多摩美術90年の歩み 高橋史郎 2020年11月1日(創立記念日)

はじめに 私学と官学

19世紀末から20世紀の初頭にかけて,欧米の教育界ではいわゆる新教育運動がさかんになり、日本では大正時代にその影響がおよび始め「大正自由教育」と称される教育運動に発展した。専門学校令
大正の新教育運動を担ったのは私学であった。
1918早稲田実業出身の紀淑雄は「日本美術学校」を創設する。
1921与謝野鉄幹 晶子夫妻らは「文化学院美術部」を創設する。
1921羽仁もと子が高等女学校令によらない学校として「自由学園」を創立する。
1921土田杏村が提案して「自由大学運動」が起こる。
大正デモクラシーの思潮を受けた大正の自由教育は、1923関東大震災の後、昭和の文化政策に移行し、戦争準備に移行する。
参考文献(前書)
1916/08/29「早大学長問題顛末書」早大有志
1923/02/28「クローチェと対話」読売新聞北れい吉
1928/00/00「社会学上より見たる芸術」翻訳北れい吉
1903/00/00「戸籍」簿新潟県佐渡郡稲鯨村村田清太郎 .

参考文献(帝國音楽学校)
1917/00/00「設置」公文書館
1932/00/00「入学式案内」「第一回 帝国音楽学校演奏会」
1933/00/00「帝国音楽学校を解剖」音楽世界(6巻2号)深井史郎
1934/07/25「会員録」
1935/02/19「ビラ」学生会有志
1935/02/00「声明書」職員有志
1935/02/11「声明書」学生会
1935/02/15「創立までの経過報告」在京同窓生

吉祥寺時代 1929-1934( 6年間) 吉祥寺校地の沿革 

1929/10/30哲学者の北れい吉が「帝国美術学校」を開校して校長に就任。金原らが出資して、木下代議士が校主となり、村田芳太郎が北の代理となる。教務を金原省吾 庶務を名取堯 会計を村田芳太郎が担当する・
1932.06/00北が革新的な制度の第二次「帝国音楽学校」を荏原郡世田谷町に開校し、校長に就任する。鈴木鎮一が校長代理となる。
1932/07/30-1933/08/02北が米国欧州を歴訪。


教員一覧 

参考文献(帝国美術学校)
1929/09/02「借地契約書」吉祥寺校地 小美濃文太郎
1929/00/00「設置」公文書館
1929/00/00「第一回教授会名簿」教授会
1930/12/00「学生募集」祖国12月号広告 北れい吉
1932/00/00[学友会名簿]学友会

移転反対運動

1935/03/19帝国美術学校は、懲役猶予を目指して、専門学校の計画を、東横電鉄と契約する。
1935/05/16移転反対運動が起こり、同盟休校となる。
北は学生53名を除籍、103名を停学として、06/27吉祥寺校舎を封鎖する 。
移転反対派と移転賛成派は相互に絶縁状を送付。学生は分散する。学生一覧 
1)繰上げ卒業の学生 90名
2)留学生ら他校へ転校使徒学生 130名
3)帝国美術学校への編入した学生 64名
4)移転反対派に残留した学生 105名
5)シュールリアリズムなど学外作家活動または徴兵して戦死した学生
1942/00/00原告の木下成太郎が死亡、移転反対の裁判は長期化する。
1943/12/20戦時調停和解により帝国美術学校設立者は安田誠一郎とな利、帝國美術大学学校は法制局長官に経営譲渡される。譲渡金の分配は北が70,000円 金原名取が65,000円。
1944/04/10大東亜省の石油技師を養成する「大東亜工学院」として開校式し、生徒9名が編入する。1943/08/26敗戦の勅令により、大東亜省は消滅する。
帝国音楽学校も1932/12/05解雇騒動 12/00日大専門部芸術学園との合併反対運動で内部分裂し、大東亜戦争の戦災により消失する 。

