昭和十五年の記
この年愈々戦時色が濃くなって、物資は欠乏する、軍は軍事教練の強化をせまる。昭和十二年の徴兵猶予の特典をもらって以来、退役陸軍大佐西谷幸吉氏と退役中尉の金子竹松氏を軍事教官に頼んでいたがこの年七月始めて、南軽井沢へ野外演習に出掛けた。私も背広服にカンカン帽子姿で参加した。女子部の学生も教練はしたくないが、軽井沢ならつれて行って欲しいといわれて、一賭に行った。
学生は木銃だから撃っても弾丸(たま)は出ない。私子供のころ日独戦争というものがあって、全国で子供達が日本軍と独逸軍に分れて戦争ごっこをして遊んだことを思い出した。青竹を持って兵隊さんの真似をしたが、学生達は鉄砲の形をしている木銃を持っている。また鋳物のゴボウ剣も腰にぶらさげ、弾丸(たま)入れも二個剣帯についている。退役軍人でも中尉と大佐殿が引率しているのだから、どこから見ても立派な学校の軍事教練の一隊であることには間違いない。しかも教練の動作も、夜間演習も、私達の中学時代の教練よりは立派である。女子部はお菓子やキャラメルを持っての軽い避暑気分のようだ。軽井沢は涼しいので、暑い東京よりは避暑気分もあって悪くはなかった。夜分は夜警に男子学生が廊下を巡るので眠れないから、私に明晩から女子部のとなりへ寝てくれというので、翌晩私は女子部のとなりで寝た。こんどは私の鼾で眠れないといって一晩で無罪放免になった。
こんな、たわいのない教練を終えて帰るとき、軽井沢で点呼をしたら男子学生二名が足りない。
汽車の発車で止むなく駅貞に頼んで全員汽車に乗込んだ。汽車が横川の駅に着いた時、駅員が多摩の先生はいますかという。私はハッと胸騒ぎがしてホームへ降りた。軽井沢から「学生さんに間違いがあったといま知らせが来たからすぐ引返して欲しい」という。私は直ぐ下車した。
寺内銈三君(油画科助手)が私も行きますといって降りてくれた。下り列車はと聞くと六時になるという。まだ五時間近くも待たなければならない。そのまま汽車を見送って駅を出た。自動車で碓氷峠を越して行けば一時間もあれば軽井沢へ行けると思ったので、自動車屋へ行って交渉した。ところが梅雨期のため、出水して、峠は山崩れで車は行けないという。峠まで行けば峠から歩くからとにかく峠まで車を出してくれと頼んだ。
車が走り出して山道にかかると霧が深い。車が進むにつれて霧はますます深くなる。もう霧ではない雲だ。寺内君は何にも口をきかない。「どうした」と開いたら「気持が悪い」といって真青になっている。成程雲の中の車はこわい。右側の路面は士の色も見えない。左側は勿論真暗な雲だ。「運転手さん大丈夫か」と聞いたら、「黙っていて下さい。何にも見えないからただ勘で走っているのです。左側は熊の平駅で千尋の沢になっているのですから危険です」という。これは大変だと思った。間もなく「軽井沢駅」ですという。「どこに軽井沢駅がある」と開いたら「ここですから降りて下さい」というが駅も町も見えない。しかし、車を降りて歩いたら駅へ入った。建物の中へは雲は入らないものと見えて、すべてのものが見える。そういえば、さっき車の中では人も物も見えていた。私は始めて霧や雲は囲いの中には入らないものだということを知ったが、雲の中の暗闇は全くこわかった。駅員に聞いた町の旅館に行って、事故をおこした学生に会った。学生は二人とも無事であったが、興奮はまださめていない。その夜は、寺内君と二人は徹夜で学生を見守った。幸いなことには事故も軽くすんでホッとした。
この年の秋、またしても東横本社は地代と利子を支払えといって来た。払えないのなら学校を止して東横へ渡せというのである。しかもこのときは文部次官通達で、「文科系の学校は、物理化学の授業を追加して、理科系の教育に転換して、生産に協力して欲しい」といって来ていたのである。このことを伝え聞いた学生達は、学校は廃止されるのではないかと騒ぎ出した。そして、この際専門学校にして欲しいといって来た。しかし軍は、文科系の学校を理科系の学校に転換しての専門学校昇格ならともかく、文科系の学校は存続すら許さないというのに、専門学校に昇格などは出来ない相談である。
昭和十二年以来文部省の方針として文科系の専門学校は認可されないことになっていたのである。このことを話しても学生はなかなか納得してくれない。内憂外患ともごもいたるとはこのことである。この時期に現在の武蔵工大は東横へ身売りして武蔵高等工科学校という各種学校から武蔵工業専門学校に昇格したので、こんなことも多摩の学生には刺戟になったことと思う。
多摩美術学校は専門学校昇格問題と東横からの借金が何時も悩みの種であった。 |