昭和23年の記
さきに出来上った農業協同組合法による農地開放にならって、日本漁民組合では、漁業権開放のための漁業協同組合法案の作成をGHQの水産部から委嘱されたので、社会党の田原春次代議士、奥村又十郎代議士、渋谷昇次代議士、鈴木善幸代議士(当時社会党、いまの自民党政調会長)等と共に私は漁業協同組合法案の作成に参加してこれを作った。
この年の5月に福島県猪苗代湖の文化連盟というところから、野口英世博士の銅像を造ってもらいたいが予算はいくら位かと相談を受けた。
私は大学申請に金の欲しい時であったので、一丈の銅像とバックと台座共に800万円で引受けることにしたのである。
6月にはバック及び台座の設計者今井兼次先生と銅像の製作者吉田三郎氏を伴って、猪苗代文化連盟の玉應二三雄氏の案内で、野口英世の生家を訪ねて、実姉イネさんに会ったり、博士のお墓参りもした。その晩は福島市に一泊して東京に帰った。ところが一週間ばかりしてから、福島県警察からの問合せだといって、玉川警察から「私達が福島市の旅館で無銭飲食をしたということになっているが、どういうことか」との問合せがあった。私はそのとき猪苗代文化連盟に疑問をもった。
その後、銅像建設の実行は一向緒につきそうもない。これでは子供達を冒瀆することになるからと私は8月に東北六県の教育委員長を訪ねてみたが、猪苗代文化連盟のことは余り知られていない、そこで福島県須加川という町の文化連盟本部を訪ねてみた。なかなか派手に野口英世銅像建設募金の募集はやっているが、底の抜けた桶で水を汲んでいるようなものであった。
毎日集った金を募金の費用にあてて、募集人各自がめいめいに汽車賃を使い旅館に泊って、その地の飲み屋で飲んでいるのが現状であった。
その募集の方法は原価8円のマッチ(20個入り>1箱)を20円で小学校の児童に売っていたのであるが、すでにマッチ会社から200万円の代金支払請求があるに不拘金が一文も残っていない。私は憤然として東京に帰り、玉應氏にマッチによる募金は一切中止するように手紙を出した。
私はあらためて小・中・高等学校の学生自治会及び校長宛に「一円募金」のパンフレットを送った。
建設委員には、福島県出身の東大附属病院の三沢博士、北里研究所の滝田博士、慶應医学部の石田博士、多摩美からは今井兼次吉田三郎村田晴彦等また東京都小学校長会長、中学校長会長、高等学校長会長に委員になってもらった。
顧問には東京都教育委員長山崎匡輔、早稲田大学総長島田孝一、慶應義塾大学塾長潮田江次、芸術院長高橋誠一郎、北里研究所北島精一郎博士(野口英世の友人)、後援、文部省、厚生省として12月からスタートすることにした。
テーマは「野口英世に続け」。貧苦から身を起こして国際人として黄熱病の地アフリカで殉職した世界的科学者野口英世に続けというパンフレットに前期の委員名を列記して、これを全国の小・中・高等学校へ配布した。
しかし野口英世の出身地である東北六県および北海道はさきにマッチによる募金をしているので、これは除いたのである。>

22年の学制改革によって、27年度以降は専門学校は廃止される。それまでに4年制大学に昇格出来ない学校は廃校となるというので、私は新制大学造りに夢中になった。しかしまたしても問題は校舎と教員組織、さらに図書である。
戦災校ということは大学造りには何等割引される条件とはならない。学制を対象とする場合は、戦災によるマイナス面は問題にはされないというのである。
専門学校になって僅か一年を経たばかりで謂わば未熟児として生れた本学が、赤ん坊のまま立ち上がって歩けと云われるに等しい。一体本学は如何なる因縁で斯くも祟られるのか。
愛煙家として有名であった私は21年には意を決して煙草を止したのだが、この上は妻子でも捨てなければ捨てるものがない。全く苦悩したのである。
但し嘆き悲しんでもいられないので、重い足を引摺りながら私は溝ノ口の本校校舎続きの慶應義塾大学工学部の丹羽保次郎工学部長を訪ねて「慶應の工学部が国立の沖電気株式会社跡に引越した跡は多摩が使用して、美術大学と申請することは賛成であると一筆書いてもらいたいと懇請して丹羽工学部長の同意を得た。
さらに川崎市長を訪ねて「戦時中川崎市は軍需工場ばかりであったから、戦後は文科系の美術大学が川崎市に出来ることは大賛成である」と副申書を書いて貰うことにした。
しかし図書は如何に逆立ちしても揃わない。止むなく戦前の各種学校時代の卒業生に「不用になった古本でよいから一冊でも二冊でも寄贈して欲しい」と依頼状を出したが、僅かに図司義夫君他23名から45冊の本が届けられただけである。土台焼けた人達に本の無心は無理なことであったと思う。また疎開先から帰っていない先生達を相手に教員組織造りも無理なことであった。それでも期限の9月末日には4年制大学の申請書を文部省へ提出した。
12月下旬に児島規久雄氏を始め、23の委員が実地調査に溝ノ口の校舎に見えた。
委員達は慶應工学部の校舎が手に入れば建物には不足はないが、金はあるのか、また図書はどうかと云われ、先生は実際には杉浦非水郷倉千靱等とまだ一人も出校していないというではないかと質問されて答えに窮した。
それでは全く話にならないということで、即日その場で、大学は無理という烙印を押されてしまった。
無理は始めからわかっていたのだが、止むに止まれぬ気持ちから大学申請をした結果が斯くも惨めにたたきつけられたのである。