参考文献(移転反対運動)
1935/04/24新聞記事「同盟休校」朝日 読売 東京日々 池田愛子
1935/05/25[木下宛書簡]北れい吉
1935/06/24「同盟休校事情報告」多摩帝国美術学校
1935/06/28写真]校舎釘付封鎖]朝日新聞
1935/06/00冊子「紛争の顛末」多摩帝国美術学校
1935/07/05書簡「木下宛教授団通告書」
0000/00/00教授団宣言 代表井上忻治
0000/00/00今井兼次 
1935/07/09書簡「絶縁状」学生一同
1935/00/00 「帝国美術学校創立事情」金原省吾
1935/00/00「移転反対訴訟」原告:木下成太郎 (弟: 三四彦) 被告:北 れい吉
1934/09/00[金原省吾日記」金原省吾 -1935/12/00

移転反対派の動向

1935/07/04移転反対派が杉並中学で入学式を開催。西洋画 日本画 師範 150名、翌日には図案 彫刻 50名。09/02授業を開始 200名
1935/09/02南隣接地に仮校舎を移築(東京女子高等師範学校の震災復興校舎)
1940/00/00戦時中移転反対派の仮校舎は東京逓信局に賃貸された。

反対派吉祥寺仮校舎は戦後の1947、田中次郎吉に売却されるが、2年後に田中次郎吉が逝去。
田中誠治が相続して「造型美術学園」の事務代行及び校長事務となる。
1951公職追放が解除された丸山鶴吉(元多摩帝国美術学校の後援会長)が、
新設された準学校法人「武蔵野美術館学校」の初代校長となる。
1957/03 有馬次郎(元文部省次官)が学長に就任して学校法人武蔵野美術学校「武蔵野美術短期大学」を設立する。
1958/00/00金原省吾が逝去
1962「武蔵野美術大学」を設置する。
参考文献(南臨地の動向)
1935/09/18 [借地契約書] 南隣地 小美濃文太郎
1924/00/00 「在鮮四年有余半」 丸山鶴吉自伝
1927/00/00 「魂はおどる」 田中次郎吉小説
0000/00/00「学校日誌」武蔵野美術大学史資料集成
1934/00/00 「自伝:50年ところところ」 丸山鶴吉単行本
1963/00/00 [武蔵野美術大学を造った人びと] 高橋陽一単行本

上野毛時代 1935-1974 上野毛校地の沿革

上野毛前期 (11年間)

1935/00/00生徒募集によると、理事長は國澤新兵衛 名誉校長に北 校長に杉浦非水 学監に村田芳太郎。北の代理として村田芳太郎が運営に当たる。
1935/09/06上野毛に「多摩帝国美術学校」が認可され。上野毛の野原で始業式が開催される。
1935/09/26千駄ヶ谷の学苑社で授業開始 編入学生64名  新入学生115名
1935/02/20北が第19回衆議院議員に当選
1936/02/26226事件が勃発、北の兄である北一輝が逮捕 翌年の特設軍法会議で民間人でありながら首謀者として銃殺刑となる。



教員一覧 学生一覧 役員一覧 登場人物
参考文献(多摩帝国美術学校)
1935/03/28「設立申請類」公文書館
1935/09/ 06「多摩帝国美術学生る」
1935 /00/00「設立趣旨書」
1935/09/00「学長挨拶」
1935/09/10「生徒声明書」生徒一同
1935/00/00「1936度 生徒募集要項」職制
1936/00/00「自伝60年」杉浦非水
1936/00/00「自伝」広告界記 載杉浦非水
1937/00/00「1938度入学案内多摩帝国美術学校
1937/00/00「1938度多摩帝国美術学校女子部入学案内」
1937/10/30 「財団法人多摩帝国美術学校設置「公文書館
1936/05/25「デゼグノ 1-10号」 図案会 193912/18 多摩図案会名簿
1939/00/00「多摩美術 第1-4号」TTB -1943/00/00
1935 02/00/「工事随想」工芸美術 1巻2号今井兼治
1935/00/00「東方の光」1981伝記岡田茂吉
1937/03/20「日大芸術科学生募集」東京朝日新聞
1940/00/00「皇紀2600年」単行本大川周明
1944/11/00「多摩美術 学徒出陣」号」TTB 名簿
     

1937徴兵猶予が認可されるが、
1944校舎は海軍電波研究所に徴用され、男子学生は学徒出陣、女子学生は溝ノ口の軍需工場へ学徒動員となる。
米軍の精密爆撃により上野毛校舎は1棟を残して全焼消失する。
左隣の無傷の白い校舎は肢体不自由児施設クリュッペルハイム東星学園(理事長は日本キリスト教婦人矯風会の守屋東)
下の森は、田健次郎男爵邸(現五島美術館)および岡田茂吉の元「大日本観音会」総本部玉川郷(宝山荘)

