福沢桃介(1) 「鬼才福沢桃介の生涯」 浅利佳一郎 NHK出版 2000年 桃介、今、在りせば…。巨人福沢諭吉を義父に持ちながら、諭吉に反発し、独歩の起業家精神を貫き通した電力王・桃介。傲慢と謙虚、冷酷と温厚、山師と篤志家、スキャンダルとロマン、相反する言動と評価のなか、日本を襲う幾多の経済危機を見事に乗りきってみせた鬼才といわれた男。ミステリアスな生涯を解きあかす。(帯のコピー) プロローグ かように不景気がこうじてきては、何処を向いても気の滅入る話ばかり。世間一体にまことに陰惨な空気に閉じれれている中に、パッと人心を明るくするような好事好音の望み難いにしても、この節瀕々と伝唱する従業員の首切り沙汰は、あまりにも悲惨とや言わん。 世間の従業員首切りの振り合いを見ると、永く高給を食み、罷免せられても生活の困らぬものか、または気のきいた人間をやめればよいのを、そういう人間は手放そうとはせずに、下給者で正直な実体者を容赦なくポンポンとやっつける。実体者に気のきいた才物などありはしないが、気がきかないから役には立たぬとするなら、それは大変な見当違いだ。 才物並みの派手なハキハキした仕事ぶりはようできんが、与えられた事務を分を越えずこつこつと仕上げていく彼等の功績は大層なものだ。 どんな大規模の事業経営も、彼等の地味な黙々たる精勤努力によって、滞りなく円滑に動いていくのだ。彼等は後方勤務者として大なる不平もなさそうである。彼等は偉大な縁の下の力持ちである。お役に立ったら相当の恩賞あってしかるべきところを、目に立つ働きがないからとて、無用の喰い潰しででもあるかのように、失業地獄の今日、ならべて首にして若干の経費節約でもあるまい。 この文章は明治、大正、昭和と日本の電力事業に奔走し、後に電力王、経営の鬼才と呼ばれた福沢桃介の著書『桃介夜話』の一節である。 福沢諭吉なら誰でも知っているが、福沢桃介のことはほとんどの人が知らない。 諭吉の次女・ふさの婿である。 筆者が福沢桃介という人物と初めて遭遇したのは、日本航空の機内誌である『アゴラ』で『歴史は人生の教科書である』という連載物を手掛けていて、その取材の過程であった。渋沢栄一や安田善次郎の資料の中に桃介の名がちらっちらっと見え隠れしていたのである。 日本の資本主義の祖と呼ばれた渋沢栄一や、戸板一枚の商売から日本有数の安田財閥を築いた安田善次郎と桃介のやりとりが書かれているのだが、その部分はいつも事業参画への要請であり、資金調達のために借金を申し込む立場でありながら、度胸の座った大物振りが奇異にさえ思えたのである。 〔福沢桃介って一体何者なんだ?〕 筆者の関心はそこから始まった。 桃介に関する資料を図書館やインターネットの検索で集め、彼の著作や自伝や他伝を読み進むうちに、桃介の人間的な魅力や経営哲学に魅了されていったのである。そんなある日、知人が「川越の古本屋で売っていたよ」と言って桃介の著書の『桃介夜話』を筆者に差し出した。昭和六年に発行されたその本は箱入りの分厚い本で、七十年近くも経たとは思えないほど美装だった。川越は桃介が中学時代を過ごした町である。桃介は吉見百穴の近くの荒子村(現・吉見町荒子)に生まれ、その後、父・紀一の本家のあった川越に移り住む。紀一の本家の岩崎家は川越の八十五銀行の設立者の一人だった。その関係から紀一は八十五銀行の書記の仕事を手伝いながら慶応義塾に通う桃介に仕送りをしたのである。紀一は桃介が米国留学中だった明治二十年に四十八歳で没し、翌年には母のサダが夫と同じ四十八歳で亡くなっている。 岩崎家本家の当主だった藤太郎は才覚はあったが、銀行を経営するようになってから贅沢を覚え、新事業や相場、あげくには博打にも手を出し破産した。 桃介の生まれ育った土地や場所には、桃介の記憶を留めるものは今は何一つとして残っていない。川越の本町通りで「桃介さんって知ってますか?」「岩崎家を知ってますか?」