昭和十三年の記

 昭和十三年四月に東横本社から、地代も利子も払えないようなら学校を東横へ渡せといって来た。学校は財団法人になって、役員は東横に押えられているのである。
 東横が取ると言出せば処置なしといった形になっている。創立四年にして学校を潰ぶされるのはつらい。止むなく五島慶太氏と大学期という、時の大審院判事三宅正太郎氏を訪ねて、多摩美を存続させて貰うように五島さんに話して欲しいと懇請した。三宅さんは、「五島君は事業家だから、ソロバンに合わないことは出来ないといわれるかも知れない。専務の篠原三千郎君も私と期だから、五島君より話し易いので、篠原君に話をしてみよう」といってくれた。やがて東横本社から電話で一寸来いというので、本社へ出向いたところ、黒川開発課長が「ひどい。三宅さんの所にまで行ったんですか。とにかく、三宅さんからの話だから学校はこのままにするが、地代と利子位のことは考えて貰いたい」と強く言われた。
 このとき若し東横の圧力に屈していたら多摩美は廃校となり、東横女子商業学校が上野毛に創設された筈である。
 ほんとうに多摩美の危機であった。
 その後東横本社では現在の等々力に女子の商業学校を創設して翌十四年四月一日に開校したのである。東横百貨店の女子店員を養成することが目的であった。
 ところが、一難去ってまた一難、年九月一日の台風で本校の全校舎三棟の屋根が吹き飛ばされた。豪雨を伴っての台風であったので、屋根のない天井裏は盥然に水が一杯溜って、天井の漆喰は水の重みで落ちそうである。天井の漆喰を棒で突いて水を二階の床に受けたが、水を受け入れるだけの桶もばけつも足りない。全職員が水がい人足となって、雨水を窓から校舎外へ捨てることに懸命あった。その夜は、かけつけてくれた学生達と共に徹夜で、飛散った亜鉛板の見張りをした。
 さてこの復旧をどうするかがまた一苦労だ。とにかく復旧工事は業者の清水組に依頼することにして復旧はしたが工事費がない。しかし災難だからということで、またぞろ東横に頼みこんだところ、案外こんどは、さきの篠原専務が工事費は貸してはどうかと言ってくれたので、五千円の工事費は清水組に支払った。五千円といっても当時の五千円は今の五千万円位の金である。災難とはいえ、多摩美はよくよく恵まれない学校だとつくづく思った。こんなことで、この年はくさり切って年を越した。