1927 月刊ポスター研究雑誌「アフィッシュ」7月創 刊
杉浦非水が主宰する「七人社」のポスター 研究雑誌
発行兼編集人は岸秀雄 顧問:杉浦非水 松宮三郎(三越呉服店広告部長)渡辺素舟(工芸批評家)
1926年第一回ポスター展「七人社」4月 三越本店
同人:新井泉 原万助 神谷駒雄 岸秀雄 小池巌 久保吉朗 三好唯夫 野村昇 須山浩 筒井定夫


北原鐵雄 出版社アルスを設立
北原白秋の弟(三男)
戦時中、アトリヱ社(四男の北原義雄)と合併

1930「商業美術月報」刊行
濱田増治 多田北烏

1931「造形美育」創刊号
石野隆、[濱田増治][一氏義良]
造形美育協会の誕生
言-綱領
スローガン-当面のサービス
日本的生活美術教育
私の図画教育(東京女学館・廣島千代子)
世界美術教育レビュー
尋五の児童に立体構成を指導して(児童の村小学校・石野隆)
モスコーに在る現代フランス美術 他
当誌発行に関わりながら創立披露前日に『学校美術』
編集主任へと転じた霜田静志に対する糾弾文書
「東京美術学校卒業制作展 水谷(武彦)氏指導」による
「住宅群家族住宅一単位」と「金属チウブの家具」
「ああなぜ語らねばならぬ!? 学校美術と造形美育とに就ての私の表明 石野隆」

1932 映画技術と映画芸術
エリック・エリオット 岸松雄訳往来社
四六判150P
表現の機具としてのカメラ
「動き」の価値
コンティニュイティーの原理
立体映画について


ドイツ工作連盟に刺激されて,1926年に結成 宮下孝男,六角紫水
1935「帝国工芸 第10巻第1号」
帝国工芸会 富本憲吉 山川岩雄
巻頭特集
スピード要求の先鋭化と新しき美の形式
東京三越・新設計室内装飾展観評
富本憲吉氏新作陶磁展
新しいラヂオセツト
マネキン人形について(山川)
機械工芸美化と計器類
図版中央は
巻頭特集のトップページ 豪華客船、大型旅客機など
図版右は
新設計室内装飾展観評より


[PENROSE 1934]
1936 商業広告図案大集成 [辻克己己] 編浩文社
B5・320P 資生堂
明治等著名企業で実際に使われている広告デザインを集めた図案集
化粧品
薬品
食料品
三十行と小広告
百貨店・器械・其他
文具・書籍・映画
広告写真と欧米広告集
1936 カット輯 (花形見本)
細川活版所細川活版所
18×19.5cm・24P 表紙厚紙
東京・銀座の細川活版所による活版印刷用カットの既製品の見本帖
サイズ、モチーフ(人、動物、風景、飾り等)別に約400図
センター見開のみフルカラーによる書籍商品の図版
1936 多摩帝国美術学校図案科会の機関紙

 

デザイン名称の変遷

  創設 大学 デザイン
図案 1896東京美術学校図案科 1949東京芸術大学図案科 1975デザイン科
構成 1886高等師範学校
1902東京高等師範学校
1929東京文理科大学
1949東京教育大学教育学部構成
   高橋正人

1967工芸工業デザイン
    明石一男
1973筑波大学

意匠 1922東京高等工芸学校 1949千葉大学工芸学部
1951工学部工業意匠学科
    小池新二

工学部デザイン工学科
    (意匠系)
1934多摩帝国美術学校図案科
「デゼグノ」創刊
1953多摩美術大学図案科 1963デザイン科
1998改組
設計     中央美術学院設計学院

 本学が研究雑誌「デゼグノ」1号を創刊したのは、本学が創立された1年後の1936年のことで、1939年までに10号が出版されました。
 日本における最初のデザイン研究誌「デゼグノ」は国際共通語エスペラント語による命名です。デザインのことを、東京美術学校(現東京芸術大学)が「図案」、高等師範学校(現筑波大学)が「構成」、東京高等工芸学校(現千葉大学)が「意匠」と称していた昭和の初期に、多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)は「デゼグノ」を創刊したのです。
 1939年には第一次世界大戦が勃発し「多摩美術」1号の創刊となりましたが、敗戦の1944年「学徒出陣記念特別号」まで5册を発行し、廃刊となりました。戦後の1949年「多摩美術」復刊1号を試みましたが、その後、研究誌の発行は途絶えてしまいました。
 1968年に文化人類学の石田英一郎先生が学長に就任されますと、本学の「総合美術大学構想」が発表され、八王子ニュータウンへの全学移転と文様研究所の設立が計画されましたが、石田先生の急な逝去により頓挫してしまいました。
 しかしながら、多摩美術大学は「通称:石田ビジョン」の意志を堅持し、1971年には八王子移転を開始、1978年には「研究紀要」創刊号の原稿募集が行われましたが、さらに5年後の1983年に念願の研究誌発行がやっと実現しました。

 

Esperanto

品詞語尾-oは名詞(substantivo)、-aは形容詞(adjektivo)、-eは副詞(adverbo)をそれぞれ表す。名詞あるいは形容詞の品詞語尾の後ろに-jを加えると複数形になる。対格にするには-nを名詞あるいは形容詞語尾の後ろにつけ、複数形の場合は複数形語尾の後ろにつける。動詞には6つの品詞語尾がある。

北一輝は、男女同一教育や、和魂洋才、第2外国語としてエスペラントを主張した。

「希望する者(Doktoro Esperanto)」というペンネームを使ったザメンホフがこの言語の創案者。
ザメンホフは当時の帝政ロシア領ポーランドのビアウィストク出身のユダヤ人の眼科医。
1887年7月14日にUnua Libro(最初の本)でこの言語を発表した。
英語を母国語している民族の優位性を否定し、相手の言葉を尊重して対話することで、相互の理解を計ろうとした。

1920年代、国際連盟の作業語にエスペラントを加えようという動きがあった。日本の新渡戸稲造をはじめ10人の各国代表者が賛同したが、フランスの代表者ガブリエル・アノトーの激しい反対にあい、実現しなかった。フランス語は英語に国際語の地位を脅かされつつあり、エスペラントを新たな脅威とみなしていたからである。
その後、アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンはエスペラントの反・排外的民族主義性に危険を感じ、エスペランティストたちを粛清した。ヒトラーは『我が闘争』の中で「エスペラントは離散したユダヤ人を結集させる国際語だ」とし、スターリンは「エスペラントはスパイの言語だ」と明言した。

ヤクルトという商品名は、エスペラントで「ヨーグルト」を意味する jahurto(ヤフルト)に由来している。

デザイン教育の歴史

[河村運平]

商業美術展ポスター集成 十時惟臣編 商業美術連盟(1934)
日本のポスター史展 世界のポスター美術館実行委員会(1989)
日本広告表現技術史 中井幸一 玄光社(1991)
里見宗次展 奈良そごう美術館(1992)
杉浦非水展 東京国立近代美術館(2000)

[商業美術の今昔]