5月24日
0時28分に関東海面に警戒警報が出た。「数目標」という。そのうちに関東地方に警戒警報が出た。皆を起こして支度をさせる。また重要物件を防空壕へ入れる。水をあちこちへ置き、水道へゴム管をつなぐ。そのうちに空襲警報となる。一同防空壕に入る。 もうこのときは品川あたりが燃えていた。一番機の投弾だ。「また品川か」と思ったが、今夜はきっと違った狙いでやってくると察していた。品川が初まりで、渋谷の方へ伸びて来るかと思った。二番機、三番機と、少しずつ北へ寄って来る。いよいよそのとおりらしい。 激しいB29の焼夷弾攻撃が始まった。3000m位に降下している。照空灯の光の中にしっかり捉えられている。ものすごく地上砲火が呻り出す。永い間ためてあった砲弾を打出すといったような感じである。 月のある夜空を、火災の煙が高く高くのぼって行く、その煙雲のふちはももいろに染まっている。 川開きのような、下がってくるオーロラのような焼夷弾の落下である。 撃墜されるB29が火達磨となって尚飛んでいるすさまじさ。そのうちに空中分解をしたり、そのまま石のように燃えつつ、落ちて行く。闇の方々より、拍手と歓声が起こる。そして地上防空活動も、士気大いにあがった。 放送でも「今日の敢闘は賞讃に値いする」といった。 焼けたところはよくわからぬが、千駄ケ谷もやられた由。夜ほのぼのと明ける。
5月25日
電車は、昨日までは、大橋―渋谷間が不通で、省線は新宿―品川―東京間が不通であったが、今日は渋谷まで行くし、省線も五反田まで行く。が、省線電車は五反田の手前でエンコをしてしまい動こうともしない。そこで飛降りて堤下に至り、路をあるく。もちろん日野校をはじめ界隈は焼野原であった。五反田の焼跡風景も、浅草上野の焼跡風景も、同じであることに気がついた。 電気試験所は第一部が全焼していた。新館、旧館各棟は異状なしであった。裏門前一帯もすべて焼けつくし、第二日野校ももちろん丸焼けである。そしてアスファルトの上に焼夷弾が14、5発つきささっているのは、胸にこたえる風景であった。同校の防火壁だけが厳然と焼け残り、その両側は空であるのも異様な風景であった。米国飛行士1名、蓄電池室の裏へ降りし由。捕虜とした。ピストル2丁、弾丸20発位、持っていた。まず後手を縛したる上、桜の木のところへ連れていって、木に上下をしっかり縛りつけたという。当人は至極温和しかったそうだ。 空襲警報となる。P51、約60機と嚮導のB29、2機。しかし機影を見ず。
5月26日
昨25日夜は風が強かった。ふと目がさめると「いかなる攻勢にあうとも敢闘を望む……」と放送をしている。警報にも気がつかなかったらしい。又ラジオの情報も分らなかったらしいのだ。起きると、空襲警報のサイレンが鳴り出したので、少々面喰らう。 初めは房総東方からきて、品川あたりへ投弾したので、「ハハア、また品川が狙われたか」と思っていると、その数十機が過ぎたとたん、西方からぞくぞく侵入し来たB29の大群。それが今夜は、まさにわが家上空を飛んで東方・渋谷方面へ殺到し、やるなと思う間もなく同方面に焼夷弾の集中投下を見る。例のとおり華やかな火の子はオーロラの如く空中に乱舞し、はらはらと舞い落ちる。従来より最も近いところに落下する。 そうするうちに、南の方へもぞくぞく落ち出したが、また北方・中野方面にもひんぴんと落下し、かなり近い。これは警戒を要すると思っているうちに西の方へもばらばら落ち出し、東西南北すっかり焼夷弾の火幕で囲まれてしまった。 幸いにも、若林附近はまだ一弾も落ちない。敵は150機位もう侵入したことになった。西方の田中さんの畑に出て空を見ていると、二子玉川あたりの上空を越えてぞくぞく後続機が1機宛こっちへ侵入してくる。其の方向はすべてこっちへ向いているのだ。これはいよいよ来るわいと思った。 すると果して轟音を発して、山崎や若林のお稲荷さんの方が燃え出し、つづいて萩原さんの竹藪の向こうに真赤な火の幕が出来、三軒茶屋方面へ落下したことが確実となった。 わが夜間戦闘機も盛んに攻撃している。たいがいわが家の西方で邀撃。 「あれは危いぞ!」とこっちへ向いた1機を指した折しも、ぱらぱらと火の子がB29の機体の下から離れたのがわが家よりやや西よりの上空。「いかんぞ!」と言うのと、ゴーッと怪音が頭上に迫ったのと同時だった。焼夷弾の落下地点に耳をそばだてていると、佐伯さんのあたりに轟然と落下し、あたりに太い火柱が立った。婦人たちの悲鳴、金切声など同時に起きる。 「萩原さんのところだ!」「奥山さんだ!」「松原さんだ!」との声々に、見ると、立木が燃えている。立木ならたいしたことなしと思いつつ、我家を見まわったが、幸いに事なし。「菅野さんへ焼夷弾落下、燃えています!」