参考文献(戦災)
1936/03/ 17「不許可通知」兵役猶予 公文書館

溝ノ口時代 ( 7年間)  溝の口校地の沿革 

1946戦後、村田芳太郎らが、溝の口の旧軍需工場を借用して学校工場を運営する。
1946/00/00牧野虎雄が逝去
1947「多摩造形芸術専門学校」を復興する。

参考文献(多摩造形芸術専門学校)1949/03/08「多摩美術 復刊第1号 」 校友会
1945/00/00日記「徒然草紙」牧野虎雄
1946/06/25「帝国憲法改正案」国会会議録北れい吉質疑
1946/07/25「帝国憲法改正案」国会委員会北れい吉質疑
1946/00/00 多摩造形芸術専門学校 設置公文書館
1947/03/01「復興宣言」
1984/00/00 「談話」渡辺素舟


上野毛後期 (22年間) 理事会の自立と大学紛争

1951村田、逸見らが「多摩美術短期大学」を設立する。
1953/09/25「名変更届」村田芳太郎が村田晴彦と改名する。
1953 「多摩美術大学」を設立する。1954「多摩芸術学園」を設立する。
1960/00/00-1964/05/00 八王子運動場二万坪を購入。
1961/08/05北が逝去すると杉浦非水に代わって、02/25村田が理事長職を登記する。
その他校地の沿革 
村田の独断的な経営は、多くの紛争を生じ、大学は破綻状態となる。

参考文献
1951/00/00雑誌記載「政界回顧20年」月刊:日本乃日本人 北れい吉
1952/00/00冊子「猶興」巻頭言 北れい吉

参考文献(多摩美術短期大学
1950/00/00「設置」公文書館
1952/00/00「学生の身分等に関する綴」多摩美術短期大学
1954 04 30『DESEGNO 新しいデザイン』創刊号小谷博貞

参考文献(多摩美術大学
1952/12/00「後援会」会長 北れい吉 
1952/00/00「第16回卒業生住所録」
1952/00/00「設置」公文書館
1954/00/00「祝辞」美術大学新聞井上忻治
1954/00/00 「名簿卒業生」 「職員」多摩美会
1954/11/11「創設から現在に至る思い出」美術大学新聞 村田晴彦
1954/04/30「DESEGNO 新しいデザイン」創刊号小谷博貞
1954/00/00「名簿」多摩美会卒業生 「名簿」職員
1955/00/00「学生募集ポスタ 1955-1962」
1956/01/00[名簿多摩図案会」 「名簿在校生」
1958/00/00「設計図」上野毛講堂佐藤次夫
1960/05/27「多難だった学校設立」美術大学新聞村田晴彦
1963/12/15「北れい吉 追想記」 選挙戦を偲ぶ村田晴彦
1963/00/00多摩美術大学教員名簿 1964年度 募集案内


理事会の分裂 大学紛争 

1962/00/00[訴訟]環八補償 東京地裁
1963/00/00環八セットバック
1964 /06/14学友会が木馬イーゼル反対運動をおこし、翌日、民青が授業放棄
1966/03/30第51回国会文教委員会において村田理事長の就任について質疑
1966/04/00逸見理事が村田を公文書偽造訴訟
1967/09/20東京地裁 逸見宅立退命令
1967/00/00逸見理事が佐々木長次郎を学外理事長に選出

参考文献(理事会の分裂)
1965/06/10「事件の真相」本学の沿革 創立の経過 村田晴彦
1965/09/20「溝ノ口の土地について」村田晴彦
1966/03/30「多摩美術大学」文教委員会 第51回国会議事録
1966/00/00「逸見訴訟」公文書偽造 東京地裁 
1967/00/00「逸見訴訟」登記偽造 東京地裁
1967/00/00ベ平連マーク
1967/00/00「1968年度 学生募集要項」未完
1967/10/18「学生運動に関する建白書」村田晴彦
1967/00/00「校地陳情経過1967-1972」村田晴彦
1969/08/07「大学臨時措置法」法律第70号施行
1969/10/15[第61回文教委員会]国会議事録 岡田孝平参考人

