資料3-1

杉浦非水研究

 

美術と文学の先端を行く杉浦夫婦―モガ・モボ時代の寵児―

歴史ある大学には、その大学の顔があります。慶応義塾大学の福沢諭吉、早稲田大学の大隈重信、東京芸術大学の岡倉天心などはよく知られていますが、多摩美術大学の場合には、その前身である多摩帝国美術学校の初代校長であった杉浦非水が有名です。

杉浦非水と言えば日本モダンデザインの先駆者、芸術院恩賜賞を受けた日本謇ニ、三越をイメージアップしたアールヌーボーの天才的デザイナー、そして多摩美術大学の創始者のひとりである教育者というイメージが今日一般的である。

しかし杉浦非水というイメージの中には、そういうえらい立派な硬いイメージだけではなく、何となく軟らかい、ロマンティックな、と言うより文学的イメージがかさなっている。非水というと円本と呼ばれた昭和初期の最初の文学全集改造社版「現代日本文学全集」のアールヌーボー的な瀟洒な装幀、女流歌人与謝野晶子の『夢之華』の華やかな造本作家という文学的雰囲気が浮かんで来る。

事実、正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐などを輩出している俳句王国の松山市の生れであるため、俳句の教養は幼い頃から身について居り、翡翠郎という俳号で俳句をつくり、1905年東京中央新聞入社に際し非水と改めるまでこの号を用いていた。
また与謝野晶子の激烈な歌集『みだれ髪』が出版されるや、藤島武二のアールヌーボー風の表紙にも刺激されて、「みだれ髪カルタ」をつくるなど、非水には詩的精神が濃厚に漂っていた。

それ故に後の閏秀歌人、杉浦翠子に熱烈に愛された。
非水も松山出身の友人で隣に住む出渕豊保の義妹にあたる18歳ながらはやくもただならぬ詩才をただよわす激しい美少女翠子に心奪われたのである。
翠子は万国博のデザインや印刷に忙しい非水をその任地大阪に度々訪ね、事実上の夫婦になる。
そして1904年、出渕豊保の立会で結婚した。非水28歳、翠子18歳であった。

翠子の歌人としての生涯と評価を、「日本近代文学事典」(講談社版)から転載しよう。
杉浦翠子 すぎうら すいこ(1885〜1960)明治18年5月3日〜昭和35年2月16日
歌人。埼玉県川越の生れ。本名翠。女子美術、国語伝習所などに学ぶ。図案画家非水の妻。大正4年北原白秋に入門したが、翌年「アララギ」に転じ、斉藤茂吉、ついで古泉千樫についた。12年、赤彦門下との確執から白秋系の歌誌「香蘭」に移ったが、昭和8年「短歌至上主義」を創刊。歌集に『寒紅集』『藤浪』『みどりの眉』『浅間の表情』『生命の波動』、歌論を加えた『朝の呼吸』)、小説『かなしき歌人の群』などがある。「アララギ」の女流として情感にとんだ歌を詠んだが、のち、主知的で硬質な作風へと転じた。「寝ねがての肌に残

ついでに同じ文学事典の中の非水の項を紹介しよう。
杉浦非水 すぎうら ひすい(1876〜1965) 明治9年5月15日〜昭和40年8月18日
商業美術家。愛媛県生れ。本名朝武。明治34年東京美術学校(現・東京芸大)日本画科卒。ヨーロッパ遊学(大正11年〜13年)を終えて大正14年にポスター研究団体七人社を結成するなど、初期商業デザイン界に指導的な役割をはたした。昭和10年より多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)校長となる。与謝野晶子『夢之華』、田山花袋『髪』、最初の円本の改造社版『現代日本文学全集』などの装幀のほか、『非水百花譜』20集(昭和4年〜9年春陽堂)などの著書も多い。画家、デザイナーでありながら「文学事典」に登場するほど非水は文学者的存在として認められていたのだ。

さて杉浦翠子は文学事典の短い項目から大きくはみ出す存在であった。
賛否両論にわかれてはいるが、派手で目立つ、気の強い女傑的存在であることは衆目の一致するところだった。
本名は翠、埼玉県川越市に1885年に岩崎紀一、サダの三女として生まれるが、1887年に父、1888年に母が死去し、祖母ミキに育てられるが祖母も死に、姉てるの嫁ぎ先、赤坂の出渕豊保方に身を寄せる。次兄の桃介は福沢諭吉の養子となり、実業家、粋人として名をはせる。
その金持の兄桃介の物質主義に反抗し、貧しくとも精神的詩的に生きようとして、非水と恋愛結婚する。
この頃の歌は情熱的で非水に身も心も捧げ、夢中である。白秋に影響されながら、子規の流れを引く「アララギ」に入り、斎藤茂吉、ついで古泉千樫に弟子入りし、歌作に没頭する。
この時代女性が自分の恋や理想や反逆の想いを思い切り発表できるのは短歌であった。
与謝野晶子以後、女流歌人の作品にははっとさせられる大胆な表現が多い。
その中でも杉浦翠子の作品はもっとも情熱的でありながら、一面いやらしいナルシシズムはなく清潔であり、目立った。

その頃、杉浦非水は黒田清輝、あるいは早く家出した父の影響もあり、西洋のアールヌーボーのデザイン、装飾画に目をつけて、万博に情熱を注いだ後三越に入社してから、人々をあっと驚かすデザイン、広告を数多く発表した。〈今日は帝劇、明日は三越〉と有閑夫人の心をとらえ踊らせた。
その美しい女性のモデルは翠子と思われた。銀ブラし、しゃれたレストラン、カフェなどでコーヒーやカクテルをたのしむ。

この非水翠子という新デザイナーと新歌人のカップルは婦唱夫随か夫唱婦随の典型的なモガ・モボつまりモダンガール、モダンボーイとポスターからの連想もあり、もてはやされ、人々の憧れの的になった。
そして不思議なことに二人の精神の波長は常に一致しおたがいの新しい冒険を強めあった。
ただ喧嘩ぱやいのは翠子であり、非水は温厚で包擁力があった。

自己主張が強くわが道を行く翠子は「アララギ」の主流の島木赤彦一派から排斥され、悩んだ末、歯に衣を着せぬ鋭い反論を書いてアララギを脱退し、白秋系の歌誌「香蘭」に移る。次第に花鳥風月でなく、社会状況全体を歌おうとしてひとりで「短歌至上主義」を発表、非水の装幀で烈しい論陣を張り、硬質の短歌を発表する。
多摩美大の創始者北玲吉の兄、「国家改造法案」の北一輝の影響もあり、多くの自由主義者の左傾と異なり右傾して行く。
そういう思想的限界があり、戦争中の活躍は停滞している。

戦後、翠子の歌も立直り、新しい境地に達し、「日の黒点」「生命の波動」「一百光年集」などの詩集を書き、非水と共に詩画展を2、3回行い、また非水の仕事は芸術院恩賜賞はじめ大展覧会も行われ、その先駆的意義が評価されるようになった。

そして翠子は1960年75歳で、非水は1965年89歳でと続くように大往生を遂げた。
非水は翠子と共に生きることによって広く深い人生を送った。それは多摩美大の校風に受け継がれている。
ついで付け加えれば太宰治の小説「皮膚と心」には資生堂化粧品の有名なつるばらの文様を描いた貧しく実直な主人公が出てくるが、これは山名文夫夫妻をモデルにしたと思われる。そういう面から多摩美のデザインは文学と関係が深い。

(杉浦非水研究会)