戦時中に文部省は直轄研究所として資源科学研究所(16年)、電波物理研究所(17年)、民族研究所(18年)、統計数理研究所(19年)を設置した。これらの研究所は、必ずしも戦力増強を直接の目的としたものではなかったが、わが国の海外進出を背景としたり、あるいは科学戦といわれた情勢下に特に必要性の高い特定の専門分野の研究を促進することを目的として設立したものである。

1944/12 - 1945/11 電波物理研究所 上野毛

休講中の多摩美術学校を、海軍省画徴用して、電波物理研究所に貸与される。
観測実施は1945/1/1-1945/11 インパルス方式 手動
1945/5/24夜−25朝 米軍の夜間空襲で2/(事務室 研究部機材 対流圏関係研究室)が焼失。
(電離層観測室 電離層データ整理室は焼け残る)6/25より電離層の提示観測を再開。

[太平洋戦争 レーダー開発史] [海軍レーダー徒然草]

[電離層観測業務の変遷 小泉徳次]

揺藍期(戦中~昭和21年)
 戦雲急をつげた昭和17年4月に文部省電波物理研 究所が設立された。以前は陸軍・海軍・逓信の3省 が独自に実施していた電離層観測が電波物理研究所 に一本化された。しかし、戦時体制下電離層観測の 主目的は軍事的な短波回線の効率的運用であった。 そのため海外での観測地点が多く、北の幌筵(50.1° N)から西のパレンバン(2.6°S)に及ぶ29地点から なる観測網が計画された。この時代の成果として電 波予報曲線、赤道地方における短波伝搬特性曲線、 F層臨界周波数(f0F2)の緯度・経度特性、日食時 の特別観測結果などの文献が現存している。国内に おいては昭和18年8月より定常観測を開始し、昭和 20年5月まで1時間おきの24時間観測を実施した (国分寺から世田谷の上野毛に移転したが空襲で被災 中止)。終戦後は昭和20年10月から上野毛で、その後 12月末に国分寺に移転し電離層観測を再開した。こ れはGHQ(連合軍総司令部)のベーレー少佐と電波 物理研究所による折衝で日本政府に手渡された覚書 “日本における電離層観測と研究に関する件”に基づ くものであった。この覚書により稚内、深浦、新発 田と山川観測所が昭和21年に設立され、間もなく定 常観測を開始した。

[南極観測の想い出 大瀬正美]
昭和19年には,電波物理研究所職員の中で現役入隊す る青年が14名いた。その中で私は一番早く9月に入隊し た。幸い内地の教育隊に残ったので終戦後,昭和20年10 月に復員して復職した。その頃の電波物理研究所は上野毛の多摩美術学校内にあったが,戦災でほとんど焼失し ていた。
私は1943年9月に当時の電波物理研究所に入所し,1944年3月にラバウルに行くことになっていました。ところが,その頃になりますと,戦局が不利になり,潜水艦で殆どの商船がやられてしまったわけです。ですから,南方に行くのを結局中断せざるを得なかったわけです。それで私は命拾いをしたわけですが,それから現役入隊をして最後は広島にいましたが,ちょうど原爆が落ちる前に広島を出て,このときも命拾いをしました。そして,復員して帰ってきたときには,電波物理研究所は上野毛の多摩美術学校を借りていたのですが,1944 年3月には空襲でほとんど焼けてしまって何もなかったわけです。

[戦時中レーダーの研究開発]
日本では陸軍と海軍が別個にレーダーを開発していた。
陸軍は機構改変に伴って、最初は陸軍科学研究所、1941年に第9陸軍技術研究所(登戸研究所)、1943年に多摩陸軍技術研究所が担当しました。
ただし陸軍の場合は軍の研究部門が研究開発するというより、民間のメーカーにお任せの部分が大きく、実際に研究開発を行ったのは東芝(東京芝浦電気)やNEC(当時の名前は住友通信工業)です。
海軍は海軍技術研究所が研究開発を実際に行いました。
生産はやっぱり東芝やNECです。
多摩陸軍技術研究所は今の東京学芸大学の場所にあったようです。
東京学芸大学は現在、小金井市と国分寺市・小平市のちょうど真ん中にありまして、いわゆる三多摩のうちのひとつ、北多摩に位置します。北多摩~南多摩は第二次世界大戦前、陸軍の施設が多く、なかでも中心となるのが「多摩陸軍技術研究所」でして、学芸大はそのうち6つの研究所の跡地を利用して建設されました。そのため大学には全く関係のない、当時の施設が未だそのまま取り壊されることもなく残っています…。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~a-uchi/haibutu/index3r.html