昭和十八年の記

 昭和十六年十二月に大東亜戦争に突入した戦局は、米国の反撃により、十七年六月のミッドウェー海戦の敗北以来裏目裏目と出て、ガダルカナル島の撤退となった。十八年四月十八日には連合艦隊司令長官山本五十六大将の戦死、二十日には東条内閣は改造となった。また五月二十九日アッツ島の日本守備隊は全滅となった。七月三十日に女子学徒動員と決定した。
 しかし戦局の悪化につれて軍の圧力はますます増大する。軍事講話を定例的に行えという達がきた。私は一度だけでよいからと友森大佐にお願いしたところ「陸軍報道部の山内大尉に頼みなさい。私だと報道部に文句を言われるよ」といわれたが、無理に友森さんにお願いした。
 友森さんは指揮刀で学校へ来られたので、何故軍刀を吊らないのかときいたら「戦場でもないのにあんな重いものが持てますか」といって笑った。
 講演を始めるときも指揮刀をはずして丸腰だ。そして「こんな話をすると私はいつも報道部から叱られるのだが、ほんとうのことを国民に伝えて、〝戦局は大変なんだから頑張ってくれ〟というべきなのに、事実を枉げて国民に伝えているのはいけない。「必勝の信念」が「不敗の信念」に変った。敵、味方の飛行機の損害数も合わない。こんなことは共に戦っている国民に申訳ないことだ。事実を伝えて国民の奮起をうながすべきだと私は主張するのだが、いつも私は軍本部から叱られるのだ」といって有りのままの戦局について講演してくれた。こんな立派な軍人は殆んどいなかったので、私はいつも敬意を表していたのである。
 しかるに戦後、進駐軍の横浜裁判で友森さんは死刑を宣告されて殺された。こんな文化に深い理解のあった軍人が死刑とはひどい。戦時中威張っていた軍人は戦後みな悪いことは人に転嫁して自分は生残っている。友森さんはその犠牲者の一人だ。空襲が盛んになって学校の構内にも防火用水を二個所堀れという厳達で、学生を動員して大きな防火用水を掘った。その一個所がいまなお構内の池となって校舎の南側に残っていて鯉を飼っている。この用水の水も二十年五月二十四日未明の空襲で校舎全焼の折には何の役にもたたなかったのである。かえって、戦後鯉を飼うのに役立っているとは全く皮肉な話である。
 この五月に昭和医専(現昭和医大)の校長上条秀介さんから二十万円の借金をして東横本社との縁を断ち切ることにしたのである。昭和医専も理事の大半と評議員全部は昭和医専から出すといわれたが、東横のような事業家でもなく、学校なら話はわかるからよかろうということで、上条さんから金を借りることにしたのである。
 東横本社へは地代と利子及び元金共に耳を揃えて全額支払った。この時限り東横との縁は切れたのである。またこのときに学校の負債、例えば牧野さんの画の代金や今井先生の戦前の校舎の設計費なども精算してお支払いしたのである。だから借金は昭和医専一本になってしまった訳である。
 併し学校法人の形は依然として他様(ひとさま)のものであったが、さりとて本学の教職員が俺のものだなどと威張った口はきけないのである。ときによると、卒業生や先生達の中には、しかも帝美から分れてきた昭和十年頃の先生や学生が、われわれが苦心して建てた学校だといっているようだが、ピタ一文の金も、何等の協力もしなかった建設などはあり得ないのであることをここに断っておく。
 殊に郷倉千靱、佐々木大樹、逸見梅栄、児島正典氏等のために是非ともこのことを特記しておきたい。
 この七月の軍事教練の際、軍部から木銃による教練では軍事教練にはならない。撃つ練習が大切なのだから弾丸(たま)の出る鉄砲を使えといわれた。しかしいま時弾丸(たま)の出る鉄砲など買えるわけがない。軍へ行って払下げてくれといっても、軍も払下げるものなど一挺もないというのである。止むなく昭和医専の上条さんに昭和医専の鉄砲を借りることにした。また陸軍省へ行って軍事教練用として弾丸(たま)三百発を払下げて欲しいと申出たが、過去の実績がないから弾丸(たま)は出せないといわれた。またまた友森さんの所へ行って、始めての練習なんだから是非弾丸(たま)を出すように配慮してもらいたいと頼んで、三百発の弾丸の払下げに成功した。この年、始めて撃てる鉄砲で軍事教練を実施したが、幸か不幸かこの年限り軍事教練はする必要がなくなったのである。
 即ち学徒出陣のことが決って、学生は全部十二月一日に入隊することになったのである。
