「川越の人物誌(第3集)女性編」 川越の人物誌編集委員会 川越市教育委員会 1994年
25.杉浦翠子(1885〜1960)

「さいたま女性の歩み 上巻 ―目ざめる女たち―」 編集発行埼玉県 1993年
第三章 大正デモクラシーの波紋
第六節 華やかな創作活動   二 批判精神にあふれて――杉浦翠子 拝金主義を批判
杉浦翠子(本名翠(すい))は、明治十八年(1885)五月十七日、川越町大字川越(現川越市幸町)に、父岩崎紀一、母サダの三女として生まれた。家業は提灯屋であった。父は、明治十一年(1878)に川越に設立された、埼玉県における最初の第八十五国立銀行に勤務していた。母は川越の富豪から金を借りてそれを貸し、その歳取(とり)で子供の教育費を捻出した。
明治二十年(1887)翠子二歳の時に父が、翌年母が死亡し、祖母ミキに育てられた。川越高等小学校卒業後、東京赤坂の次姉てるの嫁ぎ先に身を寄せ、国語伝習所に通った。その間、次兄桃介が慶応義塾卒業後、福沢諭吉の二女と結婚し、福沢に入籍した。(杉浦翠子『杉浦翠子全歌集』)。
明治三十七年(1904)、翠子は一九歳で画家の杉浦非水と結婚した。翠子の経済的に恵まれた家庭生活を裏づけるように、明治四十二年(1909)の『女子文壇』には、裕福な身分の人妻の自己陶酔的な気分を書いた日記文「初めて丸髷(まるまげ)に結ふ」(十一月増刊号『家庭日記』)が掲載されている。
その四年後の大正二年(1913)、翠子は前述の日記文とは一転して、拝金主義を痛烈に批判した一文「貴婦人に與ふる書」(『女子文壇』四月増刊号「婦人文藝」)を発表した。
この文の中で翠子は、「金力に輝く」婦人を「貴婦人」と皮肉って呼び、貴婦人は「何でも打算的で二萬圓の金持は一萬圓の人より豪(えら)いやうに單純な観察で、物質より貴(たっと)いものは外にないものゝやうに、一にも二にも富の話」ばかりすると批判した。貴婦人の部屋を「御調度御飾物の悉くが俗悪紛々で、何ひとつ純藝術品といふのはなく。まあ金貨の變形體(へんけいたい)を見るとでもいふのでせうか」と冷笑した。そして「飽く事を知らない物質の榮華に代へる富を、もう少し公共的事業にでも使ふとかしたら如何(どう)でせうか」と、今の世をも見越したような、痛快な提言を投げかけた。
外面的には恵まれた家庭婦人のように見えた翠子の内部で、外面的な豊かさと内面的な豊かさとの葛藤が既に始まっていたのである。
歌の道へ
結婚後一二年目、三一歳の大正五年(1916)に、翠子は斎藤茂吉に師事し、『アララギ』に入会した。その動機を、次のように書いている、「四五年前の大患(注・明治三十九年パラチフスに罹患)の後の私の体はどうしても、元の健康に復す事が出来なくなりました。薬を離れては一日も生きることの出来ない虚弱な肉体を持つ、私の眼に映る凡の物は何ひとつ悲みの種でないものはありませんでした。私の慰むべきところ私の行く可き道がほとほとこの世に無いもののやうに、遣瀬ない生を倦みあぐんだすゑに、私は歌を作ることを覚えたのでありまし」(第一歌集『寒紅集』大正6)と。
虚弱な身体の上に、翠子は、子どもにも恵まれなかった。その悩みを自分の内奥にかかえ込み、自分の存在感にすら、疑念を感じていた。これらの悩みと向き合った歌を二首紹介しよう。
  眠り薬飲みて寝(い)につくそのひまもかなしき君のおもほゆるかな  (『寒紅集』大正5)
  子を産まねば容(い)れられざらむ命かも我れをみなこの生きを疑ふ  (『アララギ』大正10・2)
 
「アララギ」退会
大正十年(1921)、アララギ歌人原阿佐緒と石原純との恋愛問題が公にされた。この問題に関して、翠子は、三ケ島葭子とは立場を異にする「原さんへの公開状」を発表した(『新家庭』大正10・9)。翠子はこの公開状の中で、「あなたはいつも石原先生から道ならぬ戀(こひ)を訴えられて困ったと被仰(おっしゃ)るけれど、すこしも困る場合と思はれません。無い袖は振られぬ。といふはっきりした返詞(へんじ)もありますが、あなたのお心持の一が二で容易(たやす)く解決のつく、非常の場合であったらうと思ひます」と異存を述べた。そして「心ためらひつゝ許すなどといふのは、娼婦よりまだ卑しいのみか、さうしたお言葉は實に傲慢な淫婦か浅墓(あさはか)な見榮としか思はれません」と、阿佐緒を手厳しく非難した。
この件の翌々年の大正十二年(1923)、アララギ同人の藤澤古實は、『アララギ』の批評欄で、同年四月号に掲載された翠子の短歌を「一種の狂態をあらはしたに過ぎなくなる」(『アララギ』大正12・5)と評した。これは、一種の退会勧告であった。
大正十二年十二月、翠子は、ついに「アララギ」を退会した。後に翠子は、古實の批評に対して「まるで『攻撃』にもひとしいあの物の言方に、どこに指導のあとがあるでせう。残念ながらあの批評は私の不明を開く導火線にはなりませんでした」(「巻末の言葉」第三歌集『みどりの眉』大正14)と述懐している。
翠子が自ら結社をつくり、本格的に活躍するのは昭和に入ってからである。

