である。私は是非この計画をすすめます」と断言した。
その後日高さんは熱心に文部省内でこの問題の検討を重ねた結果、終いに私立学校法の制定に成功されたのである。この間には大蔵省が、全国の私学が営利事業を行って、税金免除となれば、各業界は無税の事業と対抗出来なくなるから、課税措置をとると言い、文部省は教育の一環として無税であるべきだと主張して、この間>3年間大蔵省と文部省との間に折衡が続けられて、ついに直接国税は免除、地方税だけを課税するということで、昭和>24年>12月>15日は私立学校法が公布されるに至り学校法人規定が確立したのである。
私が「実は多摩美術学校は学校工場を作ったんです」といったところ、日高さんは「是非モデルケースとして期待いたしますから、成功させて下さい」といった。
その後学校法人の規定により、私立の各学校では夫々学校工場を経営し、或る高等学校はポマードの製造工場を作ったと聞いている。
また私立大学としては、早稲田、慶應其の他の私立大学は生命保険会社の代理店となって、新入生から一口>5万円の掛捨て保険に加入させて、その総契約高の金を各大学が保険会社から受けて、それを学校復興費に当て、今日の大学復興が完成したと聞いている。
この学校法人の規定から更に宗教法人規定が制定されたと聞き及んでいるが、恐らく各宗門も過去の営利を営むことの出来なかった時代即ちお賽銭収入以外は得ることの出来なかった当時に比べれば、宗門が営利を得る方法として例えば観光施設の拡充によって、拝観料収入等相当の収入源に北鼠笑んでいることと思われる。