「八十五銀行を知ってますか?」と聞いても、誰もが頭を横に振るだけである。 桃介のことは地元でさえ知る人はほとんどいない。 知人が筆者に差し出した『桃介夜話』が川越の古本屋にあったことに、妙に因縁めいたものを感じ、桃介が筆者に「俺のこと書けよ」と言ってるようにも思えたのである。 この本の主題は大正の末期から昭和の初期にかけて日本の経済界を襲った大不況の起因と克服法を克明に記したものだが、この状況があまりにも平成の不況と似ていたために驚愕し、それを克服した桃介に感動したのかもしれない。桃介に関する資料を集め、夢中になって調べていくうちに、新たに興味を抱いたのが、桃介と義父である福沢諭吉との関係だった。〔桃介がなぜこれほどまでに金儲けにこだわっているのだろうか〕という疑念も湧いてきた。
参考文献一覧
福沢桃介翁伝 | 福沢桃介翁伝編纂所(大同電力社内) | 昭和14年 | |
桃介式 | 福沢桃介著 | 実業之世界社 | 明治44年 |
桃介は斯くの如し | 福沢桃介著 | 星文館 | 大正2年 |
財界人物我観 | 福沢桃介著 | ダイヤモンド社 | 昭和5年 |
月刊ダイヤモンド(連載『財界人物我観』) | ダイヤモンド社 | 昭和4年1月号~9月号 | |
桃介夜話 | 福沢桃介著 | 先進社 | 昭和6年 |
槍ヶ岳を中心として | 福沢桃介著 | ダイヤモンド社 | 大正13年 |
福沢桃介の人間学(『桃介式』『桃介は斯くの如し』所収) | 五月書房 | 昭和59年 | |
野生のひとびと | 城山三郎著 | 文春文庫 | 1981年初版 1993年12刷 |
経営の鬼才 福沢桃介 | 宮寺敏雄著 | 五月書房 | 昭和59年 |
日本の電力王 福沢桃介 | 長澤士朗著 | でんきの科学館 | 平成6年 |
自伝 音二郎・貞奴 | 川上音二郎・貞奴著 | 三一書房 | 1984年 |
財界人物評論 | 鈴木茂三郎著 | 改造社 | 昭和11年 |
木曽谷の桃介橋 | 鈴木静夫著 | NTT出版 | 1994年 |
先人に学ぶ | 石山賢吉著 | ダイヤモンド社 | 昭和40年 |
福沢山脈の経営者たち | 加藤寛編 | ダイヤモンド社 | 昭和59年 |
先人群像 | 小島直紀著 | カルチャー出版社 | 昭和47年 |
考証 福沢諭吉〔上〕〔下〕 | 富田正文著 | 岩波書店 | 1992年 |
新訂 福翁自伝 | 富田正文校訂 | 岩波文庫 | 1978年初版 1999年44刷 |
福沢諭吉選集 1~14巻 | 富田正文編 | 岩波書店 | 1980年1刷 1989年3刷 |
福沢諭吉全集 1~21巻 | 慶応義塾編 | 岩波書店 | 昭和36年 |
学問のすすめ | 福沢諭吉著 | 岩波文庫 | 1942年初版 1997年71刷 |
福沢諭吉家族論集 | 中村敏子編 | 岩波文庫 | 1999年 |
福沢諭吉の名文句 | 田原総一郎著 | 光文社 | 1992年 |
福沢諭吉の人と書翰 | 小泉信三著 | 慶友社 | 昭和23年初版 昭和25年再版 |
中部電力のあゆみ①~⑥ | 中部産業遺産研究会 | 1993~1998年 | |
月刊実業之世界(連載『財界劇場 福沢桃介の巻』 | 実業之世界社 | 昭和39年6月号~12月号 | |
私の履歴書 | 松永安左エ門著 | 日本経済新聞社 | 昭和39年 |
自叙伝 松永安左エ門 | 松永安左エ門著 | 日本図書センター | 1999年 |
松永安左エ門著作集 折りに触れて | 松永安左エ門著 | 五月書房 | 1982年 |
天翔ける鋼 大同特殊鋼と石井健一郎 | 和木保満著 | 中部経済新聞社 | 昭和62年 |
南木曽の歴史 | 南木曽町博物館 | 1996年 | |
南木曽町誌 通史編 | 南木曽町役場 | 昭和57年版 | |
ジャポニスム | 大島清次著 | 講談社学術文庫 | 1992年 |
