昭和十四年の記

 昭和十三年の暮れからくさりきっていた私に、中支那へ行ってくれないかという人があったので、渡りに舟と、十四年の三月限りで学校を去る決心をして、井上さん、牧野さんにその話をしたところ、この上あなたを引止めることも出来ないことだ。戦時色は濃くなるばかりで、学校の将来にも明るい見通しもないから、今年の応募学生数を見た上で皆で考えようということになったので、私も上海行きについて考えながら、誘った人に四月に返事をすることにしていた。何時の間にかこの話が学内に洩れて、村田に不正行為があるので、支那へ逃げ出すそうだという噂が流れた。
 油科学生数名が彫刻科助手児島正典をなぐるといって追い廻しているということを聞いた。私がこの話の真相を訊してみたら、矢張り彫刻科の学生間に流布された噂に、油科の学生達が怒っての行動だとのことである。矢張り学校移転のときのしこりが出て来たなと思って、井上さん、牧野さんにこのことを話したところ牧野さんは「井上、牧野、村田三人は一連托生を誓っているのだから、村田を誹謗することは、井上、牧野を誹謗することになるのだ。許さない」と怒って、この噂を流した者は全部学校を去って貰うというようなことになった。彫刻科の主任教授吉田三郎さんが杉浦非水さんを伴って牧野さんを訪ねて「彫刻科から出た噂だから彫刻科で処置したい」と申出て、助手の児島正典を私のところへわびに来させて辞表を提出させた。これにて一件は落着したが、私自身はかえって、上海へ行くことが出来なくなったのだが、井上、牧野両先生から七、八月の二月だけ上海へ遊びに行って来いということになり、九月には必ず帰るという条件付きで、しかも牧野さんから絵を一枚餞別に貰ったので、何んとも仕方なくなり、上海へ遊びに行くことにした。
 七月十一日から夏期休暇に入ったので、七月十一日東京をたって福岡へ行き、川内親という学生の案内で大分県中津の福沢諭吉先生の生家を見て、耶馬渓に出て一ときを過し、夏の涼をとった。「青の洞門」を見たとき、人間一人の努力と精根が、この難所を切り開いて幾百、幾千の人命を水難から救ったことに驚嘆したが、時に私自身の学校への非力を反省した。当日は日田の盆地に一泊して筑後川の鵜飼を見ながら鮎料理を満喫した。翌日は久留米市へ出て球磨川の鮎料理に食傷して、長崎市に行き一泊して上海行きの船に乗った。
 上海の思出はまことに尽きない。良いことと悪いことが交互にあって、日支事変の敗色はこのとき既に感じられた。上海の郊外は一人歩きは出来ない。日本人は畑の中で耳を削がれ、鼻を削がれて脳天を鈍器で割られて殺されている。上海租界は日本人は入れない。入れば支那人テロに殺される。デパートでは支那語で話さなければ、何にも売ってはくれない。排日が徹底していて女店員は口もきいてはくれないのである。それでも軍人は威張り散らしている。私は背広を着て行ったので、日本の兵隊さんに意地悪されて散々な目にあった。こんな奴等に慰問袋なんか送るのではなかったと思った。私が上海へ行ったと聞いて、徴募課の友森少佐は名刺の紹介状を二十枚ばかり飛行機で送ってくれたが、一枚も使わずに持帰って、友森さんに返した。友森さんは「何故使わなかったのか、佐官待遇で危険な所へ行くときは一個少隊はつけてくれたのに」といわれた。
 私は「使いませんでした。上海辺りの後方の兵隊は余りにひどい。私達日本人でも刀を吊っていないと一旗組と勘ぐってひどい仕打ちです。私は上海の人込みの中で、「非国民、それでも日本人か、とどなられた」といって憤慨をぶちまけたら、友森さんも困ったものだといわれた。
 そのくせ、軍人の真似をしてカーキ色の服を着て、日本刀を吊っている宣撫班と称する人達は大きな支那人の家を占拠してメードを二、三人も使っている。
 アメリカさんが戦後日本人の邸宅を占拠していたのと様である。東京に居れば警視庁に宣撫されていた人達二千人もが、支那へ行って宣撫班になったのだという。人心の安らぎなどある筈がない。大東亜戦争になってからフィリピンに文化人として派遣された三木清さんから、ハガキで「日本の宣撫工作には飽きれたから直ぐ帰る。帰ってからよく話をする」といって来たが、私は上海のときすでに宣撫工作に飽きれはてていたのである。
 重慶から逃亡した汪兆銘を首班とする擬装政権が軍部の手で上海に作られて、上海市政府も出来た。私は支那の要人と市政府で会ったとき、要人達は租界の塩税は全部重慶へ行く。上海市政府には金は何処からも来ない。日本軍はわれわれを傀儡政権として利用だけしているとぼやいていた。
 当時のお巡りさんの給料までもが上海にあった日本人のバクチ場からの揚り金で支払われていたことを知ったが占領政策などは何にもないのだ。やらずぶったぐりが軍の政策と見れば間違いなかった。
