「多摩美術90年の歩み」 高橋史郎 2020年11月1日創立記念日

前史  大正ロマンと高等教育の普及

20世紀初頭の英国では、ルソー思想を継承し自発的な学習を尊重する「新教育」運動がおこり、日本では大正時代にその影響がおよび始めた。
1921年に与謝野鉄幹 晶子夫妻らが「文化学院美術部」を創設、羽仁もと子が高等女学校令によらない学校として「自由学園」を創立、土田杏村が提案して「自由大学運動」が起こる。
この時代に、高等教育が普及して、1919年、国立公立私立の専門学校は90校、生徒数は42,000人にのぼった。
1918には東京専門学校(現早大)出身の紀淑雄が「日本美術学校」を創設する。
これらの学校の教授から、後の「帝国美術学校」の設立メンバが輩出する。
新しいメディアによって文化情報の伝播が飛躍的に拡大し、大正モダンの新興美術運動( 未来派美術協会 アクション MAVO 第一作家同盟)などがおこる。

1923年の関東大震災の後、大正デモクラシーは、昭和の文化政策に移行する。
1932年には「大日本映画協会」「国民精神文化研究所」 が設立される。
1933年9月22日ドイツの国民啓蒙宣伝大臣ゲッベルスが「帝国文化院法」を制定し、日本では近衛文麿の「昭和研究会」が発足する。米国では失業芸術家を救済する「連邦美術計画」が実施された。

平福百穂 日本画科長

森田恒友 西洋画科長

中川紀元 西洋画科教授

杉浦非水 図案科長

郷倉千靱 日本画科教授

山村耕花 日本画科講師

牧野虎雄西洋画科主任

木村荘八 西洋画科講師
大久保作次郎 西洋画科教授 中村研一 西洋画科教授  鈴木誠 西洋画科教授

参照文献(前書き)
1903/00/00「戸籍」佐渡郡稲鯨村村田清太郎 .
1916/08/29「早大学長問題顛末書」早大有志
1923/02/28「クローチェと対話」読売新聞北
1981/09/05「学制百年史」文部省
参照web(前書き)
1918/00/00「日本美術学校」
1921/00/00「三木清」
1928/00/00「今井兼次」
1928/00/00「ギョイヨー」北
1981/09/05「学制百年史」文部省

吉祥寺時代 「帝国美術学校」 
1929-1934(6年間) 1934-1943(閉鎖)

1929年10月30日に「日本美術学校」の職員である金原省吾らが、美術学校の開設を計画して哲学者の北れい吉に相談、北がを木下代議士(漢学振興の大東文化学院を建言)に校主就任を依頼する。北が校長に就任して、木下らが出資して校主となり、教務 庶務 会計をそれぞれ金原省吾 名取堯 村田芳太郎が分担する。
翌年に金原らが木下の出資を清算し、以降5年間に渡って校舎が増築される。学費85円、学生募集120名、在学4年で、現在の価値に換算すると、年間1億円余りの授業料収入が在ったと思われる。
1932年6月に、北は「第二次 帝国音楽学校」を荏原郡世田谷町に開校して校長に就任し、鈴木鎮一が校長代理となる。教授を学生投票によって決定する革新的な制度の学校であった
しかしながら、翌月の30日から1年間、北は米国欧州を歴訪して不在となる。
北と同郷の村田芳太郎(後に改名して晴彦)は、北の代理人として生涯をつくし、北の死後は自らが理事長に就任して、強引な学校運営を貫徹した。



参照文献(帝國音楽学校)
1917/00/00「設置」公文書館
1932/00/00「入学式案内」「第一回演奏会」
1933/00/00「帝国音楽学校を解剖」音楽世界
1934/07/25「会員録」
1935/02/19「ビラ」学生会有志
1935/02/00「声明書」職員有志
1935/02/11「声明書」学生会
1935/02/15「創立までの経過報告」在京同窓生

