昭和22年の記

政党の腐敗が増長慢となり、遂に大東亜戦争にまで発展して、敗戦、敗国となったことから、私は戦後は政党政治の復活によるよりほか亡国から救われる途はないと確信し、鳩山自由党の結党にも社会党の結党にも蔭から参加した。
ことに二大政党を理想として、私は社会党の拡大に力を注いだ。
20年>11月の日本漁民組合の結成以来、組合の役員の一員として資材部と財務部の二部長を兼務した。また海外同胞引揚促進連盟の役員として一役かっていたことはさきに述べた通りである。この海外同胞引揚促進連盟に関係していた>20数名の役員が、>22年の総選挙で、社会党候補として立候補し、全員当選した。社会党はこの選挙で一挙に衆議院で>143名の第一党と水脹れに脹れ上がって、片山内閣が出来たのである。私は蔭での努力はしたが、代議士になる気もしないので、立候補などはしなかった。
私は>17年の翼賛選挙に反対して、同時に軽井沢に隠棲していた鳩山一郎氏が終戦と同時に丸の内の常盤家を仮事務所にして自由党の旗上げ準備をしていたとき、私は北昤吉氏と共に常盤家に出入りした。そのときに鳩山氏から自由党の青年部を作って欲しいと頼まれたが、それは断った。
21年>4月の総選挙に新潟県の代議士候補者田中角栄氏(いまの首相)、渡辺良夫塚田十一郎亘四郎他数名の人達が常盤家に来て、さんを通じて自由党の公認候補になった。その後これらの人々が代議士に当選し、皆大臣にまでなったのである。
21年専門学校申請にやぶれた本校は>22年>3月灰の中から米原専門学務課長の英断によって専門学校の認可を受けて、>4月>1日から、あらためて、多摩造形芸術専門学校として溝ノ口に仮校舎>2棟で開校したのである。
この年にアメリカのお仕着せの学制改革により、>6・>3・>3制なるものが出来た。日本の朝野の学者、教育者はこれに追随した。
このアメリカの教育制度の押しつけはドイツではうけつけなかった。
「アメリカの教育は僅か>400年の歴史しかない。ドイツは>700、>800年の教育歴史をもっている。教育に関する限り、ドイツはアメリカの先進国である。アメリカの干渉はうけない」という学者教育者の強い反駁からこれを排除した。
流石は教育の国ドイツである。かくて日本の学制は戦後>6・>3・>3制と新制の大学>4年制が出来ることになり、大学教育は成人教育ということが建前となって、常識人、凡くら教育でよいということになり、秀才教育、天才教育というような従来の日本独自の教育主義が没却されたのである。
この年の>11月本校は、専門学校令による中学、高等学校の教員無試験検定の指定校の申請をして、翌>23年>4月から、無試験検定指定校となったのである。
これらの運動は虎ノ門の文部省に近い日本漁民組合事務所を多摩美の再建仮事務所にあてて、そこを本據に文部省へ通っていたのである。
またこの年、昭和>22年に昭和医大の上條秀介氏から多摩美の役員の変更について、斎藤浩野添教敦両理事と上條秀介石井吉五郎の両氏に交替すると云いだしたので、私は「理事の構成をこの際>3名から>7名に変更して法人理事会に強化したい。そのためには学校側の理事に新たに井上忻治村田晴彦今井兼次藤原繁太郎を加えて杉浦非水氏と共に計>5名にして貰いたい」と要請した。
上條氏は「君のやり易いようにしてよい」と云われたので、このとき以来、斎藤浩氏を監事にして、上條石井杉浦井上村田今井藤原の>7名が、理事になったのである。
この時点から漸く多摩美の理事会は従来の従属的関係から脱却して自主的理事会としての機能を発揮することが出来るようになったのである。しかし杉浦氏は当時なお軽井沢に疎開中であって、法人としての事実上の運営は一切村田理事が処理していたのである。