 このことを東京へ帰ったとき友森少佐に話をして私への紹介名刺を全部返したのである。
 友森さんは直ぐ飛行機で上海へ行くといっていたが、「支那人は矢張り大国人ですねェ、日本人には真似の出来ない大人の風格がありますねェ」といわれた。私はかつて、天津の或る支那人が「日本人はバクチを知らない民族だから、支那と戦争したら最後には敗ける。日本人はバクチで敗ければ敗けたで女房、娘まで売って賭ける。勝って引く潮時を知らないからバクチの国、支那には勝てない」といったという話をしたら友森さんも「その通りです」と撫然とした。
 上海での思出にはこんなこともあった。或る支那人の青年実業家二人が私と私の友人とを四川料理に招待してくれたのである。四川料理は中華料理では最上のものだとのことであった。しかし、その料亭へ入るのには車を料亭の玄関に横着けにして車から飛び込めといわれ、便所へ行くときも誰れか味方が一人後について行かなければ危険だというのである。それ程日本人に対し、上海は排日のテロが盛んなのであった。
 その料亭で美人十人ばかりが出て来て至れり尽せりのサービスである。支那人は人を遇することは天才的であるから排日的でない所へ行けば日本人志よりも親切である。いい気になって腹一杯御馳走になったとき、更に二人のとても素晴しい美人が現われて、招待者の支那人二人の横にすわった。われわれ日本人の招待客には目もくれない。またしても排日美人かと思った。この二人の美人の出現で先程からの十人ばかりの美人は口もきかなくなった。一体どういうことなのかと支那の人に聞いたら、この二人がほんとうの上海の芸者で、先に来ている人達はステッキガールだという(今のホステスのことだろうと思う)。二人の支那の実業家は日本語がとても上手なので、話すことに不自由はなかったから、色々とたずねたのだが、上海の芸者は主人以外の人には絶対に笑みも見せない、お酌もしない、煙草の火もつけてはくれない、御主人第一主義の東洋的保守の権化であるとのことだ。芸者は銘々屋形を構えて、そこに主人が出向いてお客を招待し、徹夜で麻雀をやって、その夜の収入全部をその屋形にやるのがしきたりだという。これから屋形へ行って麻雀でもやりますかといわれたが、金もないし、麻雀も下手だから辞退した。遂に芸者なる美人とはまともに目を合せる機会もなくそのまま帰った。
 また抗州という所へ行って、一週間ばかり西湖のほとりの支那人旅館に友人達と泊ったのだが、友人達は抗州の郊外の大きな製紙工場の再開準備のために、ここに滞在しているのだという。何んでもここから数十キロ離れている所に工場があるのだが、いまその工場はテロで日本人工員が殺され、工場も大破壊されて、その復旧をしているので、復旧されたら乗り込むのだということである。それまで待機するのだから呑気に遊べといわれた。私は退屈だから毎日西湖へ雑魚釣りに出掛けることにした。ところがじ旅館に日本人夫婦が隣りの部屋に泊っていた。主人は毎日会社へ出掛けると夫人は釣竿をもって私の部屋の前を通って釣に行くのである。当時の美人女優節子によく似て、彼女にも優る美人だ。私も釣竿をもって西湖へ出掛けたら、さきの美人が其処は釣れないから、こちらへ来なさいというので、美人の側へ行って糸を垂れた。雑魚は釣れてもみな湖へかえしてやるのだ。私は釣ることより美人と話している方が楽しかった。その美人は支那語が素晴しく上手で、子供達を相手に流暢な支那語で笑いこけている。私には何にも分らないが、美人が話したり、笑ったりするのを側で見ているだけで十分であったし、一日が楽しかった。私が抗州の町で買った古い腐蝕した金銅仏や銅鐸のことを話したら、一度見せてくれといって、私の部屋に来られて見てくれた。見るなり、これはみな偽物です。こんなものを騙されて買っては駄目です。特に美術学校などへ持ち帰って学生の参考品などにしては大変です。全部捨てて行きなさいといわれてガッカリしたのである。彼女の父は中支へ渡って古美術商をやっていて、彼女も中支で生れたのだから支那のことはよく知っていますというのだ。支那人は千年位い古い仏像に仕立てること位は朝飯前である。いまどき、そんないいものが町に出ていると思うのですかと散々にやっつけられて赤面どころか、かくれてしまいたい思いがした。
