石田英一郎
 []

1903年 6月30日生
  天王寺中学 府立四中
  一高文科 マルクス主義を研究し始めセツルメント活動に参画
  京都帝国大学経済学部中退 河上肇門下で社会科学研究会に参加 北京
1925年 男爵を襲爵 華友会館
  治安維持法適用第一号として起訴 不敬罪 十ヵ月の禁固刑宣告 控訴保釈
1926年 父八弥が死 満州、河北、山東の旅
1927年 台北―福州―上海 漢口・武昌
1928年 京都学連事件および三・一五事件に連座 再検挙 五年の刑を宣告
爵位を返上。
義兄の横山助成は取締り側の内務省警保局長 []
1935年 義兄の横山助成 東京府知事が多摩帝国美術学校認可
1936年 大民俗学者柳田国男の姪を母にもつ岡村千秋の娘布佐子 娘の佐保子
1937年 2年間ウィーン大学に留学。2/15東京朝日新聞朝刊写真
1940年 帝国学士院の東亜諸民族調査室の嘱託
「蒙疆の回民」(現在の内蒙古のムスリム)と「樺太のオロッコ」(現在の民族名称ではウィルタ)の研究嘱託
1944年 蒙古善隣協会[西北研究所](退役軍人の土橋一次 機関長、今西錦司 所長、石田英一郎 次長、梅棹)張家口

1948年 『河童駒引考』を上梓、[桃太郎の母]
「日本民族の起源」石田 岡、江上、八幡 シンポジウム 1949「民族学研究」1950
1949年 法政大学文学部教授。
学会誌「民俗学研究」の編集主幹
民間情報教育局顧問に就任(6月)
1951年 東京大学教養学部教授となり、東洋文化研究所文化人類学教室の初代主任を務めた。
第一次東大アンデス学術調査団団長
1964年 定年退官後、東北大学日本文化研究設立 施設主任
1967年 『マヤ文明』で毎日出版文化賞受賞。日本民族学会会長
1968年 多摩美術大学学長に就任
6月14日 石田ビジョン「八王子校舎増築に関して」を発表 理事会 教授会 学友会の合意となる
11月15日 急逝 お通夜 6:00-8:00
11月16日 大学葬 12:30-2:00 青山斎場 一般 2:00-3:00  宝仙寺
             1969年 真下真一 学部長 
             1970年 泉靖一  次期学長候補 急逝
                学長選挙当選候補者の高田忠に替わり、真下真一が学長就任
             1971年 嶋根昭  学生部長

義弟:横山助成 1884-1963 大館市長倉 []
     石田八弥の女婿
     警視総監「真綿にカミソリ」、貴族院議員 東北興業総裁 大政翼賛会の事務総長
1935年 東京府知事 帝国美術学校移転への勧告(1954村田口述)
     


父:石田八弥 1863-1925

1863年  8月1日生まれ。石田英吉の養子。出羽(でわ)花輪村(秋田県)今泉の士族奈良又助の五男
1888年 ドイツのフライブルク鉱山大に留学,
      宮内省御料局鉱山寮技師、生野鉱山精錬課長 硫化鉄鉱を主原料に安価な硫酸を生産
      母校帝国大学の教授-24年
1896年  政府が佐渡、生野の両鉱山と大阪精錬所を三菱合資会社に払下げ
      三菱合資会社 大阪支店の副支店長 大阪製錬所長 金・銀・銅の電気精錬
1917年  鉱業研究所長
1918年  鉱山部,炭坑部が分離して創立された三菱鉱業(現三菱マテリアル)の取締役
1925年 3月10日死去 63歳。

祖父:石田英吉 伊吹周吉 伊吹慶良 伊吹終吉 []

