「多摩美術90年の歩み」 村田体制とその後の経過
高橋史郎 2020/11/1創立記念日

1) 前史  大正ロマンと美術教育

20世紀初頭の英国では、ルソー思想を継承し自発的な学習を尊重する教育運動がおこり、日本では大正時代にその影響がおよび始めた。

文展に反発して二科会が結成され、未来派美術協会 アクション MAVO 第一作家同盟など大正モダンの新興美術運動がおこる。

平福百穂 日本画科長

森田恒友 西洋画科長

中川紀元 西洋画科教授

杉浦非水 図案科長

郷倉千靱 日本画科教授

山村耕花 日本画科講師

牧野虎雄 西洋画科主任

木村荘八 西洋画科講師

大久保作次郎 西洋画科教授 中村研一 西洋画科教授  鈴木誠 西洋画科教授

1918年には紀淑雄(東京専門学校出身 現早大)が「日本美術専門学校」を創設する。
この時代に、高等教育が普及して、国立公立私立の専門学校は90校、生徒数は42,000人にのぼった。
1921年に与謝野鉄幹 晶子夫妻らが「文化学院美術部」を創設。羽仁もと子が高等女学校令によらない学校として「自由学園」を創立。土田杏村が提案して「自由大学運動」が起こる。

これらの学校の教授から、後の「帝国美術学校」の設立メンバが輩出する。
1924年に杉浦非水が図案研究の団体「七人社」を創立する。
1933年に牧野虎雄が、作家の自由な創作を尊重する「旺玄社」を興す。
1933年に三木清らが反ナチス団体ともいえる学芸自由同盟を結成する。

 
1923年の関東大震災の後、大正デモクラシーは、昭和の文化政策に移行する。
新しいメディアによって文化情報の伝播が拡大し、政治的なプロパガンダを目的とする視覚デザイン、映画、写真、ポスターが発達する。

1932年には「大日本映画協会」「国民精神文化研究所」 が設立され、1933年9月22日ドイツの国民啓蒙宣伝大臣ゲッベルスが「帝国文化院法」を制定。日本では近衛文麿の「昭和研究会」が発足し三木清の「東亜協同主義」が台頭する。
1938年官制の美術展の所管は文部省へと移り、1944年の戦時特別展まで続く 。


2) 吉祥寺時代「帝国美術学校」の創設

 
1929年10月に「日本美術専門学校」の職員である金原省吾らが、美術学校の開設を計画して哲学者の北れい吉に相談、北が木下代議士(漢学振興を建言)に校主就任を依頼する。木下成太郎、杉浦非水、牧野虎雄、北れい吉の4名が設置者となり、校長に北が、校主に木下が就任し、教務 庶務 会計をそれぞれ金原省吾 名取堯 村田芳太郎が分担する。

北と同郷の村田芳太郎(後に改名して晴彦)は、30年間に渡って北の代理人として美術学校を運営し、北の死後は自らが理事長に就任して12年間、生涯をつくして北の強引な学校運営を貫徹した。

 
翌年に金原らが木下の出資を清算し、以降5年間に渡って校舎が増築される。
学費85円、学生募集120名、在学4年で、現在の価値に換算すると、年間1億円余りの授業料収入が在ったと思われる。

 
同様に1932年6月、北は「第二次 帝国音楽学校」を荏原郡世田谷町に開校して校長に就任し、鈴木鎮一が校長代理となる。学生投票によって教授を決定する革新的な制度の学校であった。

しかしながら、開校早々の翌月30日から1年間、北は渡米、欧州を歴訪して不在となる。

「校歌」北原白秋
地平は晴れたり、輝き動けり。
見よ、この武蔵野、母校の我が空、自然の精気は雲と騰れり。
いざ采れ、丹青、更に新に、
祖国よ、我等は華と開かむ、我等は、我等は道に遊ばむ、
帝國美術、帝國美術、帝國美術、フレフレ。



3) 帝国美術学校の閉鎖と校舎譲渡


 
 