 内閣に校舎転用協議会なるものが出来て、学生が入隊すると学校が空になるので、軍では陸、海軍競争で校舎を利用することに狂奔したのである。
 十月の或る日、陸軍大尉さんがオートバイで兵隊を連れて学校へ現われ、「責任者はいるか。こんど軍がこの校舎を使うことになったのだから学校内を案内してくれ」と威嚇的ないい振りであった。
 私は「いつそんなことになったのですか。文部省からの知らせもないのに軍が勝手に使用出来るのですか。しかも学徒動員に際し、国では諸君は出征しても戦争が終れば直ちにもとの学校に帰って勉強が出来るように学校はそのままにしておくから安心して出陣するように宣言したのではありませんか。その舌の根の乾かないうちに校舎を勝手に使っては出陣学徒に対する約束に反するではありませんか。学生をだまして出陣させるのですか」と問い質した。
 大尉さんは何にも答えられない。「とにかく校舎を見せて欲しい。青図があればそれでもよい」といったが「青図はありません。いま授業中だから校舎は外から見て廻って欲しい。それからこれだけは言っておきますが、実は出陣学生達に、繰上げ卒業にしてやるから、何時卒業式をやろうかといったところ、〝私達は死んで帰ります。卒業証書なんかいりません。若し繰上げ卒業にするなら卒業証書は親父の所へ送ってやって下さい〝といったので、よし行ってこいといって卒業式はやらないことにして、壮行会をしたのです。それにも不拘出陣する前に彼等学生の学び家を勝手に召し上げるなど皇軍のすることですか」とその場で抗議した。大尉どのはおこりもせず引き揚げた。
 このことについて、北さんが十月の臨時国会で時の陸相奈良大将に質問したので、陸相は「申訳ない。今後軍として十分注意をするように通達したい」と卒直に答弁されたらしい。
 また学徒出陣と時に学徒動員会も出て、兵隊に行かない男子学生と女子学生は工場へ動員されることになったので、是非本校の学生は一ヶ所へ集団動員するようにと懇請して、男子は溝の口の軍需工場日本光学へ、女子は全員中目黒の海軍技術研究所へ通えるようにしてもらった。かくて、学徒出陣で学生は夫々郷里へ帰って、十二月一日に入隊したのである。
 実は昭和十八年五月のことになるが或る日、本校西洋画科三年に在学中の張君の下宿の小母さんが来て「今朝張さんが警視庁の刑事さん二人に連られて行きました。そのとき便所に行きたいといって、私の側へ来て、このことを学校の村田さんに伝えてくれといって行きましたので参りました」といって帰った。
 その後朝鮮から張君の妻君だという人から手紙で「主人張はそんな人ではないのに、友達の中に朝鮮独立運動に参加している人がいるため、警察へ連れて行かれたのですから、村田先生から朝鮮浦項の警察署長に手紙で、主人はそんな人ではないことを証明して欲しい」といって来た。
 私は「七月に満州への旅行を予定しているので、その時浦項の警察へ寄って署長に話してみる」といって妻君に返事を出した。
 七月中旬私は下関から関釜連絡船に乗った。その時は敗戦色濃厚のため、関釜連絡船では甲板に出ることは許されないのみならず、夜も昼も船内に閉じ込められて、窓という窓は全部遮蔽されて、船体は全くの目かくしで航行させられ、而かも何時機雷のお見舞を受けるかも知れないという危険状態におかれていた。それでも一歩釜山につくと割合平静であったが、戦闘帽にゲートルは巻けといわれたので、釜山で戦闘帽を買い、ゲートルを持っていなかったので、紐で膝の下と足首をしぼって、ゲートル代りにした。
 釜山から裏朝鮮廻りのローカル線に乗込んで浦項に向った。汽車とは名ばかりで、誠にお粗末なもので、昔の客馬車にも等しく、長椅子を敷並べて二等車などはなく日本人も朝鮮人も全くの一視平等の結構な扱いであった。但し朝鮮の白衣の婦人達は薄汚れた上衣に子供を抱いて、子供の用便は座席のすぐ側ですまさせ、白衣の裾で子供の尻を拭っていた。無数の蠅が婦人の白衣にも、子供の糞尿にも群がっていた。今の韓国では想像もつかないような情景であった。私は浦項の警察へ行って、夕方から夜の九時頃まで署長に会って、張君の人柄や就学状況を縷々説明して、彼が朝鮮独立運動には絶対参加するような人物でないことを力説したが、なかなか釈放するということは言わなかった。それで私は本人に面会だけさせて欲しいと懇請したが、面会も許してはもらえなかった。しかし後できくと私が浦項警察署長に会って以来、留置中の張君の待遇は一変して、非常に寛大になったとのことであった。止むなく、仏国寺へ行きたいと思って汽車の時間を聞いたが、もう汽車がないというので、その晩は駅の待合室のベンチの上で一泊することにした。私が浦項の警察を出て以来二人の刑事らしい人が私を尾行した。