全共闘紛争 大学紛争

1968/04/01石田英一郎学長就任 真下学部長就任
1968/11/09石田学長が急逝 11/16大学葬
1968/00/00針生一郎が教授に就任 
1968/05/10学友会が八王子建設反対運動
1968/05/28大衆団交 07/02大衆団交 07/07授業放棄
1968/11/13学友会執行部が社研部に交代 11/19中核派に交代
1969/01/14学友会社研部が本館棟封鎖(22:00)
1969/01/17学友会執行部が全学封鎖
1969/01/28学生総会 八王子計画撤回を要求、村田理事長が承諾
1969/02/03全学教授会発足 針生一郎議長
1969/02/10学友会執行部が封鎖解除 02/13入試開始 3/23卒業式
1969/04/08村田理事長が入院手術
1969/04/12理事評議員 辞表提出 教授36名が次期体制への非協力宣言
1969/04/18多摩芸全共闘が大学本館を封鎖
1969/05/08新理事会評議員会が発足 06/09村田理事長が退院
1969/07/10全闘委が全学封鎖
1969/09/50反帝学評が駒沢大セクト20名を導入10/02バリケード強化
1969/09/20理事長が退去命令
1969/10/19機動隊導入逆封鎖 12/2授業再開
1970/01/22新任教員15名採用 02/27学長選出
1970/03/09入試実施 受験者数2400名 過去最高
1970/03/19新教員名簿 04/15入学式

参考文献(全共闘紛争)
1968/00/00理事会「1969募集要項」未刊
1968/06/14理事会「総合美術大学構想」通称石田ビジョン
1968/08/00理事会「芸術学科開設」理事会議事録
1968/09 20東京地裁「逸見宅強制執行」東京地裁
1969/01/00理事会「ライオン会開催」高橋史郎手帳
1969/01/00教授会「学外ゼミ」全学教授会
1969/01/25理事会「多摩美術大学の現状」村田晴彦
1969/02/07理事会「筒井解雇」村田晴彦
1969/02/15理事会「訴訟説明」池留三弁護士
1969/04/12教授会「次期体制への非協力宣言」教授36名壁面掲示
1969/05/17教授会「自主講座」全学教授会
1969/06/03教授会「大学立法に反対声明」全学教授会壁面掲示
1969/10/00全共闘「闘争の源泉」全闘委
1969/12/01理事会「紛争の概要」多摩芸術学園
1970/01/22理事会「特別講義科目」
1970/02/01教授会「現状について訴える」全学教授会  pdf
1970/03/19理事会「教員名簿」メモ
1970/04/27理事会「教員昇格」メモ
1970/08/25理事会「紛争の経過ならびにその後の学内問題」多摩美術大学
1970/00/00理事会「破壊記録写真」高橋士郎
1970/00/00理事会高橋満寿男書簡1996-1975
1970/00/00「闘争記」滝田

学長と理事長の分裂 大学紛争

1970/04/01元文部省調査局長の北岡健二が監事に就任
1971 元文部省岡田公平が常務理事に就任。
1971/03/24 正常化連盟が勝訴 04/12弁護団反論
村田理事長が定年退職し、真下学長が解雇される。

参考文献
1971/00/00「多摩美隣接地域の開発」案 高橋史郎
1971/04/11朝日新聞「幽霊校舎」
1971/04/12「高裁上申書」村田晴彦
1971/04/12「敗訴への反論」学校法人弁護団
1971/00/00「針生訴訟」学外教員18名地位保全 東京地裁
1971/01/11「八王子計画」理事会 教授会
1972/02/24「スクールバス運行開始」

1972/03/13「多摩美の企画性」村田晴彦
1972/04/01「隣地払下再申請」村田晴彦
1972/05/28「自然環境陳情」村田晴彦
1973/03/00「全学協力体制」村田晴彦
1973/04/01「デザイン文様研究」所江上波夫
1973/10/20「文化外交についての建白書」村田晴彦
1974/03/00「多摩美術大学の沿革史 思い出の記」村田晴彦
1974/10/03「文化外交 陳情」村田晴彦
1974/10/23「教育システム改善」村田晴彦
1974/00/00「多摩芸術開発協」会村田晴彦