1935年に第一回生が卒業するが、北は、学生の懲兵が猶予される専門学校への昇格を目指し、新しく開通した大井町線の上野毛駅への移転を計画、同年3月19日東横電鉄と契約すると、5月16日に移転反対運動が起こり、学生の授業放棄に続いて校友会、父兄会、地元町民会の移転反対運動が起こる。
吉祥寺校舎は、金原らの投資によって建築されたが、その所有権は校長の名義であった。

 
北が学生53名を除籍(入学記録を抹消)、103名を停学処分として、吉祥寺校舎を封鎖すると、移転反対派は東京地裁に提訴し、北海道で療養中の木下校主に代わって、木下三四彦弁護士(木下校主の実弟かつ養子)により7月10日口頭弁論が始まり「帝國美術学校」の名称使用権と校舎の所有権が争われた。


繰上卒業 小館善四郎

転校学生 李仲燮

編入学生 長谷川七郎

編入学生 土方重巳
図案科学生を中心とする移転賛成派と、絵画科学生を中心とする移転反対派は相互に絶縁状を送付して、学生は分散する。
1)繰上げ卒業の学生 90名
2)留学生ら、他校へ転校した学生 130名
3)多摩帝国美術学校へ編入した学生 64名  
4)移転反対派の仮校舎に残留した学生 105名 
5)シュールリアリズムなどの学外活動、または兵役を志願して戦死した学生。

1942年に原告の木下成太郎が死亡して、移転反対の裁判は長期化する。
1943年の12月20日、戦時調停和解(東京地裁民事6部内藤頼博判事)により、安田誠一郎が帝国美術学校の設立者となり、帝國美術学校は法制局長官に経営が譲渡さる。譲渡金は北校長に70,000円 金原名取に65,000円が分配された。
1944年4月10日に大東亜省は石油技師を養成する「大東亜工学院」を開校式し、残留生徒9名が編入するが、1945年8月26日敗戦の勅令により、大東亜省は消滅する。

同様に「帝国音楽学校」においても、1932年12月5日に解雇騒動や日大専門部芸術学園との合併反対運動で内部分裂し、大東亜戦争の戦災により消失する。


4) 移転反対派のその後と、仮校舎の譲渡

 
1935年月4日、移転反対派は地元の杉並中学校を借用して入学式を開催する。西洋画と日本画および師範が150名、翌日には図案と彫刻50名が出席し、9月2日に授業を開始する。
同年9月2日金原らは、地主から新たに借用した南隣接地に、東京女子高等師範学校に残っていた関東大震災復興当時の老朽校舎を解体し移築する。
移転反対派の仮校舎は、戦時中の1940年、金原により東京逓信局に賃貸された。


敗戦後の1947年に丸山鶴吉(元多摩帝国美術学校の後援会長、元朝鮮総督府警務局長)の配下で、大陸から引揚げた田中次郎吉が移転反対派の仮校舎を購入するが、2年後に次郎吉が逝去。25才の長男 田中誠治が相続して「造型美術学園」の事務代行及び校長事務となり、以降36年間に渡って理事長を務める。

丸山鶴吉は、公職追放が解除されると、1951年に新設された準学校法人「武蔵野美術学校」の初代校長に就任する。
1956年に丸山鶴吉が逝去すると、有馬次郎(元文部省次官)が学長に就任して「武蔵野美術短期大学」を設立、教授に就任していた金原省吾は1958年に逝去する。1962年「武蔵野美術大学」が設置される。


5) 上野毛時代「多摩帝国美術学校」の創設


  1935年9月6日上野毛に「多摩帝国美術学校」が認可され、上野毛の野原で始業式が開催される。村田芳太郎が北の代理として運営に当たる。

裁判中の為に使用できない「帝国美術学校」の名称に「多摩」を付けて認可したのは、横山助成東京府知事(後の石田学長の義弟)の奇策であった。

 
 