参照文献(多摩帝国美術学校)
1929/09/02「借地契約書」小美濃文太郎
1929/00/00「設置」公文書館
1929/00/00「第一回教授会名簿」教授会
1930/12/00「学生募集」祖国12月号広告 北
1932/00/00「学友会名簿」学友会
参照web(帝國音楽学校)
1932/06/00「第二次帝国音楽学校」

参照web(多摩帝国美術学校)
「Tama博物誌」

移転反対運動

「帝国美術学校」は、学生の懲兵が猶予される専門学校への昇格を目指し、新しく開通した大井町線の上野毛駅への移転を計画、1935年3月19日東横電鉄と契約する。

吉祥寺校舎は、金原らの投資によって建築されたが、その所有権は校長名義であった。
1935年に第一回生が卒業するが、同年5月16日に移転反対運動が起こり、学生の授業放棄に続いて校友会、父兄会、地元町民会の移転反対運動が起こる。
北が学生53名を除籍(入学記録を抹消)、103名を停学処分として、6月27日に吉祥寺校舎を封鎖すると、移転反対派は東京地裁に控訴し、7月10日に木下校主の実弟かつ養子の木下三四彦弁護士により口頭弁論が始まる。木下校主は病気で北海道に帰郷したままである。
移転反対派学生と移転賛成派学生は相互に絶縁状を送付して、学生は分散する。

1)繰上げ卒業の学生 90名
2)留学生ら、他校へ転校した学生 130名
3)帝国美術学校へ編入した学生 64名
4)移転反対派に残留した学生 105名
5)シュールリアリズムなどの学外作家活動、または兵役を志願して戦死した学生。

1942年に原告の木下成太郎が死亡して、移転反対の裁判は長期化する。
翌年の12月20日、戦時調停和解(東京地裁民事6部内藤頼博判事)により、安田誠一郎が帝国美術学校の設立者となり、帝國美術学校は法制局長官に経営が譲渡さる。譲渡金は北校長に70,000円 金原名取に65,000円が分配された。
翌年4月10日に大東亜省は石油技師を養成する「大東亜工学院」を開校式し、生徒9名が編入するが、翌年8月26日敗戦の勅令により、大東亜省は消滅する。

同様に「帝国音楽学校」においても、1932年12月5日に解雇騒動や日大専門部芸術学園との合併反対運動で内部分裂し、大東亜戦争の戦災により消失する。




繰上卒業 小館善四郎

転校学生 李仲燮

編入学生 長谷川七郎

編入学生 土方重巳
参照文献(移転反対運動)
1935/04/24「同盟休校」新聞各誌 池田愛子
1935/05/25「木下宛書簡]北れい吉
1935/06/24「同盟休校事情報告」多摩帝美
1935/06/28「校舎釘付封鎖」写真朝日新聞
1935/06/00「紛争の顛末」多摩帝国美術学校
1935/07/05「木下宛教授団通告書」
0000/00/00「教授団宣言」 代表井上忻治
0000/00/00「宣言」今井兼次 
1935/07/09「絶縁状」学生一同
1935/00/00「帝国美術学校創立事情」金原
1935/00/00「移転反対訴訟」原告:木下成太郎
1934/09/00「金原省吾日記」金原省吾
参照web(移転反対運動)
0000/00/00「学生一覧」

南隣地の移転反対派校舎の結末

1935年7月4日移転反対派は地元の杉並中学校を借用して入学式を開催する。西洋画と日本画および師範が150名、翌日には図案と彫刻50名が出席し、9月2日に授業を開始する。
同年9月2日金原らは、地主から新たに借用した南隣接地に、東京女子高等師範学校に残っていた関東大震災復興当時の老朽校舎を解体移築する。
移転反対派の仮校舎は、1940年戦時中、金原が東京逓信局に賃貸した。