1839年 土佐国安芸郡中山村中ノ川 医師 伊吹泰次の長男
     安田の高松順蔵(坂本龍馬の義兄)
1854年 藩校 田野学館で文武の修業
1861年 蘭医 緒方洪庵の適塾に入る
1862年 上京して勤王の志士と交わり
1863年 天誅組の挙兵に参加 高取城の砲撃で戦功をたてたが敗れて、長州に
1864年 禁門の変 忠勇隊に属して戦い、重傷を負って再び長州に
1865年 長州再征 高杉晋作の率いる奇兵隊に参加
1866年 小倉口攻防戦 龍馬の意を受けて、ユニオン号に砲手長 小倉藩門司陣地を砲撃
     奇兵隊を離れて坂本龍馬の亀山社中へ加入
1867年 海援隊 結成 参加 []
     
     陸奥陽之助等と共に貿易、海軍の事務
     坂本龍馬の死後、長岡謙吉と共に瀬戸内海諸島の鎮撫
     海援隊長崎在住派幹部・菅野覚兵衛等に合流
     長崎で組織された遊撃隊の御用掛
     振遠隊に改編されると軍監に任ぜられ奥羽に
     奥羽鎮撫総督府の参謀に列し秋田方面に出征して各地に転戦した。
1869年 官吏 長崎県小参事を振り出しに、秋田縣権縣令、長崎縣令、千葉縣知事、高知県知事
     
     
1896年 男爵 貴族院議員に勅撰
1901年 4月8日没 六十三歳
     京都府京都市左京区 岡崎真如堂 従二位勲一等男爵石田英吉之墓


「抵抗の科学」 私のやっている文化人類学の方からみても、単純で小規模な社会や文化の中に生きる人間ほど、個人が制度的なものの支配を受ける度合いが少ない。それが、農耕や牧畜をはじめ、多くの基本的な技術の発明によって、社会的な結合の範囲が拡大していくにしたがって、個人はますます大きな超個人的な力の支配を受けることになった。国家の支配、権威の支配、慣習の支配、神の支配、一言でいえば、最も広い意味での、文化の支配である。人間は自分の作りだした文化という怪物のために、朝から晩までキリキリ舞いさせられるばかりで、自分の力ではこの怪物をどうにもコントロールできないという、大変なことになってしまった。私のやっている学問も、人間をこのように金縛りにできる文化というものの全体を対象とした科学だと考えているのだが、最近、あちこちでとりあげられるようになったその応用論は、いずれも人間が人間を少しでもより巧妙に支配するための技術を考案しようという意図に出たものとしか思われないようなものばかりである。ところが不幸にして私は、どんな意味においても、支配されるということに我慢ができない。また人を支配することもいやである。帝国主義の支配、階級の支配、組織の支配、伝統の支配、コマーシャリズムの支配、流行の支配、およそいかなる支配でも、支配という事実が意識されると、もう堪えがたい自己嫌悪に陥ってしまう。こういうアマノジャクな頭のなかで、ひとりひそかに私の考えている新しい科学といえば、支配の学に抵抗する科学、いわば反支配の学ともいうべきものである。現代の社会科学や心理学や人類学にだって、文化の呪縛から少しでも人間を自由にするための方法が求められないわけはあるまい。だが、本当のことをいうと、やはり信じて支配されるというのが、いちばん幸福なのでなかろうか。ことに、天皇陛下でも、星条旗でも、ハーケンクロイツでも、スターリンでも、その万歳を叫んで死んでいけるような偶像のもてる人たち、もっと正確にいえば、偶像をもたされた人たちの方が、はるかに生きがいのあるの人生を送っているのかもしれない。ことごとに権威を疑い、異端をとなえて、反支配の学の樹立など企てているのは、さてさてシンドイことではある。 石田英一郎「新潮」1957年7月号

「はみだした学問」 およそ学者にとっていちばん安易な道は、自分の学問に一応完結した体系を与えるのに都合のよいように、学問の対象や目的を限定していく方法であろう。私は人生の行路半ばにして迷い込んだ文化人類学という学問になると、当初から、限定された境界や完結した体系などを至難とするほどに茫漠とした対象領域と性格をもったものではないかと思う。こんなことをいうと、学会の一部から「いや、それはお前が勝手にそう解釈したり、空想をひろげたりしているだけのことで、この学問には早くから民族学というような名前で限定された対象や目的ははっきりしているではないか。この学問的な伝統からはみ出して任意に専門分野を拡大していったら、専門というものの純粋性も深さも失われて、単なるアマチュアの教養に堕してしまうばかりだ」という非難をうけることだろう。事実また私のアカデミックライフは、このような非難にさらされながら続けられてきたといってもよい。