名誉校長に北れい吉、校長に杉浦非水、学監に井上忻治、主事に渡邊泰亮、学生監に村田芳太郎が就任。理事長には國澤新兵衛(工学博士 元南満洲鉄道総裁)、理事には北、杉浦、牧野、近藤清吉(医師)、立花良介(黒龍会顧問)が就任した。
9月26日には、北が主幹する千駄ヶ谷の学苑社で、旧帝國美術学校からの編入生64名と新入生115名の授業を開始する。11月1日に開催された上野毛の新校舎での開校記念祭には3000名が参加し、12月01日には多摩川の鮎割烹旅館水光亭で大祝賀会が開催された。

翌年2月20日に、北が第19回衆議院議員に当選。26日には226事件が勃発し、北の兄である北一輝が逮捕され、特設軍法会議で銃殺刑となる。9月17日に北が原作者である映画『国防全線八千粁』が封切される。1937年東横電鉄よりの借入金を基本金として 「財団法人 多摩美術学校」を設立し、徴兵猶予が認可される。

「校歌」北れい吉
昭和の御代に 生い立ちて精勤ここに 幾星霜
武蔵の原の 美の庭は 香りいや増し 馥郁(ふくいく)と
輝やく永栄は 吾にあり 巨き歩みよ 多摩帝美

 
 
 
今井兼次が設計した上野毛の校舎群は、日本画の青色、図案科の赤色、西洋画の緑色、彫刻科の黄色を塗装した斬新なデザインであった。
戦後、焼け残った今井兼次設計の木造校舎の解体材を再利用して、八王子校地に民俗資料館を建築、上野毛校舎を偲ぶ記念とした。


吉田謙吉 図案科講師

国澤理事長 理事長

佐々木順 図案科卒業

宮 長兵衛 図案科卒業
 安田靫彦 奥村土牛 中村岳陵 吉田澄舟 川端実 福沢一郎 駒井哲郎 里見宗次図案科教授

5月25日、多摩帝國美術学校図案会が「デゼグノ」商業美術特集号を創刊し、第10号まで発行する。1939年からは「多摩美術」と改名して1944年の学徒出陣号まで4冊を発行する。

6) 米軍の精密爆撃

 
 
念願の徴兵猶予が1937年に認可されたが、大東亜戦争が始まり、1941年10月には専門学校の修学年限が3ヵ月短縮され、学生は繰上卒業で入隊措置となる。翌年には6ヵ月短縮されて入隊となり、1943年に男子学生は学徒出陣に、女子学生は溝ノ口の軍需工場へ学徒動員される。

同年、昭和医学校よりの借入金で東横への地代および利息元金の全てを返済する。
昭和医学校は、軍の要請により、600名の総定員を640名に増員する。

 
1944年に上野毛校舎は海軍電波物理研究所に徴用され、1945年5月24日1時36分および5月25日5月25日12時10分の米軍の精密爆撃により上野毛校舎は1棟を残して全焼消失する。
西側臨地の肢体不自由児施設クリュッペルハイム東星学園(理事長は日本キリスト教婦人矯風会の守屋東)は無傷である。


戦没学生 矢崎博信

戦没学生 浅原清隆

戦没学生 大塚耕二

戦没学生 板坂勇

出征して戦死した学生は17名、他に除籍退学した学生6名の戦死が確認できる。


7) 溝ノ口時代「多摩造形芸術専門学校」


 
敗戦の1946年、村田芳太郎が、溝の口の旧軍需工場を借用して学校工場を運営する。戦後に帰京した学生は 、旧軍需工場内に宿泊し、木工室で家具類を製造販売して学資とした。

     
同年10月に「帝国美術学校」開設当初からの理事であり、絵画科主任教授であった牧野虎雄が逝去。1947年伝記小説「瓢箪先生」が刊行され、翌年には映画「生きている画像」が封切される。

 
敗戦後、日本政府による、米国進駐軍家族の為の住宅建設や生活用品の生産が進んで、日本の産業デザインや東京の住宅環境が一新し、工業デザインが発展する。
1947年「多摩造形芸術専門学校」本科が溝の口に、予科が上野毛に復興する。