「さいたま女性の歩み 下巻 ―彩なる未来へ― 編集発行埼玉県 1993年
第四章 十五年戦争を生きる
第三節 昭和初期の作家たち
四 自己の生活を見つめて―杉浦翠子 「主知的短歌」を提唱
大正十二年「アララギ」退会後、翠子は「師の精神を継がずに、ただその形骸ばかりを追ってゐる、末期職人根性にはなりたくない」として、「独立不覇の精神」(歌集『朝の呼吸』巻末の言 昭和三)を貫いた。
昭和八年、長編小説「彼女を破門せよ」を発表したあとで、歌誌『短歌至上主義』を創刊、主宰した。その頃から翠子は、主知的短歌論を唱え、時代性、社会性に着目し、批判精神をもった短歌を作るべきだと提唱した。これによって翠子は、「子規派の『ありのまま』詠風、即ち写生、絵画的、記述的、日記的、報告的短歌」(歌集『浅間の表情』巻末感想記 昭和十二)と一線を画した。そして、師であり、アララギの先輩歌人であった斉藤茂吉、島木赤彦の短歌を、自らの主知的短歌と対照して、主情的短歌とした。
このように当時の歌壇から孤高を保ち、社会事象に目を向けた短歌論を展開していく途上で、翠子は、歌壇の中の女流歌人の置かれた状況を否が応でも知らされた。そして、次のように、男性歌人のみならず女流歌人も含めて、その作歌姿勢を鋭く揶揄した。「男と同じ道を歩き、女の歌ふべき境地以外に進出飛躍して、男に負けまいとした私は、その為に虐められたこと一通りではありません。女の境地といふのは、母、妻、恋人などを歌ふ、即ち母性愛や貞女ぶりを歌って見せるのです。(略)かやうな歌を作れば男たちは褒めるものです。(略)現代に於いて女流歌人などといふものは歌などいいかげんにてよろしく、それよりも美貌と名流の地位ある社交夫人で名を宣伝する方法を考へる方が一流歌人になれるのであります」」(『浅間の表情』巻末感想記)。
 『浅間の表情』から二首紹介しよう。

 この山の活けるを思ふ月明に炎を孕む煙見えつつ       昭和八年
 職を求めて村より村に移住する鮮人土工の群れゆく信濃路  昭和十一年

戦争と歌壇の変化
昭和二十一年(1946)、翠子は、敗戦百首歌集として、ザラ紙の謄写印刷『目の黒点』を刊行した。その巻頭言は、「日本の戦争は浪漫派の短歌の駄作のようなゆき方をした。(略)つまり現実の力、実際の力が不十分であって、大きなことを夢みたから失敗し、誇大妄想狂の誹りを受けるに至ったことは悲しむべきである」と、あくまでも主知的短歌論者の立場を踏まえて書いた。
 
 雉子鳴けばすなはち雉子が食べたしと飢ゑたる人の耳目はあはれ
 アメリカ兵につと笑ひて煙草を見せる与ふるにあらず売らむといふなり
 
昭和二十七年(1952)、翠子は孔版印刷で歌集『生命の波動』を出版した。そしてそのあとがきに「この歌集『生命の波動』の異色といふのは私の生活逆転の相が歌はれてゐることです」と述べ、さらに自分が「歌あそび」をしてこられた「背後の経済力」を戦争で全部失った、とも述べた。翠子は実生活面では、婢(はしため)(女中)も手離し、今までやったことのない家事も経験し、「生活を歌った」歌も書くようになった。
 
 米を洗ふ五本の指の水づきに冬こそ来れ爪くれなゐに   昭和二十四年
 婢が帰るといへば泣いてゐしそんな涙は時代が殺した   昭和二十六年
 
この間、昭和二十二年には、戦前の『短歌至上主義』を『短歌至上』と改名して復刊した。昭和三十五年二月十六日、渋谷区伊達町の自宅で病没した。
 
 男子(おのこ)らと詩魂を競う三十年みちの小石も我が歌に泣け   『短歌至上』昭和三十一年