「醜の御盾となるな」 戦時中の日本人は「大君の醜の御盾」となれと言われた。いま特定の超大国のカサの下に自国の安全を保つというのは、同時に、その国の醜の御盾となることを意味する。それには最悪のばあい、その国の安全のために、日本全土を死灰の山と化すだけの覚悟が必要だ。

「人間の呼ぶ声」 忘れてはならぬことは、未開人の社会では生活と芸術とが渾然一体をなしているという事実である。そこにはわれわれの意味する遊離した芸術の概念は存在しない。それは"生活のなかの芸術"とか、"人生のための芸術"とかいったものですらありえない。芸術も科学も宗教も経済も、ここでは未分化のままにひとつの全体、すなわち生活を形づくっているのである。技術と呪術と芸術とは、ここに一体化して何らの矛盾も示さない。これらの才能の創作は、共同体の全員から、ひとしい共感をもって受け入れられる。しかも、まだ非人間的な力や技術が、人間の上に君臨することのない社会では、すべての人間の潜在的な可能性の前に、これをはばむ何らの扉も閉ざされていないのだ。こうした人類の若い健康な日々へのあこがれが、原始芸術の呼ぶ声に相呼応するものとすれば、それはとりもなおさず、暴虐な文明の綱に捉えれた人間の解放、現代におけるユマニスムの課題と相つらなるものである。巨大な文明の力に抑圧され歪められた、人間の回復への要請は、ふたたび十八世紀に見られたような未開への郷愁をよびさました。それは人類の幼い日への郷愁である。とくに原始芸術の魅力は、失われた人間と、その若い生命の泉を探し求めるわれわれの心をとらえて離さないであろう。 『美術手帖』1960年10月号

治安維持法 1925年4月22日 公布

旧 治安維持法
治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件
公布:大正一二年九月七日(勅令第四〇三号)
廃止:大正一四年 (法律四六号治維法附則)
 出版通信其ノ他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハス暴行騒擾其ノ他生命、身体若ハ財産ニ危害ヲ及ホスヘキ犯罪ヲ煽動シ安寧秩序ヲ紊乱スル目的ヲ以テ治安ヲ害スル事項ヲ流布シ又ハ人心ヲ惑乱スル目的ヲ以テ流言浮説ヲナシタル者ハ十年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ三千円以下ノ罰金ニ処ス

治安維持法
公布:大正一四年四月二二日
法 律 第 四 六 号
第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス(2)前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
第二条 前条第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第三条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ヲ煽動シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第四条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ騒擾、暴行其ノ他生命、身体又ハ財産ニ害ヲ加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第五条 第一条第一項及前三条ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若ハ約束ヲ為シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ為シタル者亦同ジ
第六条 前五条ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減軽又ハ免除ス
第七条 本法ハ何人ヲ問ハス本法施行区域外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス
   付 則
大正十二年勅令第四百三号ハ之ヲ廃止ス

治安維持法中改正緊急勅令
公布:昭和三年六月二九日
   勅令 第 一二九 号
治安維持法中左ノ通改正ス
第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
(2)私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
(3)前二項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
第二条中「前条第一項」ヲ「前条第一項又ハ第二項」ニ改ム
第三条及第四条中「第一条第一項」ヲ「第一条第一項又ハ第二項」ニ改ム
第五条中「第一条第一項及」ヲ「第一条第一項第二項又ハ」ニ改ム
   付 則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
[以上]

 