8) 「財団法人多摩美術短期大学」
  「学校法人多摩美術大学」


 
1951年に村田、逸見らが上野毛に「学校法人多摩美術短期大学」を設立、1953年「学校法人多摩美術大学」を設立、1954年溝の口に「多摩芸術学園」を設立する。
1953年9月25日、村田芳太郎が村田晴彦と改名する。

 
1954年大学新設のシンボルとして、講堂鉄骨建が真っ先に着手されたが、工事は遅々として進まず、完成に5年を要した。

 
1956年に上野毛校地を購入 。1957年に宮崎台の土地、1958年に野尻湖の土地を購入する。
更に大学設置基準を満たす為に、1960年から4年間に渡って、八王子運動場用地の二万坪を購入する。
私立大学の校地と校舎の面積比率は、国立大学と同等でなければならない。当時の国立大学の校舎は木造2階建が多かった為に、膨大な校地面積が要求された。

八王子運動場のある「鑓水」の地は、湧水の飲料水、燃料の樹木、採取食物が豊富で、縄文の遺跡が多い丘陵である。多摩美は、多摩ニュータウン法が施行される直前に土地を取得し、大場磐雄教授の調査で縄文土器や完全な縄文人骨を発掘した。

 
1961年8月5日、北が逝去すると、軽井沢で療養していた杉浦非水に代わって、村田が理事長職を登記する。しかしながら、村田の独断的な経営は、多くの紛争を生じ、大学は破綻状態となる。


森田曠平


加山又造


山名文夫 図案科教授


斎藤義重
中村研一 小絲源太郎 林武 川端実 宮本三郎 福沢一郎 鈴木誠 伊原宇三郎

美術の新制大学の創設は、1949年に官学の東京芸術大学と私立の女子美術大学、1953年に多摩美術大学、1962年に武蔵野美術大学へと続く。

「校歌」黒田三郎
清らかに 多摩川の流れ はるかに富士の姿をうつし
森陰にふく自由の風 のびゆく若葉の希望をこめて
我ら美しい未来をえがく ああ われらの多摩美大


9) 村田紛争の始まり 環八補償金と理事会の分裂

 
 
1962年環八の拡張工事に伴う訴訟で補償金一億5千万円と騒音補償五千万円を受領。1964年に奈良研究所の土地と富士山麓研究所の土地を購入する。



大橋歩 図案科卒業

和田誠 図案科卒業

和田誠 図案科卒業

幸村真左男 デザイン科卒業
1964年6月14日学友会民青が木馬イーゼル反対運動をおこし、授業放棄となる。
1965年2月19日逸見理事らが「正常化連盟」を発足して村田理事長と対立する。
1966年3月30日第51回国会文教委員会において村田理事長の就任について質疑される。
4月には逸見理事が村田を公文書偽造で訴訟し、翌年には佐々木長次郎を学外理事長に選出するが、1967年9月20日学校内に在った逸見宅に対して東京地裁が立退命令を出す。

10) 全共闘運動


1968年は、世界各地でパリ5月革命などの若者の叛乱が多発した年であった。  
ホール・アース・カタログの発行など、ヒッピー文化が起こる。一方、アポロの月面着陸 映画2001年宇宙の旅の封切など未来技術が注目される。
学内では、概念を表示する画風や、物質を提示する作風が現れ、もの派と言われるようになる。

1968年全共闘運動が隆盛の中、4月1日に東京大学文化人類学教室の初代主任の石田英一郎(戦前の治安維持法適用第一号で男爵を返上)が学長に就任、学生定員500名の総合美術大学を目指す通称「石田ビジョン」を6月14日に発表するが、11月9日石田学長が急逝する。
文化人類学の上に芸術デザインの理論を構築する試みは、次期学長候補の東京大学東洋文化研究所の泉靖一に託されるが、相次いで逝去する。