仮校舎は戦後の1947年に丸山鶴吉(元多摩帝国美術学校の後援会長、元朝鮮総督府警務局長)の配下で、大陸から引揚げた田中次郎吉に売却されるが、2年後に田中次郎吉が逝去。田中誠治が相続して「造型美術学園」の事務代行及び校長事務となる。
1951年に丸山鶴吉の公職追放が解除されると、新設された準学校法人「武蔵野美術学校」の初代校長に就任する。
丸山鶴吉が逝去すると、1957年3月に有馬次郎(元文部省次官)が学長に就任して「武蔵野美術短期大学」を設立する。
1958年には金原省吾が逝去、1962年「武蔵野美術大学」が設置される。



 
参照文献(南臨地の動向)
1935/09/18「借地契約書」小美濃文太郎
1924/00/00「在鮮四年有余半」 丸山鶴吉自伝
1927/00/00「魂はおどる」 田中次郎吉小説
0000/00/00「学校日誌」武蔵野美術大学
1934/00/00「自伝:50年ところところ」丸山鶴吉
1963/00/00「武蔵野美術大学を造った人びと」
参照web(南臨地の動向)
1932/00/00「関東大震災の復興校舎」


上野毛時代 「多摩帝国美術学校」 
上野毛前期 1935-1946年  (11年間)

1935年9月6日上野毛に「多摩帝国美術学校」が認可され、上野毛の野原で始業式が開催される。村田芳太郎が北の代理として運営に当たる。
裁判中の為に使用できない「帝国美術学校」の名称に「多摩」を付けて認可したのは、横山助成東京府知事(後の石田学長の義弟)の奇策である。
26日には、千駄ヶ谷の学苑社で編入学生64名 新入学生115名の授業を開始する。
11月01日の開校記念祭には3000名が参加し、12月01日には多摩川の鮎割烹旅館水光亭で開校大祝賀会が開催された。

生徒募集によると、名誉校長は北、校長は杉浦非水、学監は井上忻治、主事は渡邊泰亮、学生監は村田芳太郎、理事長には國澤新兵衛(元南満洲鉄道総裁)、理事は北、杉浦、牧野となっている。
翌年2月20日北が第19回衆議院議員に当選。26日には226事件が勃発し、北の兄である北一輝が逮捕され、特設軍法会議で銃殺刑となる。9月17日に北が原作者である映画『国防全線八千粁』が封切される。
今井兼次が設計した斬新な木造校舎は戦災で焼失したが、戦後に復元した木造校舎の解体材を利用して、八王子校地に民俗資料館を建築、初期の上野毛校舎を偲ぶ記念とした。








吉田謙吉 図案科講師

国澤理事長 理事長

佐々木順 図案科卒業

宮 長兵衛 図案科卒業

安田靫彦 奥村土牛 中村岳陵 吉田澄舟 川端実 福沢一郎 駒井哲郎 里見宗次図案科教授
参照文献(多摩帝国美術学校)

1935/03/28「設立申請類」公文書館
1935/09/06「多摩帝国美術学生る」
1935/00/00「設立趣旨書」
1935/09/00「学長挨拶」
1935/09/10「生徒声明書」生徒一同
1935/00/00「1936度 生徒募集要項」職制
1936/00/00「自伝60年」杉浦非水
1936/00/00「自伝」広告界 杉浦非水
1937/00/00「1938度入学案内」
1937/00/00「1938度女子部入学案内」
1937/10/30 「財団法人設置」公文書館
1936/05/25「デゼグノ 1-10号」図案会   名簿
1939/00/00「多摩美術 第1-4号」TTB
1935/02/00「工事随想」工芸美術 今井兼治
1937/03/20「日大芸術科学生募集」東京朝日新聞
1940/00/00「皇紀2600年」単行本大川周明
1944/11/00「多摩美術 学徒出陣」1号 TTB
1944/11/00「名簿」多摩美術 学徒出陣 1号
参照web(多摩帝国美術学校)

1936/02/26「北一輝」
1935/00/00「東方の光」伝記岡田茂吉
1935/00/00「学生募集」


米軍の精密爆撃

念願の徴兵猶予が1937年に認可されたが、1941年10月には専門学校の修学年限が3ヵ月短縮され、学生は繰上卒業で入隊措置となる。翌年には6ヵ月短縮されての入隊となる。1943年に男子学生は学徒出陣に、女子学生は溝ノ口の軍需工場へ学徒動員される。
出征して戦死した学生は17名、他に除籍退学した学生6名の戦死が確認できる。

