バリ派

ジョグジャ派

バンドン派

ジャカルタ派

43年グループ スリランカにおける最初のモダニストたち
ジャガト・ウィーラシンハ(現代美術家、スリランカ)
スリランカの近代美術運動のはじまりを記す重要な出来事は、1943年の「43年グループ」の結成である。1943年は、1920年代後半から30年代初めにかけて台頭したライオネル・ウェント(Lionel Wendt)、ジョージ・キート(George Keyt)、ジャスティン・ダラニヤガラ(Justin Deraniyagala)、ジェフリー・ビーリング(Geoffrey Beiling)らの作品に始まる一連の運動がひとつの頂点に達した年でもあった。
「43年グループ」は、ロイヤル・アカデミーその他の英国系美術学校に影響を受けて確立されたアカデミック・リアリズムとオリエンタリズムに対抗し、20世紀半ばのスリランカにおいてエコール・ド・パリの表現こそが優れた芸術的嗜好と文化であると唱えた。
彼らは、それなりに革命的であり、当時の植民地支配層が支持し、育成してきた美術の理想的な規範に挑み、それを放棄することになった。スリランカ国内では嘲笑され非難された彼らの活動も、海外では賞賛され尊敬された。
「43年グループ」の作風は、ゴーガン、マティス、ピサロ、ブラック、ピカソら近代美術の巨匠たちの影響を選択的に吸収しながら、1940年代から50年代にかけて活発になった民族自決に向かうスリランカの反植民地闘争の歴史と経験を踏まえて、近代的画像のイディオムを相対化し、それを自らの状況に合わせて再構成、あるいは改革していった様子がうかがわれる。
「43年グループ」の活動は、スリランカ独自の近代美術の確立へと結実したのであった。


反保守主義と批評の必要性について: フィリピンにおける13モダーンズとネオ=リアリスト
パトリック・D.フローレス(フィリピン大学美術学部教授、フィリピン)
フィリピン美術史における「近代」の概念は、アメリカ植民地時代から太平洋戦争にかけて、フィリピン大学を基盤に発達した所謂「保守主義」の支配に対抗する芸術家グループの活動を通して形成された。
モダニズムの分節は、芸術教育、市場、大衆視覚文化など広範囲にわたって影響力を及ぼしていたアカデミーの権威に支持されない、オルタナティヴな表現方法を提唱する試みの中で生まれたとも言える。
フィリピン・アート・ギャラリーの「13モダーンズ(13名の現代人)」と「ネオ=リアリスト(新=写実派)」の作家たちがこの運動の最前線に立ち、論争を巻き起こしながら、知的エリート層やコレクターたちの支持を獲得して、保守派による締め付けを緩和しようと努力した。
本論では、1928年にマニラで行なわれ、転換点となったヴィクトリオ・エダーデス(Victorio Edades)の展覧会と1960年にデイヴィッド・コルテス・メデッラ(David Cortez Medalla)がフランスへ渡った経緯について最初に触れ、モダニズムの歴史とフィリピン美術史におけるアヴァンギャルドの推移について精査する。



批判的精神を考察する:インドネシア・ニュー・アート・ムーブメント1970年代〜80年代 )
リスキー・A.ザエラニ(美術評論家/キュレイター、インドネシア)
1990年代インドネシアの現代美術は、国際的な舞台での露出が顕著になった。日本、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカなどでその作品は紹介されている。インドネシアの現代美術は、インドネシア・ニュー・アート・ムーブメント(GSRB: Gerakan Seni Rupa Baru Indonesia)から発展を遂げてきたとしてみなされている。
インドネシア・ニュー・アート・ムーブメントは主にバンドゥンとジョグジャカルタの美術大学―現在のバンドゥン工科大学美術デザイン学部とインドネシア芸術大学―の若いアーティストたちによって支持され、彼らは美術界だけに留まることなく、政治的、社会的領域へと介入していった。
インドネシア・ニュー・アート・ムーブメントは、1965年以後の「新秩序」政権下で、インドネシア全般にわたる変化に対して意見を提示する若い世代の声を反映していた。当時、インドネシアの「新秩序」は、美術を非政治化へと導いていたが、インドネシア・ニュー・アート・ムーブメントは、それに対する批判的精神を担っていた。
インドネシア・ニュー・アート・ムーブメントの批判的精神は、インドネシア社会の近代化という過程の中核にあるだけではなく、グローバルに活動する現代の都市型社会の複雑な表現の中で育まれた成果でもある。



2つの伝統:モノクローム派と民衆美術
キム・ヨンナ(ソウル国立大学付属美術館館長、韓国)
(※当日は、キム・ヨンナの代理としてモク・スヒョン(直指聖宝博物館キュレイター、韓国)が出席します)
現代美術作家にとって、伝統とは、それを拒否して新しい形態を生み出す対象か、あるいは、それを受け入れて発展させ、継承していくものかのいずれかである。
しかし、アジアの現代美術作家について言えば、伝統と現代美術の関係は常に緊張関係にある。西洋美術の流入により、東洋と西洋を区別しつつ、伝統と現代美術の動向とのバランスをとっていくことが、長年、アジアの作家たちの関心事となっている。
戦後、西洋の美術運動を積極的に取り入れてきた韓国人作家たちは、1970年代になってようやく伝統が自分たちにとってどのような意味を持つのか振り返るようになった。
そして、本質的に韓国の美術だと言える作品を提示することが求められた。しかし、韓国における代表的な現代美術運動である1970年代のモノクローム派が正当だと唱える伝統と1980年代の民衆美術の作家が正当だとするものとは異なるものであった。
モノクローム派の作家と民衆美術の作家は、伝統をそれぞれ異なる視点と理念から解釈するに至った。モノクローム派は、西洋美術との差別化を図るため、韓国のエリート層の理念や精神的側面を受け継ごうとしたのに対して、民衆美術は、現実に抵抗し、批判する手段として伝統を利用することにより、新しい意味を付与しようとした。
両者の間に解釈の違いはあるものの、1970年代と1980年代の異なる社会文化的文脈の中で、それぞれ伝統から新しい形態を作り出し、新たな意味づけすることに成功した。