 その後、さき程の工場へ出向くといわれて、ピストルを持たされ、トラックに乗せられた。伏せといったら車の中へ横に寝ろというのだ。そんなに危険なのかと聞いたところ、これから行く先は全部危険だからピストルをかまえて離すなという。私は兵隊ではないのになぜ戦争ごっこのような所へ連れて行かれるのか、昨日までの美人との西湖の釣など全くウソのようだ。車は数十キロ走って、とある大きな工場へ入った。支那の兵隊さん一個小隊が鉄砲を持って、工場の要所要所を守っているが、裸で臍を出して整列している有様は、当時どう見ても心許ない限りであった。それでも工場を一巡して、さきに殉職した工員の骨箱を持ってその日のうちにまた抗州へ帰った。それから美人とは釣に行く機会も話しする機会もなく、思出だけが遠い昔のままで残っている。
 一旦上海へ帰った私は、単身南京へ行くことにして駅へ行ったが、難民達が鍋、釜を抱えて駅にならんでいる。日本の兵隊さん達や特に憲兵達は得意そうにカツカツと群集の囲りを示威的に歩いている。しゃくにさわって、つかつかと改札口へ行ったら、「こら」と上等兵に止められて 「非国民、どこへ行くのだ」といわれたが、答える気もしないので、黙っていたら証明書を出せといわれて旅行証明書を出した。「これは預っておく」といって取ってしまった。勝手にしろとばかり、私は無言で南京行きを中止して宿へ帰ろうとした。却ってあわてたさきの兵隊さんは「あなたは東京ではないか。俺は横浜だよ」といった。横浜にもこんな馬鹿がいたのかと思ったが、こんどは「これは返すよ」といって証明書を返してよこした。そしたら別の兵隊さんが汽車が出るから早くといって、私を改札口から無理に引張ってホームまで走って行って汽車に乗せて、車掌にこの人は切符を持っていないからといってくれたので、汽車の中で切符は買った。戦線にあってこんな馬鹿と利巧が居しているんじゃ、日本は敗けると思った。しかも中支の兵隊は点と線の配列で、線の戦列は直ぐ断ち切られて、点点と孤立状態になる。上海、南京間の列車も度々襲撃されたそうで、私が行った直前に沿道両側の楊の並木の大木が伐り倒されて、漸く列車襲撃ゲリラがなくなったのだそうである。しかし北支、中支、南支と戦線が拡張されて支那全土に拡った戦線は想像外であり、この戦争の終結はどうなるのかを憂えていたのに、軍は重慶へまで行こうとしている。重慶では「おいで、おいで」と日本軍を馬鹿にしきっている。中支、南支では人民がゲリラとテロで日本人及び日本軍をなやましている。
 私が抗州行きの途中、小西湖といわれる美しい湖のある小村に立寄ったところ、その町にある日本の三島製紙という製紙会社の話では社員が湖畔に出て夕涼みをしている折、数回にわたって岸辺の楊の下に支那の美人が立って扇子で招くので、その招きに応じて行ったまま帰らないのだときかされた。殺されたのか、重慶へ連れて行かれて日本語放送をさせられているのか。後者ならいいがと皆さんで心配していた。「決して支那美人の招きにはウカツに応じてはいけません」と注意してくれた。ゲリラとテロが街の中でも郊外でも徹底していて、全戦線は排日一色である。こんな民族全体を敵としている戦いに勝てるなどと思っている愚かさに私は腹がたったのである。その上、日本軍の形式的な軍規、軍令の厳正さ、虎の威をかりて威張っている張子の虎のような兵隊さん、私はいや気がさして一日も早く内地に帰って友森さんにこのことを訴えてみたくなったのである。こんなことのために南京では何の思い出も残らず、不愉快のまま上海へ引返して、九月初めに日本へ帰ることにした。併し八月末から豪雨で上海の街は浸水で車も人も通れない。街のいたるところに車が浸水のまま置去りにされている。やがて雨も晴れ、水もひいたので九月の三日に上海を去ることにして乗船した。その晩はよく晴れた月夜で、海上は美しい。一晩を船上で明かし、翌早朝出港と決った。船は当時の豪華船秩父丸であった。船上での月夜の鳴戸のうづ潮といい、瀬戸内海での思い出にはまたまた忘れがたいものがあったのである。上海で乗船して甲板に出たら、知合いの娘さんに会った。色白の美人である。白い大きな帽子に白のワンピース、白い長い手袋と白一色の装いだ。それが夕日に映えて実に美しい娘さんだ。そのまま甲板の長椅子に掛けて話をした。やはり休暇で上海の父母のところへ遊びに来て、いま帰るのだという。朝の二時過ぎまで甲板で話して船室に入った。
 早朝の六時にはボーイが船室へパンとコーヒーを運んでくれた。八時には朝食のドラが鳴って食堂に出るのだ。食堂では戦事食とは似ても似つかない豪華な食卓だ。米はカナダ米だとかで水晶のような美しい米だ。これでは一流のホテル並だと思ったが、外国航路の船は動くホテルだというのだそうだ。
 その晩の月光は昨夜にもまして、冴えて美しい。船は金波、銀波をけたてて東支那海から玄海灘、そして瀬戸の内海へと入ったのである。瀬戸の島々と金波、バックの黒い山影が印象に残っている。
 甲板で終始娘さんと一緒であったから思い出は一層尽きない。その娘さんは戦後間もなく亡くなったそうである。