1944年に上野毛校舎は海軍電波物理研究所に徴用され、1945年5月24日1時36分および5月25日5月25日12時10分の米軍の精密爆撃により上野毛校舎は1棟を残して全焼消失する。
西側臨地の肢体不自由児施設クリュッペルハイム東星学園(理事長は日本キリスト教婦人矯風会の守屋東)は無傷であった。



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戦没学生 矢崎博信

戦没学生 浅原清隆

戦没学生 大塚耕二

戦没学生 板坂勇

参照文献(戦災)
1936/03/17「兵役猶予不許可」 公文書館
参照web(戦災)
1934/00/00「アニマ」
1944/00/00「海軍電波物理研究所」

1945/05/24「米軍の精密爆撃」

溝ノ口時代「多摩造形芸術専門学校」
1976-1951年 (7年間) 

敗戦の1946年村田芳太郎が、溝の口の旧軍需工場を借用して学校工場を運営する。戦後に帰京した学生は 、旧軍需工場内に宿泊し、木工室で家具類を製造販売して学資とした。

同年10月に「帝国美術学校」開設当初からの理事および絵画科主任教授であった牧野虎雄が逝去、1948年には伝記映画「生きている画像」が封切される。
1947年「多摩造形芸術専門学校」が復興する。
進駐軍家族住宅の為の建設や生活用品の生産が進んで、日本の産業デザインが一新する。

参照文献(多摩造形芸術専門学校)
1945/00/00「徒然草紙」牧野虎雄日記
1946/07/25「帝国憲法改正案」北れい吉質疑
1946/00/00「設置」公文書館
1947/03/01「復興宣言」多摩造形芸術専門学校
1949/03/08「多摩美術 復刊第1号」 校友会
1984/00/00「談話」渡辺素舟
参照web(多摩造形芸術専門学校)
1946/06/25「帝国憲法改正案」
1948/00/00「生きている画像」映画封切 牧野虎雄
1945/09/00「ワシントンハイツ」 
1945/09/00「連合軍家族用住宅集区」

上野毛後期「多摩美術短期大学」「多摩美術大学」
1951-1975年 (22年間)

理事会の自立と大学紛争

1951年村田、逸見らが「多摩美術短期大学」を設立、1953年「多摩美術大学」を設立、1954年「多摩芸術学園」を設立する。
1953年9月25日村田芳太郎が村田晴彦と改名する。
1954年大学新設のシンボルとして、講堂鉄骨建が真っ先に着手されたが、工事は遅々として進まず、完成に5年を要した。
1957年に宮崎台の土地、1958年に野尻湖の土地を購入する。
更に1960年から4年間に渡って、大学設置基準を満たす為に八王子運動場用地の二万坪を購入する。
鑓水の地は、湧水の飲料水、燃料の樹木、採取食物が豊富で、縄文の遺跡が多い丘陵である。多摩美は、多摩ニュータウン法が施行される直前に土地を取得し、独自の調査で多くの縄文土器や完全な縄文人骨を発掘した。
私立大学の校地と校舎の面積比率は、国立大学と同等でなければならない。当時の国立大学の校舎は木造2階建が多かった為に、膨大な校地面積が要求された。
1961年8月5日北が逝去すると、軽井沢在住の杉浦非水に代わって、村田が理事長職を登記する。
しかしながら、村田の独断的な経営は、多くの紛争を生じ、大学は破綻状態となる。





森田曠平


加山又造


山名文夫 図案科教授


斎藤義重
中村研一小絲源太郎 林武 川端実 宮本三郎 福沢一郎 鈴木誠 伊原宇三郎

参照文献()
1951/00/00「政界回顧20年」日本乃日本人 北れい吉
1952/00/00「猶興」巻頭言 北れい吉

参照文献(多摩美術短期大学)
1950/00/00「設置」公文書館
1952/00/00「学生の身分等に関する綴」
1954/04/30「DESEGNO 新しいデザイン」創刊号