 
同年5月10日、理事会不和の弱点を突いて、学友会が八王子建設反対運動を起こし、7月7日に授業放棄となる。11月には学友会執行部が民青から社研部に交代、次いで中核派に交代する。

1969年1月14日社研部が本館を封鎖し、次いで、学友会執行部が全学を封鎖するが、28日全学生総会が八王子計画撤回を要求して、村田理事長が計画を白紙撤回すると、学友会執行部が封鎖を解除して、13日に入試を開始し、3月23日卒業式を開催する。
八王子本館は完成したが2年間使用されず「幽霊校舎」と報道された。八王子移転の為に鉄骨プレハブの校舎建築が急がれた。

村田理事長が4月8日に入院手術することを察知した理事評議員の全員が、4月4日に辞表を提出し、教授36名が次期体制への非協力を壁面掲示板で宣言すると、18日神奈川県の多摩芸全共闘が、突然、大学本館を封鎖する。
5月8日に村田理事長が、25才の大学院生を含む、新しい評議員を指名し、6月9日村田理事長が退院する。

 
7月10日全闘委が全学を封鎖し、9月5日反帝学評が駒沢大セクト20名を導入する。
8月7日警察力の大学構内への立ち入りを認めた「臨時措置法」が制定されたのを受けて、新理事会が退去命令を掲示すると、10月2日反帝学評はバリケードを強化して、上野毛校舎は徹底的に破壊される。

 
10月19日新理事会は機動隊を導入して逆封鎖し、12月2日授業を再開する。
この年、全共闘運動のために1年間授業が出来なかった大学は、全国で3校のみであった。国立横浜大学(工学部を除)、大阪市立大学医学部、私立では多摩美術大学である。
環八補償金を貯金していた1億円の10年定期預金は、破壊された上野毛校舎の復旧工事費に支出されて、銀行からは、給与の支払停止を通告された。
1970年1月22日村田理事長は旧教員の殆どを解雇して、新任教員15名を急遽採用、2月27日に真下真一を学長に選出する。


3月9日に入試を実施すると、受験者数が過去最高の2400名に達する、予想外の結果となり、4月15日新教員によって入学式を開催する。

11)  村田紛争の終焉 学長解雇と理事長定年退職

多摩美術大学が1年間の授業停止の後、機動隊導入によって再生し復活すると、1970年4月01日北岡健二(元文部省調査局長)が監事に就任、次いで1971年岡田公平(元文部省大臣官房人事課長)が常務理事に就任する。
 
 
1973年4月1日村田理事長は「文様研究所」開設して、元東京大学東洋文化研究所の江上波夫を次期学長候補とし、再起を図るが、1974年11月20日理事5名が村田理事長に対抗して、「理事長等職務執行停止」を東京地裁に申請する。

1975年入試期間中の2月12日に不正入学に関する匿名の投稿があり、真下学長が提訴され、2日27日には第75回国会の文教委員会で真下学長選考について審議された。

国立大学における文部大臣と学長の二重権力構造が、私立大学における理事長と学長の二重権力構造を生み出す。入試は学長の専権事項であり、理事長は権限の無い部外者であるので、理事長が不正入試を追求されることはない。



同年3月29日村田理事長が退職して会長となり、12年間のおよぶ波乱の理事長任期を修了する。村田理事長は事務局長を兼任していた為に、72才定年が適用された。同時に真下学長が「不正入学事件」を理由に解雇される。村田は同年7月16日に逝去する。

12) 
八王子移転 紛争の終結と20年間の停滞 

 
理事長と学長が空席の中、外部から新たに内藤頼博(名古屋高裁長官定年の2年前に退官、弁護士)が理事長代理および学長代理に着任し、全ての紛争が終結、新採用の理事と教授により、多摩美は八王子に全面移転する。

 
 
