創設時における上野毛町周辺の状況
昭和十年に開設された本学の発祥地、世田谷区上野毛町や附近の状況などについて述べておこう。
当時の上野毛町には東横の大井町線が終点二子玉川駅まで通ってはいたが、電車は一輛の二十分間隔であった。自由が丘駅は東横が開発に力を入れて、自由が丘、田園調布には有名人に無料で土地を提供して家を建ててもらって町造りをしただけあって、渋谷からここまでの乗降客は、とにかくあったにはあったが、夜間は非常に少なかった。しかし大井町線は自由が丘で客が降りると上野毛まで乗る人は二、三人しかいない。夜は全くの空車か私一人の貸切電車といった形であって、夜は女、子供はとても一人乗りなど心もとなくて乗れないのが実状であった。
ホームはあったが駅がなく、ホームからは丸太の手摺の階段で、切符は電車の中で降りる前に車掌にわたすのである。ところが本学が出来てから、学生は五銭の乗車券を渋谷で買ったきり、その切符をまた渋谷駅で下車のときに改札口に渡して帰るというきせる乗りの手口で往復五銭の乗車賃で通学するという結構な一時代をつくった。東横もあわてて上野毛駅を急造して改札口を設けたものである。
上野毛駅から学校までの間、東側に家が四軒、西側に三軒しかない。残りは全部畑である。学校も畑のど真中で木一本ない。しかし小道を隔てた東側は大きな杉林になっていて、しかも三宿の世田谷野砲聯隊の演習地で、騎馬隊三、四十名が林の中へ入ってかくれると馬も兵隊も見えない。今では全く想像もつかないことである。
現在の玉川電車は二子玉川から溝の口まで延びていて、渋谷までの砂利運搬電車であった。しかも三軒茶屋から玉川までの間は竹薮と畑の連続で、その間に藁屋根が点々とあったものである。三宿を中心に三軒茶屋などは馬具や兵隊さんの乗馬用品のみせ屋ばかりであったのである。
学校の西隣りは小道を隔てて瀬田村で、家一軒もない黄一色の菜種畑である。学校の裏の丘陵地帯は都の風致地区として、百種類以上の野鳥が群れ集る特別地域であった。また丘陵からは兎が時々校庭に出て来ては学生等に捕えられていた。さらに裏の坂道を下れば玉川土提までは一面の桃畑で、桃の木の下は全部が苺畑であり、都内から集団で苺狩りに来たものであって、玉川の桃と苺狩りは東京の名物の一つでもあった。また玉川の鮎は「玉川の鮎を食べないでは江戸ッ子とはいえない」と昔から伝えられていた程有名なものであって、昭和十年頃は鮎釣り、投網、屋形船も名物の一つになっていた。学校に鮎釣会や投網会が出来て、川原で鮎の塩焼きを川水でよく冷えたピールで一杯やったことも今は遠い思い出の一つである。
木一本ない畑の中のストリップの校舎三棟は今井兼次先生設計のしかも片流の瀟洒な校舎は流石に美術学校だと大変評判になったが、学校前の道路は車一台も通らないというような静かな淋しい処であったから、上野毛という地名も多摩美術学校という学校も都内では通用しない。だから夜は円タクは決して上野毛までは行ってはくれない。終戦後でさえ往復の車代千円を出して、漸く乗せてもらったのである。それが戦後数年して学校の裏へ江利チエミ、美空ひばり、淡島千景等が来て、さらに島津貴子さんが来てからは一躍東京の高級住宅地になった。
学校は創立以来年々校舎並びに校地の周辺に銀杏の苗木五、六百本(高円寺の某氏の寄贈によるもの)、欅と槐の苗木五十本(東京都植樹会より寄贈されたもの)、栃木県営林局より買入れた桐の苗木六十本を校地の周辺に植えたのが幸い戦後十年を経たころには全部が大木となって校舎を緑でつつんでくれた。また学校は躑躅三百株(埼玉県安行から移植したもの)を植込んだのが、戦時中から「つつじの学校」という評判をとって周辺から躑躅見物に来るようになった。ところがオリンピックのため環状八号道路計画のために前庭五百坪ばかりが削りとられて、道路面にまたしても校舎はストリップの姿を露呈するはめになった。本学は騒音と公害になやまされる始末となったが、私はすでに昭和三十四年にこのことのあるを予見して八王子に一万坪の校地を求める計画を建てたのである。
一方、昭和三十九年のオリンピック道路計画に伴う本学の前庭削除に対し、公害と騒音防止のため全校舎を二重窓にして完全冷暖房施設にしたいからその経費五千万円を補償して欲しいと都へ申出たのだが、都は「文化施設に対して公害と騒音防止を補償する法規がないから補償することは出来ない」と拒否された。
当時の東京都は法規法令にとらわれて公害と騒音の防止に進んで措置をとれないというので、止むなく東京地方裁判所に三十九年に都を相手とって行政訴訟を提起したのであるが、八年を経過した今日未だに裁判所も東京都もこれに対する結論は出さないのである。
然るに今や人命尊重の立前から、昭和四十七年六月ストックホルムにおいて開催された人間環境を守る国際会議が開催されるまでに発展した現在、私は本学のこの行政訴訟の成行に大きな関心をもっているのである。
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