参照文献(多摩美術大学)
1952/12/00「後援会」会長 北れい吉
1952/00/00「第16回卒業生住所録」
1952/00/00「設置」公文書館
1954/00/00「祝辞」美術大学新聞井上忻治
1954/00/00「名簿卒業生」 「職員」多摩美会
1954/11/11「創設から現在に至る思い出」 村田晴彦
1954/04/30「DESEGNO 新しいデザイン」創刊号
1954/00/00「名簿」多摩美会卒業生 「名簿」職員
1956/01/00「名簿多摩図案会」 「名簿在校生」
1958/00/00「設計図」上野毛講堂佐藤次夫
1960/05/27「多難だった学校設立」美大新聞村田晴彦
1960/11/01「校歌」創立20周年
1963/12/15「北れい吉 追想記」
1963/12/15「選挙戦を偲ぶ」村田晴彦
1963/00/00「1964年度 募集案内」「教員名簿」
参照web()

参照web(多摩美術短期大学)

参照web(多摩美術大学)
1955/00/00「学生募集ポスタ 1955-1962」

理事会の分裂

1962年環八の拡張工事に伴う訴訟で補償金一億5千万円と騒音補償五千万円を受領。
1964年に奈良研究所の土地、1964年に富士山麓研究所の土地を購入。

1964年6月14日学友会民青が木馬イーゼル反対運動をおこし、翌日、授業放棄となる。
1965年2月19日逸見理事らが「正常化連盟」を発足して村田理事長と対立する。
1966年3月30日第51回国会文教委員会において村田理事長の就任について質疑される。
4月には逸見理事が村田を公文書偽造で訴訟し、翌年には佐々木長次郎を学外理事長に選出するが、1967年9月20日学校内に在った逸見宅に対して東京地裁が立退命令を出す。




建畠覚造 彫刻科長

大橋歩 図案科卒業

和田誠 図案科卒業

幸村真左男 デザイン科卒業
参照文献(理事会の分裂)
1965/06/10「事件の真相」本学の沿革 村田晴彦
1965/09/20「溝ノ口の土地について」村田晴彦
1966/03/30「国会議事録」文教委員会 第51回
1966/00/00「逸見訴訟」公文書偽造 東京地裁 
1967/00/00「逸見訴訟」登記偽造 東京地裁
1967/00/00「ベ平連マーク」和田誠
1967/00/00「1968年度 学生募集要項」未完
1967/10/18「学生運動に関する建白書」村田晴彦
1967/00/00「校地陳情経過1967-1972」村田晴彦
1967/09/20「辺見宿舎の立退命令」
1969/08/07「大学臨時措置法」法律第70号施行
1969/10/15「第61回文教委員会」国会 岡田孝平参考人
参照web(理事会の分裂)

全共闘運動

1968年4月1日、東京大学文化人類学教室の初代主任の石田英一郎(治安維持法適用第一号で男爵返上)が学長に就任、学生数2000名の総合美術大学を目指す通称「石田ビジョン」を6月14日に発表するが、11月9日石田学長が急逝、続いて次期学長候補の東京大学東洋文化研究所の泉靖一が急死する。

理事会不和の弱点を突いて、5月10日学友会が八王子建設反対運動を起こし、5月28日と7月2日に大衆団交、7月7日に授業放棄となる。11月13日には学友会執行部が社研部に交代、19日に中核派に交代する。

1969年1月14日社研部が本館を封鎖し、17日学友会執行部が全学を封鎖するが、28日学生総会が八王子計画撤回を要求して、村田理事長が計画を白紙撤回すると、2月10日学友会執行部が封鎖を解除して、13日に入試を開始し、3月23日卒業式を開催する。
八王子本館は完成したが2年間使用できず「幽霊校舎」と報道される。八王子移転の為に鉄骨プレハブの校舎建築が急がれた。

