学校工場

[目黒女子商業学校]

[国立音楽大学]

日中戦争の激化に伴い、1938(昭和13)年には国家総動員法が公布されるなど、徐々に社会は戦時体制に移行していった。 ところが戦時当初の音楽学院は、軍事工場を慰問して演奏会を行う程度で、社会全体に比べればまだまだ平穏であったと言える。 授業やレッスンもほとんど滞りなく行われ、生徒たちの表情からも戦時下の緊迫したムードが読み取られることはなかったという。

 しかし、日米開戦2年後の1943(昭和18)年頃からは、ついに音楽学院にも戦争の余波が顕著に押し寄せるようになった。 男性教員や男子学生(音楽学院は「各種学校」なので徴兵猶予がなかった)には召集令状が届き、次々と戦地に飛ばされていく。 中には戦死する者も出て、音楽学院では慰霊祭が行われるという事態になった。 そして音楽学院自体も、軍からの要請を受けて「学校工場」として動き出すことになる。 校舎の一部が、工場になってしまったのだ。

「学校工場」を報じる朝日新聞記事(昭和18年10月25日)  それでも、音楽学院から音楽が消えることはなかった。 「学校工場」では生徒が一日おきに働くシステムを採用することにより、生徒は半数ずつ1日おきではあるが、授業やレッスンを受けることが出来た。 また、工場内でも作業中の生徒のために、レコードが流されることもあったという。

 生産力の低下が顕著になると、生徒たちは「学校工場」から、立川にある工場への勤務に変更させられた。 ここで生徒たちは3交替で作業するように編成され、より過酷な労働に従事させられることになる。 深夜の作業では、眠らないために飲まされた薬剤の発作で体調を崩す者や、疲労と睡眠不足から伝染病に感染する者も出た。 さらには昼間に工場が空襲を受けたこともあったという。 しかし、こんな極限状態の中でも、生徒たちは決して音楽を手放さなかった。 声楽科の生徒たちは、ひどい声荒れに悩まされながらも、3交替の合間をぬってはレッスンを続けていた。

 結局立川の工場は再度の空襲で焼失し、生徒たちは再び「学校工場」に戻されることになった。 そして戦況はさらに悪化する。 1945年には“決戦措置”として学校の授業は停止され、本土防衛への学徒総動員が決定された。 ところが、音楽学院は早くから「学校工場」を設置していたために、徴用を命じられることもなく、レッスンは終戦まで途絶えることがなかった。 学院側の賢明な判断と、そして何よりも生徒たちの音楽を愛する心が、国立に音楽の火を灯し続けたのだった。

 ――実はもう一つ、戦時中のエピソードがある。

 1944年、夏。前年から理系以外の学生に対する徴兵猶予は停止され、多くの若者が戦地に送られていた。 東京帝国大学(現東大)法学部では、また新たに学生を送り出すにあたり、日本交響楽団(現NHK交響楽団)を招いての壮行会を開くことを計画した。 演奏曲目は、「第九」。 娯楽と言えばクラシック音楽ぐらいしか残されていなかった時代にあって、「第九」の人気は絶大だった。 そしてその“核”とも言える合唱に、音楽学院の生徒が呼ばれたのだった。

 合唱といっても、そう易々とできるものではない。 生徒たちは慢性的な栄養不足であり、暑さの中では体力も続かない。 まして「第九」は体力の消耗が激しいので、演奏中に倒れてしまう恐れもある。 「『第九』は勘弁してくれ」、と一度は断わりを入れていた。 しかし、「戦争には勝てそうもない。せめて至高の名曲『第九』を聴いてから…」という出陣学徒の強い要望を受け、「第九」の演奏が了承されたのだった。

 奇しくも、広島に原爆が投下されるちょうど1年前にあたる8月6日の昼下がり、壮行会は開催された。 会場となった東京帝大の25番教室は超満員な上に、入りきれない学生が教室の外に何重にも列をなしていたという。 戦場に向かう学生のために1分間の黙とうがささげられた後、法学部長の挨拶があり、そしていよいよ「第九」の演奏が巡って来た。

 そこで突然、空襲警報が鳴り出す。 狼狽する教室内に、上空を飛び去るB29の騒音がこだました。 幸い、すぐに警報は鳴り止んだ。 水を打ったような静寂が訪れた後、静かに「第九」の演奏が始まった。 そして合唱。 ほぼ全員が参加した音楽学院の合唱団は、押しつぶされそうな混み様の中で、精一杯に声を張り上げた。 「これが最後の『第九』になる人もいるかもしれない…」。 歌いながら涙をこぼす女学生の姿も多く見られた。 聴く側の出陣学徒たちも、同じ気持ちだったに違いない。 演奏終了後、普通ならば拍手が起こるはずの会場内は、しばらくの間静まり返っていたという。 その沈黙こそが、彼らの全ての思いを表していたのかもしれない。 「その悲壮な雰囲気は、今でも瞳を閉じると鮮明によみがえってきます」とあるOGは語っている。