八王子校地購入の資金とするために、1989年溝の口校地を売却して「多摩芸術学園」は学生募集を停止し、教職員は美術学部の二部として上野毛校舎に吸収し、さらに「造形表現学部(夜間)」と改名する。
しかしながら、1974年オイルショック以降、多摩ニュータウン事業の停滞により、校地の拡大は不可能となり、プレハブ校舎での授業は20年間の長期に渡った。

 
1994年ニュータウン開発に抵抗するアニメ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」 が封切。

1993年のデッサン入試では、ビニールシートを被せたままの石膏像をモチーフにするという入試実技の改革を行なったが、ほとんどの受験生はビニールシートを無視して石膏像だけを描写するという状態であった。
美術予備校産業の興隆と衰退の中、受験実技に鍛えられた「予備校芸術」とも言うべき、ポップアートが世界の画商市場に発進する。

内藤理事長が突然、任期途中で辞任した為に、常務理事が昇格して残り任期2年間を務める。その後、正規の理事長選出は行われず、任期途中での理事長留任は28年間におよび、88才の高齢で退任する。
村田が北から継承した強烈な個性の美術大学が、村田体制を乗り越えて、新たな体制に進む為には、長い時間を必要とする。


13) 八王子開発と教育改組
   
「仁里爲美」思いやりのあるキャンパスに美は為る 

 
多摩ニュータウン法が廃止されると、早々に八王子キャンパスの建築が再開されるが、1996年8月に秋山邦晴教務部長が急死した為に、退職準備を進めていた高橋史郎が急遽教務部長に起用されて、10年間にわたる学生定員1000名の教育改組を進める。
教育改組のための文部省高等教育局への訪問は46回におよんだ。

情報デザイン学科の申請時には、美術学部での前例が無いという理由で、書類の受理を拒否されたが、急遽、工学部相当の内容に書き換えて受理された。当時、情報デザイン学科の開設は国際的にも稀有であった。
翌年には、芸大に「先端美術学科」、武蔵美に「デザイン情報学科」が開設され、コンピュータ教育やインターネット教育が業界の後押しで誕生する。
1997年インターネット@tamabiの運営が開始。翌年には全学的情報インフラが完成。
1999年「第一回自己点検報告書」を発行。
2002年「工場等規制法」が廃止され、大学の都心回帰が始まる。生涯学習センタ設置。
2003年多摩美術大学初の女性管理職(森下清子教務部長)が就任。
2004年第1回博士号を3名が取得。
2005年東京都と都市基盤整備公団が、ニュータウンの開発を終了すると、土地単価が70万円から30万円に半額し、取得可能な面積が倍増したので、新設学科構想研究会を発足、建築計画を拡大する。
2006年八王子校地のシンボル的な存在の新図書館が完成。芸術人類学研究所を開設する。リクルート社の大学ランキング調査で1位 となり、高橋教務部長は解任される。

 

14) 学生人口の減少と、新たな局面


大学紛争後の「私学振興助成法」に基づく大学運営は、私学助成金に拘束されて、自由活発な美術大学の特徴を失っていく。
従来、水増入学と寄付金による大学運営は、大学の自治とされていた。
1966年の文部事務官による国会答弁では「学生の実数は定員を五割ほどオーバーしている。その学校経理を文部省が直接調査をするということは法律上できない」としいている。

 
大学設立から、30年目にして、多摩美術大学の量的発展は終了する。
2017年「文化芸術基本法」が改正され、行政横割りの芸術文化推進会議が発足する。

2019年4月からは理事長が理事を任命するという、変則任期の理事長改選を廃止して、外部から新理事長(元文化庁長官)が着任し、新たな局面を迎える。


15) あとがき

1976年に筆者が執筆編集した冊子「多摩美術大学 40年の歩み」では、上野毛に開校した「多摩帝國美術学校」以降の沿革を記載した。
今回、本冊子「多摩美術大学 90年の歩み」では、吉祥寺に開校して戦時調停で廃校した「帝国美術院学校」を含む沿革を記載し、来たる2030年の「創立100周年」出版に備える。

参考文献 学生定員の推移 教員の変遷 役員の変遷