4月4日に理事評議員の全員が辞表を提出、教授36名が次期体制への非協力を宣言し、8日村田理事長が入院手術する。
18日神奈川県の多摩芸全共闘が、突然、大学本館を封鎖する。
5月8日に村田理事長が、25才の大学院生を含む、新しい評議員を指名し、6月9日村田理事長が退院する。

7月10日全闘委が全学を封鎖し、9月5日反帝学評が駒沢大セクト20名を導入する。
8月7日警察力の大学構内への立ち入りを認めた「臨時措置法」が制定されると、10月2日反帝学評はバリケードを強化して、上野毛校舎は徹底的に破壊される。

10月19日新評議会は機動隊を導入して逆封鎖し、12月2日授業を再開する。
環八補償金を貯金していた1億円の10年定期預金は、破壊された上野毛校舎の復旧工事費に支出されて、銀行からは、給与の支払停止を通告された。
1970年1月22日旧教員を解雇して、新任教員15名を採用、2月27日に真下真一を学長に選出する。
3月9日に入試を実施すると、受験者数が過去最高の2400名に達する、予想外の結果となった。4月15日新教員によって入学式を開催する。

全共闘運動のために1年間授業が出来なかった大学は、全国で3校であった。
国立横浜大学(工学部を除)、大阪市立大学医学部、私立では多摩美術大学の1校のみである。

参照文献 全共闘運動(理事会)
1968/00/00「1969募集要項」未刊
1968/06/14「総合美術大学構想」石田ビジョン
1969/01/00「ライオン会開催」高橋史郎手帳
1969/01/25「多摩美術大学の現状」村田晴彦
1969/02/07「筒井解雇」村田晴彦
1969/02/15「訴訟説明」池留三弁護士
1969/12/01「紛争の概要」多摩芸術学園
1970/01/22「特別講義科目」pdf
1970/03/09「入試通知」
1970/03/10「出願状況」
1970/03/19「教員名簿」メモ
1970/04/27「教員昇格」メモ
1970/08/25「紛争の経過 その後の学内問題」

参照文献 全共闘運動(教授会)
1969/01/00「学外ゼミ」全学教授会
1969/04/12「次期体制への非協力宣言」教授36名
1969/05/17「自主講座」全学教授会
1969/06/03「大学立法に反対声明」全学教授会
1970/02/01「現状について訴える」全学教授会

参照文献 全共闘運動(全共闘)
1969/10/00「闘争の源泉」全闘委
1970/00/00「闘争記」滝田

参照文献
1971/04/11「幽霊校舎」朝日新聞
1971/04/12「高裁上申書」村田晴彦
1971/04/12「敗訴への反論」学校法人弁護団
1971/00/00「針生訴訟」学外教員地位保全
1971/01/11「八王子計画」理事会
1971/01/11「八王子計画」教授会
1972/02/24「スクールバス運行開始」

参照文献(村田)
1972/03/13「多摩美の企画性」村田晴彦
1972/04/01「隣地払下再申請」村田晴彦
1972/05/28「自然環境陳情」村田晴彦
1973/03/00「全学協力体制」村田晴彦
1973/10/20「文化外交についての建白書」
1974/03/00「思い出の記」
1974/10/03「文化外交 陳情」村田晴彦
1974/10/23「教育システム改善」村田晴彦
1974/00/00「多摩芸術開発協会」村田晴彦
参照web 全共闘運動(理事会)
0000/00/00「石田英一郎」
1968/08/00「芸術学科開設」議事録
1968/09/20「逸見宅強制執行」東京地裁
1970/00/00「記録写真ネガ」高橋士郎
1970/00/00「高橋満寿男書簡」1996-1975









参照web 全共闘運動(教授会)
1970-06/00「全共闘運動」





参照web 全共闘運動(全共闘)