 翌日、私は仏国寺に向い、仏国寺で一泊したが、旅館は日本人の旅館で、実に立派で前面は見渡す限りの青田の広大な眺望である。食事も内地の旅館と少しも変らず、湯上りに酒も出て全く昨晩の憂さが飛んでしまった。大きな部屋に浅黄の蚊帳の中で一泊した気分は実にすがすがしかった。しかし隣室で男女のヒソヒソ話を耳にして、なかなか寝につくことは出来ない。泣いているのか、すかされているのか、それもよくわからないうちに私は眠りについたらしい。翌朝隣室のお客が現われて「昨晩はうるさかったことでしょう。実はここに居るのは私の娘で、役人と結婚して夫婦で朝鮮に勤めているのですが、私はこの仏国寺が好きなので毎年ここへ来るのです。私は岡山の医大の教授をしている者です」と云って名刺を出された。私はホッと安堵した。
 私は旅館をたって直ちに仏国寺へ行った。寺には形のいい石燈龍が一基あったが、それには次のような立札があった。
「この燈籠は永い間日本に行っていたのを長尾欽哉氏が仏国寺へ寄贈されて今日ここに返って来たものである」と書いてあった。
 寺を一巡して山稜の石仏のある洞窟へ向った。洞窟に至る山路からは渺茫たる日本海が一望の間に拡がっている。
 洞窟内の石仏は東洋三大石仏の一つであるだけに実に雄大な坐像で、鎌倉の大仏位の大きさである。天蓋は大きな円形で周囲の数枚の大きな大理石と共にドームを造っている。しかも何の技巧もなく力学的な力の平均だけで支えられている。さらに両側に対峙している幅六尺、高さ九尺の大理石の五百羅漢の浮彫彫刻が羅列している偉容さは驚嘆の余りであった。そこから新羅文化の石彫の都、慶州の街に出て、さらに平壌に向った。
 平壌では妓さん学校を見学して、その晩は平壌の料亭で数名の妓さんの歌と太鼓で一夕の歓を過したが、朝鮮料理の辛らさにはついに一箸も手がつかず、空腹のまま料亭を出た。
翌日平壌から満州行きの列車に乗って、奉天に向った。奉天では北陵廟や奉天の市内を洋車(やんちょう)に乗って見学して廻ったが、日本が建てた忠霊碑の前を通るときは、私達日本人は必ず戦闘帽を脱いで車の上から忠霊碑に向って一礼するのだが、洋車を曳いている満人は必ず反対側の路面にペッと唾を吐いた。
 また公園の入口では十四、五才の子供が空腹の余り罐詰の空罐を片手に、あおむけに倒れて、死の刹那的な表情で手足をビクビク動かしている悲惨な光景も見た。私を案内していた友人に「どうしてこんな難民を収容して救済しないのだ」と聞いたところ「イヤ、毎日大人も子供も数多くの人達が死んで行くのです」と答えた。
 東洋民族の為の聖戦である筈の戦さも戦争の裏で非戦闘員の満人が飢えて死んで行く有様を目のあたり見せられたのでは、何んともやりきれなかった。
 満州に渡ってからは毎日ニューギニア諸島の敗戦の状況が内地に居る時よりも、もっと明確にキャッチすることが出来た。また満州に居る日本人の女子供達は、夜間は絶対外出を禁じられているという状態であった。これが十八年の八月当時のことであるから、十二月の学徒出陣、学徒動員、竹槍訓練、バケツリレー等々と思い合せると、「必勝の信念」が「不敗の信念」に変わったことなど、敗戦の様相がはっきり見えていた。
 私は奉天から新京を経てハルピンに行った。
 ハルピンでは日本人の美人との相乗りの馬車で、天安門や白系ロシア人の墓地を案内してもらったが、墓地の立派さには一驚した。案内してくれた人は素敵な美人ではあったが、当時戦時中のためか、髪の匂いが鼻をついてやりきれなかった。これも遠い思い出の一つであった。
 またソ連との境の松花江で夕涼みをしたが寒かった。なる程ロシア人は皆オーバーを着ていた。
 さきの新京では街の中心部に満州国皇帝の皇居があった。擂鉢形の窪地の中で、平地から俯瞰することの出来る如何にも日本軍の監視下に置かれている満州国皇帝というにふさわしい情景であった。

 
友森大佐  
山内大尉 陸軍報道部
上条秀介  
牧野  
今井  
郷倉千靱  
佐々木大樹  
逸見梅栄  
児島正典  
 
奈良大将 陸相
本校西洋画科三年