昭和十六年の記
いつも東横から学校を渡せといわれるので、何んとか東横から離れたいと思って、色々金策其の他に苦心した。
そのとき、たまたま元豊島師範学校の校長で、東京府教育局長の経歴もある成田千里氏が金を貸すから校長にせよといったので、東横との肩替りの金十七、八万円を出してくれるならといって、校長の交替も承諾した。ところが金は作らない。僅か三万円の銀行預金を見せて、十万円は直ぐ渡すといいながら金が作れない。金を受取らない限りは校長交替の印は押さないといっていたのに、私の旅行中に校長交替の印を押して東京府へ手続をしたのである。そして私の知らない間に校長の辞令が東京府から出ていた。
しかも私の知らない事務長と事務員と称する人達が四、五人学校に来ていたので、私は驚き直ぐ成田氏の自宅に電話をしたところ、成田氏は千葉県茂原の別荘に行っているという。明朝、村田が茂原へ行くということを連絡して欲しいといって電話をきった。翌日私は千葉県茂原の成田氏の別荘へ行った。成田氏は私を家へも上げずに直ぐ別荘の先にある岩間の入江の断崖上の亭(ちん)に案内して話し合った。私は校長辞令届に印を押すことと学生の授業料其の他の収入を押えてしまったことを責めて、学校の通帳を渡すことを交渉した。
彼は当時柔道五段で拳骨は彼の奥の手である。彼が戦後東京都教育長になったとき都の事務職員に拳骨を見舞って新聞種となった有名な男である。私は彼と対峙して「通帳を渡さなければ背任横領になるがどうする」といって、通帳を渡すこと、と校長辞任届に印を押すこと、を確約して東京に帰った。このとき、埼玉県安行から、つつじ三百株を学校に移し植えたのであるが、これは成田氏の校長就任記念という段取りであったが、成田氏の校長就任は僅か一週間ばかりで終った。しかし戦後、つつじは付近の人達が校舎の焼跡から随分失敬してもって行ったのだが、多くのつつじはいまなお校庭に咲き残っている。十五年十月に大政翼賛令が出来て国内の世論を統一、軍事一色に塗りつぶしてしまったのだが、さらに十六年九月には国会も翼賛議員盟を作って、軍部に協力体制をとった。
十月十六日に近衛内閣は総辞職して、十八日に東条英機陸軍大将が内閣を組織して、東条内閣となった。さあ、これからが大変だ。
十二月八日ハワイ真珠湾奇襲攻撃、対米英宣戦布告、大東亜戦争へと突入した。
大東亜共栄圏という勝手なごたくを並べて、国民の耐乏生活「欲しがりません勝つまでは」と国民をだました戦争になってしまった。
支那だけでも持て余していた日本が、米英に宣戦布告して北はキッツ、アスカとアラスカ諸島へ、南はニューギニア、豪州と太平洋全域へ兵隊と軍艦をばらまいての戦争だ。支那大陸での線の戦争の比ではない。まさに気狂いの沙汰だ。 |