参照web
1971/00/00「多摩美隣接地域の開発案」高橋史郎







参照web(村田)
1973/04/01「デザイン文様研究」所江上波夫

学長と理事長の分断

1970年4月01日北岡健二(元文部省調査局長)が監事に就任。
1971年岡田公平(元文部省大臣官房人事課長)が常務理事に就任。

1973年4月1日村田理事長が「文様研究所」開設して、元東京大学東洋文化研究所の江上波夫を次期学長候補とする。
1974年11月20日理事5名が村田理事長に対抗して、「理事長等職務執行停止」を東京地裁に申請する。
1975年2日27日には第75回国会の文教委員会で真下学長選考について審議された。
国立大学における文部大臣と学長の二重権力構造が、私立大学における理事長と学長の二重権力構造を生み出す。入試は学長の専権事項であり、理事長は権限の無い部外者であるので、理事長が不正入試を追求されることはなかった。

同年3月29日村田理事長が72才定年退職して会長となり、同時に真下学長が「不正入学事件」を理由に解雇される。村田は同年7月16日に逝去する。


参照文献(学長解雇と5理事)
1974/04/17「岡田宛質問状」村田晴彦
1974/04/26「学長候補選挙」真下学長
1974/04/30「学長選挙の疑問点」村田晴彦
1974/05/25「真下教授会不正開催」井上監事 池監事
1974/06/05「理事長辞任反対」多摩芸術学園
1974/11/20「疑問点への反論」山脇
1974/11/00「団交」書教員組合 奥野健男
1974/11/20「村田辞任勧告」5理事 
1974/12/11「学長候補承認要望」教授会
1974/12/26「学長就任 理事長背任」山脇
1974/00/00「5理事訴訟」理事長職務停止東京地裁
1975/01/08「村田の失格確認」5理事
1975/02/12「不正入試」匿名投稿
1975/02/25「真下山脇訴訟」地位保全 東京地裁
1975/02/25「法定闘争」朝日新聞
1975/02/27「高田訴訟」学長不正入学 東京地裁
1975/02/27「国会議事録」第75回 文教委員会
1975/03/05「不正入学経過山」脇 真下
1976/03/11「不正入学の事実」山脇
1975/04/08「教授会決定の先例 第1回 72回」
1976/12/08「特別調査委員会報告書」
参照web(学長解雇と5理事)
1976/00/00「40年の歩み」高橋 江尻
1974/00/00「チェンセン分校計画」

八王子時代 
1975-2019年  紛争の終結と文部行政

八王子前期  建築停滞の20年

外部から新たに内藤頼博(元名古屋高裁長官)が理事長代理および学長代理に着任し、全ての紛争が終結、新採用の理事と教授により、多摩美は八王子に全面移転する。
1989年溝の口校地を売却して八王子校地購入の資金とし、「多摩芸術学園」は廃止して上野毛に夜間学部として大学に吸収する。
しかしながら、多摩ニュータウン事業の停滞により、校舎建設は20年間停滞する。

内藤理事長は任期途中で辞任。その後は変則任期の理事長改選が26年間続く。
村田が北から継承した強烈な個性の美術大学が、村田体制を乗り越えて、新たな体制に進む為には、長い時間を必要とする。



参照文献(紛争の終結と文部行政)
1975/07/11「私学振興助成法」法律施行
1983/00/00「多摩美術大学研究紀要」創刊
1986/00/00「臨時定員増加の措置」


参照文献(八王子校舎)
1856/00/00「古地図」YOKOHAMAフランス軍
1880/00/02「古地図」南多摩郡 鑓水村 ドイツ式
1999/00/00「幻の相武電車と南津電車」
1980/00/00「呪われたシルクロード」逸見じゅん
2015/00/00「ふるさと鑓水」鑓水歴史研究会
0000/00/00「仲宗寺」単行本
参照web(紛争の終結と文部行政)
1981/10/19「芸術学科開」講東野芳明
1982/04/21「シルパコーン大学締結」
1989/00/00「美術学部二部」


