石田英一郎
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義弟:横山助成 1884-1963 大館市長倉 [] |
父:石田八弥 1863-1925 |
祖父:石田英吉 伊吹周吉 伊吹慶良 伊吹終吉 [] 1839年 土佐国安芸郡中山村中ノ川 医師 伊吹泰次の長男 |
「抵抗の科学」 私のやっている文化人類学の方からみても、単純で小規模な社会や文化の中に生きる人間ほど、個人が制度的なものの支配を受ける度合いが少ない。それが、農耕や牧畜をはじめ、多くの基本的な技術の発明によって、社会的な結合の範囲が拡大していくにしたがって、個人はますます大きな超個人的な力の支配を受けることになった。国家の支配、権威の支配、慣習の支配、神の支配、一言でいえば、最も広い意味での、文化の支配である。人間は自分の作りだした文化という怪物のために、朝から晩までキリキリ舞いさせられるばかりで、自分の力ではこの怪物をどうにもコントロールできないという、大変なことになってしまった。私のやっている学問も、人間をこのように金縛りにできる文化というものの全体を対象とした科学だと考えているのだが、最近、あちこちでとりあげられるようになったその応用論は、いずれも人間が人間を少しでもより巧妙に支配するための技術を考案しようという意図に出たものとしか思われないようなものばかりである。ところが不幸にして私は、どんな意味においても、支配されるということに我慢ができない。また人を支配することもいやである。帝国主義の支配、階級の支配、組織の支配、伝統の支配、コマーシャリズムの支配、流行の支配、およそいかなる支配でも、支配という事実が意識されると、もう堪えがたい自己嫌悪に陥ってしまう。こういうアマノジャクな頭のなかで、ひとりひそかに私の考えている新しい科学といえば、支配の学に抵抗する科学、いわば反支配の学ともいうべきものである。現代の社会科学や心理学や人類学にだって、文化の呪縛から少しでも人間を自由にするための方法が求められないわけはあるまい。だが、本当のことをいうと、やはり信じて支配されるというのが、いちばん幸福なのでなかろうか。ことに、天皇陛下でも、星条旗でも、ハーケンクロイツでも、スターリンでも、その万歳を叫んで死んでいけるような偶像のもてる人たち、もっと正確にいえば、偶像をもたされた人たちの方が、はるかに生きがいのあるの人生を送っているのかもしれない。ことごとに権威を疑い、異端をとなえて、反支配の学の樹立など企てているのは、さてさてシンドイことではある。 石田英一郎「新潮」1957年7月号 「はみだした学問」 およそ学者にとっていちばん安易な道は、自分の学問に一応完結した体系を与えるのに都合のよいように、学問の対象や目的を限定していく方法であろう。私は人生の行路半ばにして迷い込んだ文化人類学という学問になると、当初から、限定された境界や完結した体系などを至難とするほどに茫漠とした対象領域と性格をもったものではないかと思う。こんなことをいうと、学会の一部から「いや、それはお前が勝手にそう解釈したり、空想をひろげたりしているだけのことで、この学問には早くから民族学というような名前で限定された対象や目的ははっきりしているではないか。この学問的な伝統からはみ出して任意に専門分野を拡大していったら、専門というものの純粋性も深さも失われて、単なるアマチュアの教養に堕してしまうばかりだ」という非難をうけることだろう。事実また私のアカデミックライフは、このような非難にさらされながら続けられてきたといってもよい。 「醜の御盾となるな」 戦時中の日本人は「大君の醜の御盾」となれと言われた。いま特定の超大国のカサの下に自国の安全を保つというのは、同時に、その国の醜の御盾となることを意味する。それには最悪のばあい、その国の安全のために、日本全土を死灰の山と化すだけの覚悟が必要だ。 「人間の呼ぶ声」 忘れてはならぬことは、未開人の社会では生活と芸術とが渾然一体をなしているという事実である。そこにはわれわれの意味する遊離した芸術の概念は存在しない。それは"生活のなかの芸術"とか、"人生のための芸術"とかいったものですらありえない。芸術も科学も宗教も経済も、ここでは未分化のままにひとつの全体、すなわち生活を形づくっているのである。技術と呪術と芸術とは、ここに一体化して何らの矛盾も示さない。これらの才能の創作は、共同体の全員から、ひとしい共感をもって受け入れられる。しかも、まだ非人間的な力や技術が、人間の上に君臨することのない社会では、すべての人間の潜在的な可能性の前に、これをはばむ何らの扉も閉ざされていないのだ。こうした人類の若い健康な日々へのあこがれが、原始芸術の呼ぶ声に相呼応するものとすれば、それはとりもなおさず、暴虐な文明の綱に捉えれた人間の解放、現代におけるユマニスムの課題と相つらなるものである。巨大な文明の力に抑圧され歪められた、人間の回復への要請は、ふたたび十八世紀に見られたような未開への郷愁をよびさました。それは人類の幼い日への郷愁である。とくに原始芸術の魅力は、失われた人間と、その若い生命の泉を探し求めるわれわれの心をとらえて離さないであろう。 『美術手帖』1960年10月号 |
治安維持法 1925年4月22日 公布 治安維持法中改正緊急勅令
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京都学連事件 1926年1月15日午前6時、京都市内の全刑事が川端、中立売署に召集され、6時活動を開始 1月27日午後から第二次検挙が開始され、 同日夕刻までに その後検挙は4月中旬まで続き、 |
1932年12月警保局保安課「日本共産党の運動概要」最近に発覚せるシンパは官吏、大学教授、弁護士、文士、新聞記者、学者、銀行会社員、名家富豪の子弟等極めて広汎なり 「華族赤化」事件 1933年1月18日 八条隆孟(当時27歳、父は子爵)検挙起訴 東京帝大の学習院出身者でつくる「目白会」の中で後輩たちと読書会をひらき、「無産者新聞」を普及 1933年3月下旬 森俊守(24歳、父は旧三日月藩主で子爵)検挙起訴 岩倉靖子(20歳、曾祖父は公爵岩倉具視)検挙起訴 自殺 久我通武(父は男爵、は侯爵)検挙 山口定男(23歳、祖父は明治天皇の侍従長)検挙 上村邦之丞(20歳、海軍大将の孫)検挙 亀井茲健(22歳、父は昭和天皇の侍従で伯爵)検挙 小倉公宗(23歳、父は子爵)検挙 松平定光(23歳、父は旧桑名藩主で子爵)検挙 1933年9月 中溝三郎(25歳、男爵)検挙 華族 東京帝大新人会 山名義鶴(父は男爵)、大河内信威、黒田孝雄 京都学連事件 石田英一郎(男爵) 検挙 築地小劇場を創設した土方与志(伯爵) 柳原白蓮(父は柳原前光伯爵 宮崎滔天の長男宮崎竜介の妻) 岩倉靖子は、女子学習院から日本女子大にすすみ、 |