参考文献(学長解雇と5理事)
1974/04/17「岡田宛質問状」村田晴彦
1974/04/26「学長候補選挙」真下学長
1974/04/30「学長選挙の疑問点」村田晴彦
1974/05/25「真下教授会不正開催」井上監事 池監事
1974/06/05「理事長辞任反対」多摩芸術学園
1974/11/20「疑問点への反論」山脇
1974/11/00「団交」書教員組合 奥野健男
1974/11/20「村田辞任勧告」5理事 
1974/12/11「学長候補承認要望」教授会
1974/12/ 26「学長就任 選挙手続 理事長背任」山脇
1974/00/00「5理事訴訟」理事長職務停止東京地裁
1975/01/08「村田の失格確認」5理事
1975/02/12「不正入試」匿名投稿
1975/02/25「真下山脇訴訟」 地位保全 東京地裁
1975/02/25朝日新聞「法定闘争」
1975/02/27「高田訴訟」学長不正入学 東京地裁
1975/02/27「」第75回国会 文教委員会
1975/03/05「不正入学経過山」脇 真下
1976/03/11「不正入学の事実」山脇
1975/04/08「教授会決定の先例 第1回−72回」
1976/00/00「多摩美術大学40年の歩み 1935-1976」江尻 高橋

1976/12/08「特別調査委員会報告書」

八王子時代 1975-2019 紛争の終結と文部行政

八王子前期 (21年間) 空白の20年
外部から内藤頼博(元名古屋高裁長官)が理事長に着任。
新採用の理事と教授により、多摩美は八王子に全面移転する。
しかしながら、多摩ニュータウン事業の停滞により、校舎建設は20年間停滞する。
内藤理事長は任期途中で辞任。その後は変則任期の改選が26年間続く。

参考文献(紛争の終結と文部行政)
1975/07/11 「私学振興助成法」法律第61号施行
1981/10/19「芸術学科開」講東野芳明
1982/04/21「シルパコーン大学と締結」

1983/00/00「多摩美術大学研究紀要」創刊
1986/00/00「臨時定員増加の措置」
1989/00/00美術学部二部

参考文献(八王子校舎)
1856/00/00「古地図」YOKOHAMAフランス軍
188/00/002「古地図」南多摩郡 鑓水村ドイツ式
1999/00/00「幻の相武電車と南津電車」単行本サトウマコト
1980/00/00[呪われたシルクロード]単行本逸見じゅん
2015/00/00「ふるさと鑓水」冊子鑓水歴史研究会
0000/00/00「仲宗寺」単行本
2006/00/00「つくる図書館をつくる」鹿島出版

八王子校地の沿革開発物語 鑓水綺譚 Tama博物誌
アーカイブス tamabi 0.2 芸術村構想 多摩美会構想 tamabi OS


八王子中期 (11年間)   改組と再開発

多摩ニュータウン法が廃止されると、早々に八王子キャンパスの建築を再開する。
高橋教務部長が着任して、定員1000名の教育改組を進める。

参考文献(改組と再開発)
1996/00/00「文部省訪問」高橋史郎日誌
1999/00/00「第一回自己点検報告書」高橋史郎教務部長
2003/00/00「第二回自己点検調査書」森下清子教務部長

八王子後期 12年間の停滞 新たな局面

大学臨時処置法後の私学振興助成法に基づく運営は、自由活発な多摩美の特徴を失う。
理事長の残任改選を廃止して、外部から新理事長が着任。 

参考文献()
1986/00/00「多摩美術大学50年史 草案」高橋史郎
1986/00/00「多摩美術大学50年史 1935-1986」
1991/00/00「武蔵野美術大学60年史 1929-1991」
2008/00/00「武蔵野美術大学のあゆみ 」
2009/00/00「大学基準認定」大学基準協会
2015/00/00「多摩美術大学の60年」

大学定員の推移
教員の変遷
役員の変遷
参考文献

あとがき

筆者は、「多摩帝國美術学校」以降の沿革を記載した冊子「多摩美術大学 40年の歩み 1935-1976」を編集執筆した。
今回、本冊子「多摩美術大学 90年の歩み」では吉祥寺に1930年に開校して1943年の戦時調停で廃校した「帝国美術院学校」を含む1930-2020年の沿革を記載する。