参照web(八王子校舎)
「八王子校地の沿革」
「開発物語」
「鑓水綺譚」

八王子中期 再開発と教育改組の10年

1996年多摩ニュータウン法が廃止されると、開発規制が緩和され、早々に八王子キャンパスの建築が再開されるが、秋山邦晴教務部長が急死した為に、高橋史郎教務部長が着任して、学生数4000名の教育改組を進める。社稷の臣
教育改組のための文部省高等教育局への訪問は46回におよんだ。
情報デザイン学科の申請時には、美術学部での前例が無いという理由で、書類の受理を拒否されたが、急遽、工学部相当の内容に書き換えて受理された。当時、情報デザイン学科の開設は国際的にも稀有であった。翌年には、芸大に「先端美術学科」、武蔵美に「デザイン情報学科」が開設された。
1997年インターネット@tamabiの運営が開始。翌年には全学的情報インフラが完成する。
1999年「第一回自己点検報告書」を発行する。
2001年「文化芸術振興基本法」文化庁
2002年工場等規制法が廃止され、大学の都心回帰が始まる。生涯学習センタ設置
2003年初の女性管理職(森下清子教務部長)が就任して「第一回授業アンケート」を実施する。
2004年第1回博士号を3名が取得する。

2005年東京都と都市基盤整備公団がミュータウンの開発を終了し、取得校地面積が倍増したので、新設学科構想研究会を発足、建築計画を拡大する。
思いやりのあるキャンパスに、美は為す 「里仁爲美」 りじんいび
2006年八王子校地のシンボル的な存在の新図書館が完成。芸術人類学研究所を開設する。リクルート社の大学ランキング調査で1位 となる。

参照文献(改組と再開発)
1996/00/00「文部省訪問」高橋史郎日誌
1998/04/01「コンピュータ美術教育」
1999/00/00「第一回自己点検報告書」
2003/00/00「第二回自己点検調査書」
2006/00/00「つくる図書館をつくる」鹿島
参照web(改組と再開発)
アーカイブス
tamabi 0.2
芸術村構想
多摩美会構想
tamabi OS

八王子後期 新たな局面

大学紛争後の「私学振興助成法」に基づく大学運営は、私学助成金に拘束されて、自由活発な大学の特徴を失っていく。
従来、水増入学と寄付金による大学運営は、大学の自治とされていた。
1966年の文部事務官による国会答弁では「学生の実数は定員を五割ほどオーバーしている。その学校経理を文部省が直接調査をするということは法律上できない」としいている。
大学設立から、30年目にして、多摩美術大学の量的発展は終了する。

2019年4月からは変則任期の理事長改選を廃止して、外部から新理事長(元文化庁長官)が着任し、新たな局面を迎える。

2017年「文化芸術基本法」が改正され、行政横割りの芸術文化推進会議が発足する。


参照文献()
1986/00/00「多摩美術大学50年史 草案」高橋
1986/00/00「多摩美術大学50年史 1935-1986」
1991/00/00「武蔵野美術大学60年史 1929-91」
2008/00/00「武蔵野美術大学のあゆみ 」
2009/00/00「大学基準認定」大学基準協会
2015/00/00「多摩美術大学の60年」
参照web()

あとがき

1976年に筆者が執筆編集した、冊子「多摩美術大学 40年の歩み」では、上野毛に開校した「多摩帝國美術学校」以降の沿革を記載した。
今回、本冊子「多摩美術大学 90年の歩み」では、吉祥寺に開校して戦時調停で廃校した「帝国美術院学校」を含む沿革を記載し、来たる2030年の「創立100周年」出版に備える。

清らかに、多摩川の流れ はるかに富士の姿をうつし 森陰にふく自由の風 
のびゆく若葉の 希望をこめて 我ら美しい 未来をえがく
ああ われらの多摩美大

ほがらかに、肩を並べて 若い心に 明るいほこり 文化の野に咲く 平和の花 
たゆまず くじけず 理想を胸に 我ら新しい 社会をいろどる
ああ われらの多摩美大

多摩美術大学は、自主独立して発展してきた、国際的にも稀有な私立の美術大学である。
未完成には、未来へ努力する、生きがいがある。
自由と意欲、達成感、構成組織の自律、評議員の選出規定。

学生定員の推移

教員の変遷

役員の変遷