多摩地域は縄文の時代から豊かな風土を擁し、日本の近代化の過程でも自由民権の発祥と展開の地でありました。多摩地域はいわば歴史と文化の宝庫です。
・市民のための八王子の歴史 −樋口 豊治著−
・東京都の歴史 −児玉 幸多監修−
・牧場のおっさんホームページ
・多摩丘陵の遺跡 −東京都埋蔵文化財センター−
私達の住む多摩丘陵は、旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡の宝庫です。今回はそのころの多摩丘陵の様子を見てみましょう。
多摩丘陵の一角に人が住みはじめたのは、南関東では最も古い時期で今から5万年前といわれています。昭和62年稲城市坂浜のNo471−B遺跡から旧石器群が発見されました。これが、最古の多摩人の軌跡です。この時代の人々は、丘陵を移動しながら、動物や木の実をとって暮らしていました。しかし、その後、2万年もの長い期間、遺跡の存在ははっきりしませんでしたが、3万年前になると、再び丘陵上に旧石器人が姿を現します。そして、1万年より以前の旧石器群が、多摩ニュータウンの遺跡では100ヶ所以上も発見されています。
氷河時代でも最も寒冷だった2万年前、旧石器人は、その極寒の気候の中を生き抜き、多摩ニュータウン地域でもこの時代の遺跡が、大栗川流域の河岸段丘やゆるやかな丘陵尾根などに点々と残されています。
1万3千年前、大形動物が姿を消し、旧石器時代も終焉を迎え、縄文草創期に入ります。縄文土器の使用が始まると、食物の煮たきや煮沸ができるようになり、アク抜きや食糧の長期保存が可能になって、人々は定住するようになりました。このころ使われていた初期の縄文土器と局部磨製石斧(刃の部分だけを磨いた石の斧で縄文時代に使われた全面を磨いた磨製石斧の前身)が八王子市越野のNo796遺跡から発掘され、旧石器時代から縄文時代への過渡期の文化を示す貴重な遺跡として注目を浴びています。約6千年前(縄文前期)には、多摩丘陵一帯で落し穴猟がさかんに行われていました。台地下の泥炭層からは植物の化石もたくさん発見され、今とは比べものにならないほど、豊かな森があったことが想像されています。その森が育むウサギやシカ等の動物、たくさんの木の実で思いの外、豊かな生活ができたようです。
多摩丘陵の集落が最も発展したのは、約5千年前からの縄文中期です。八王子市堀之内のNo72遺跡群では環状集落の全容が明らかにされました。この様子を牧場のおっさんこと鈴木亨さんのHPから引用します。
「関東地方でも有数の縄文時代の集落と墓が見つかったのだ。私の家から1kmも離れていないすぐそばで重大発見があった。以前、そこは小さな丘で町会会館の裏手の畑だった所で、大昔、たくさんの人が住んでいたらしい。大栗川流域で寺沢川が合流する所の西に山と川の幸に恵まれた日当たりの良い台地で多摩ニュータウン内では最も大きな縄文中期(5000年前)の村で中央広場の墓こう群(墓)があり、それをとりまくように竪穴住居が200軒も重なって出てきたという。そしてここから発見された縄文土器(祭りに使う仮面やふめがめや水差し)が他よりもたくさん、たくさん出てきた。それは今、多摩センターにある東京都埋蔵文化財センターに保管されている。私も興味があった。センターの人によればこの辺は他から比べると多くの人が住んでいたらしい、多摩丘陵の自然は地形が複雑で色々な植生が育ちやすい自然が豊富な所で最適な古代のニュータウンが形成してたらしい。そして今、この場所は貴重な遺跡を残すために土をかぶせて現状保存し、児童公園になっている。まだそんなに時間はたってないが忘れられつつある。出土した場所は八王子市堀之内でNo72遺跡群です。この集落は12軒の家族が700年続いたと考えられています。」・・・(牧場のおっさんHPから)私も実際にこの台地の上に立ってみました。たしかに豊かな森と大栗川の恵みを存分に受けられる古代のニュータウンとしての条件を備えている場所でした。今でもタヌキなどが棲む多摩丘陵、そのころはどんなに豊かな土地だったのでしょう。
しかし、この多摩丘陵も縄文後期になってくると、遺跡が遠のいて来ます。稲作に適さない土地柄のせいか、弥生時代の遺跡はあまり見られません。