京都学連事件

1926年1月15日午前6時、京都市内の全刑事が川端、中立売署に召集され、6時活動を開始
京大社研の淡徳三郎(大学院)、岩田義道(経三)、石田英一郎、熊谷孝雄(経二)、栗原佑、太田遼一郎、 泉隆、白谷忠三、黒田久太(経一)、山崎雄次(法三)、橋本省三(法二)の12名
同志社社研の内海洋一(経一)、 大浦梅夫(高商三)の合計14名を検挙
同時に京大教授河上肇、同志社大講師河野密、山本宣治の私宅、 農民組合事務所、京都地方評議会事務所をはじめ評議会の国領伍一郎、辻井民之助、半谷玉三、奥村甚之助、谷口善太郎、 農民組合の森英吉、京大助手(新人会員)杉野忠夫などの私宅が一斉に家宅捜索をうけた。
兵庫県では、関西学院大教授河上丈太郎、松沢兼人、新明正道などの私宅など十数ヵ所が家宅捜索をうけた。
東京では、村尾薩男(東大文三)、清水平九郎(明治学院)、広谷賀真(慶応)が検挙
18日には京都で鈴木安蔵(京大経一)が追加された。
(不敬罪にもとわれている石田を除く17名が、1月26日出版法違反ならびに治安維持法違反で起訴、予審に付せられた)

1月27日午後から第二次検挙が開始され、 同日夕刻までに
京大社研の逸見重雄(経三)、鷲谷武二(文二)、古賀二雄(法一)、藤井米三(経卒)
同志社社研の宮崎菊二、沢田政雄(経一)のほか小崎正潔(関西学院)、蓬台恒治(神戸高商)の8名
28日には黒川健三、原田耕(大阪外語)の2名が検挙された。

その後検挙は4月中旬まで続き、
京都社研の武藤丸楠(経一)、池田隆(医二)、大橋積(経卒)
東大新人会の是枝恭二(文二)、松本篤一(文二)、後藤寿夫(法三)
その他に実川清文(日本大)、 秋笹政之輔(早稲田高等学院)、野呂栄太郎(慶応卒)、上村正夫(京都無産者教育協会書記)が検挙

1933年 滝川事件

1946年 マッカーサー民主映画「わが青春に悔なし」監督 黒澤明

1932年12月警保局保安課「日本共産党の運動概要」最近に発覚せるシンパは官吏、大学教授、弁護士、文士、新聞記者、学者、銀行会社員、名家富豪の子弟等極めて広汎なり

「華族赤化」事件
1933年1月18日 八条隆孟(当時27歳、父は子爵)検挙起訴
東京帝大の学習院出身者でつくる「目白会」の中で後輩たちと読書会をひらき、「無産者新聞」を普及
1933年3月下旬 森俊守(24歳、父は旧三日月藩主で子爵)検挙起訴
岩倉靖子(20歳、曾祖父は公爵岩倉具視)検挙起訴 自殺
久我通武(父は男爵、は侯爵)検挙
山口定男(23歳、祖父は明治天皇の侍従長)検挙
上村邦之丞(20歳、海軍大将の孫)検挙
亀井茲健(22歳、父は昭和天皇の侍従で伯爵)検挙
小倉公宗(23歳、父は子爵)検挙
松平定光(23歳、父は旧桑名藩主で子爵)検挙
1933年9月 中溝三郎(25歳、男爵)検挙

華族
東京帝大新人会 山名義鶴(父は男爵)、大河内信威、黒田孝雄
京都学連事件 石田英一郎(男爵) 検挙
築地小劇場を創設した土方与志(伯爵)
柳原白蓮(父は柳原前光伯爵 宮崎滔天の長男宮崎竜介の妻)

 岩倉靖子は、女子学習院から日本女子大にすすみ、
いとこの夫・横田雄俊(大審院院長・秀雄の4男、長男は戦後の最高裁長官・正俊)の影響で、
32年3月、社交クラブ「五月会」をつくり上流中流階級の女性に日本共産党を広げようとする。
収監中、キリスト教への信仰心を取り戻した。そして、10月下旬には完全に共産主義と決別し、転向のしるしとしての手記を書き上げ、33年12月11日に釈放され、12月21日早朝、自宅で自殺。