叫び声が聞こえた。これはいよいよ始まったかと思って門の前へ出て見たが、火は見えず。裏へまわって防空壕の一方を埋めさせることにして、かねて積んであった土の箱をおろそうとしたが、なかなか重くて動かない。やっと引おろして埋めにかかったが、土が足りそうもない。時間はかかる。病気中のおばさんを、裏手の林へ避難させる。 私は表へ廻った。と、相変らずすごく落ちる。もう音響にも火の色にも神経が麻痺して何ともない。屋根の上に何かが落ちて、どえらい音がした。焼夷弾ではなさそうだ、火が見えなかったから。 (翌朝見たら、油脂焼夷弾の筒の外被と導線管であった。いずれも1mのもので、導線管は私のうしろへ落ち、大地に深い溝を彫っていた)。 私は幾度も家を見廻ったが、異状なし。よって表に近い松の木の下の素掘りの穴に、出来るだけの物を入れて、土を被せてやろうと思った。 まずわが部屋の引出しを投げ込んだ。それから皆の寝ていた蒲団を投げ込み始めたが、これがとても重く感じられた。その間にも火の子がうちへ入るので目は放されず、おまけに風下にいるので、7、8軒向こうの火勢がまともに吹きつけ、煙はもうもう、息をするのが苦しくなる。 ラジオも、アルバムも、本も、辞典も入れた。ミシンを出したが、重くて自由にならず、庭に放り出して逆さにした。足の方が上だ。これは金属製だから、すぐには焼けまいと思う。 壕はまだ半分ふさがっただけだが、これ以上物を入れるのはやめにした。そう欲ばってもと思ったのと、いつまでもこんなことばかりしていられないからだ。 まだ土をかけていないのに気づいてそれを始めた。裏からクワをとって来たが、土にぶっつけても跳ねかえるだけ。やむなくクワの根本を持って土をかく。この方がいくらか楽だ。 心臓が止まりそうになる。時々休んだ。休んでいると元気も力も回復することが分った。 一人ではとても駄目であると思い、誰か子供一人をつれて来たいと裏へまわる。裏でも盛んに土をかけていた。ようやく大きい穴がふさがり、今度は小さい穴にかかっていたが、土が足らないという。 門の方へ引返す。と、多勢の人が煙の中から門へ入って来た。見ると菅野さん、羽山さん、松原さんたちである。 「どうしました?」「火が迫っています、今のうちに逃げないとあぶない」と菅野さんが言う。 「まだ大丈夫ですよ、頑張れば喰いとめられますよ」「いや、もういけません、佐伯さんの方と、高階さんの方の火とが、両方からこっちへ押して来て、息がつまりそうです」 婦人たちは口々に、早く待避せねばたいへんだとわめいている。私は逃げるつもりはなかった。「それでは家の裏から田中さんの畑へお逃げなさい。あそこなら大丈失ですから」教えてやると、昔ぞろぞろと家の庭を通って姿を消した。10人近い同勢である。松原大佐夫人が無言で、小さい身体を一行のあとに運んでいるのを見た。その前菅野さんの家は4ヵ所もえあがり、それはようやく消しとめたが、菅野さんは屋根へあがって消火しているうちに屋根からすべりおち、地上にしばらく伸びて口もきけなかった由。それ以来菅野さんは戦意を喪失しているようにみえた。 一同が去ったあと、私たちはなおも火の子と煙と戦っていた。 焼夷弾は幾度となく頭上にまかれたようだが、奮闘している身は、気がつかない。 電気はとっくに切れてしまったので、ラジオが鳴らず、口頭伝達である。1時間ばかりが、奮闘の絶頂であった。 あたりはまだ炎々と撚えている。真西は最も盛んだ。あとでわかったことだが、豪徳寺東よりの軍の材木置場が燃えているせいだった。 最も近火だった南の高階さんの向こうの火も余燼だけとなった。 一同相寄り「まあよかった」と、よろこぶ。 近所からもそれぞれ顔が出る。いつの間にか皆家へ戻っていて、それぞれの部署を守って敢闘した由。さすが日本人である。 私が「大丈夫、消せます。頑張りましょう!」といった一語が、隣組の人達によほど響いたことがわかった。菅野さんの若い人たちなどは初めから避難反対だったが、両親の命令で一緒に避難したが、私がそういったことやら、うちの子供が一生懸命土をかけて活動しているのを見て、これでは避難もしていられぬと、すぐ自宅へ引返したという話であった。 押入に残っていた蒲団を出して、一同仮寝につく。みな疲れと安心とで、ぐうぐう寝込む。 夜中に声あり。出てみると水田君が見舞に来てくれた。眠い目をこすりながらしばらく話をする。自由ケ丘の方は今度は大丈夫なりとのこと。 かくして夜は更けていった。というよりも暁を迎えたのであった。
5月27日
夜は明け放たれた。起出てみたが、夢のような気がする
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