旅芸人始末書 | 宮岡謙二著 | 中公文庫 | 昭和53年 |
関東大震災 | 講談社 | 昭和63年 | |
スキャンダルの明治 | 奥武則著 | ちくま新書 | 1997年 |
芸人 | 秦豊吉著 | 鱒書房 | 1953年 |
幕末明治・女百話 | 篠田鉱造 | 岩波文庫 | 1997年 |
「出世を急がぬ男たち」 小島直記 新潮文庫 1984年 現代の混迷した状況を乗り切るために、何を学ぶべきかを示した読書論・人生論70編を収録した本(カバー解説)。
「『財界人物我観』のひらきなおり」 財界人といえば、人の批評をしない例が多いが、例外もあった。福沢桃介である。美男で秀才である点を見こまれて福沢諭吉の婿養子となったが、 生家は埼玉県川越市の堤燈屋のせがれ。貧乏だったから、下駄や草履を買ってもらえず、ハダシで学校に通い、それを学友たちに嘲笑された。そこで、 「友だちは笑うけれど仕方がない。大きくなったら金をもうけて、今の貧乏を忘れたいと子供心にもしみじみとおもったことである」 と語っている。 ただ、頭の鋭い子供だから、考えたのはそれだけではない。 「私は貧乏人の家に生まれたから、富者に対する反抗心が強く、金持を倒してやろうと実業界に発心したことの、そもそもの原型はこのときつくられた」 と語っているのがそのことである。そこで、実業家として大成したのちも、大いに書きまくり、しゃべりまくって、そういう「立志」の成果がどうなるかを示した。 中略) 当り触りのあることを、遠慮なく公表したうちの一つに、『財界人物我観』がある。
「福沢諭吉(二)」 明治十九年、福沢五十三歳。慶応義塾の運動会で、ライオンを描いたシャツを着て走り、注目をあつめた眉目秀麗の学生がいた。川越の堤燈屋の二男坊岩崎桃介(十九歳)である。 その雄姿に一目ぼれしたのか、輸吉夫人錦(四十二歳)が二女房のむこに欲しいと望み、長女里(中村貞吉夫人)も賛成、ついに諭吉も承諾した。 「逆境を愛する男たち」 小島直記 新潮文庫 1987年 いかなる逆境にも挫けず、その中で自己鍛錬を怠らなかった男たちの剛毅な生き方をたどる、現代ビジネスマンに勇気と指針を与える人物随想(カバー解説)。
「英雄色を好むは許されるか」 異性関係を大っぴらにしたのは、福沢桃介であった。 (川上貞奴は)福沢桃介より三歳年下で、十二歳のとき、浜田家の雛妓「小奴」となり、十六歳のとき芸者「奴」となった。(中略)二十三歳のとき芸者を廃業し、七歳年上の俳優川上音二郎と結婚。二十八歳のときアメリカ巡業で女優「貞奴」となった。 四十歳のとき、夫音二郎と死別している。 桃介と知り合ったのは明治十八年頃、桃介は慶応義塾の学生(十八歳)で、乗馬に夢中だった「小奴」の馬があばれ出したのをとめてやったからだという。 大同電力社長時代、桃介社長は大井のダム工事現場にまで貞奴を同伴した。このとき谷底までケーブルで桃介が降りるといい出すと、一緒にいた重役連中はみな尻ごみして、誰一人お供をしようとしない。 そのとき貞奴だけがお供をしたのである。 二人は、大正七年十二月(桃介五十歳、貞奴四十七歳)から同棲した。 ところが正夫人の房子は生きていたし、離婚していたわけでもないのである。
「福沢山脈(上)(下)」 小島直記 河出文庫 1982年 若旦那 解散して、寄宿舎にもどろうとしていると、名前をよばれた。ふり返ると、散歩に加わっていた先輩のひとり――福沢桃介が涼しい眼で見つめている。 「今日は面白かったよ。ところで、君は相場をやっているということだが、僕も少々この道をかじっている。よかったら、話しにきませんか」 松永はにっこりした。見こまれて福沢諭吉の次女、房の婿となり、福沢家の養子となった桃介の噂はすでに聞いている。ひそかに敬愛の念をもって見守っていた、といってもよかった。 福沢桃介は、川越の提灯屋岩崎紀一の次男坊だ。 貧しいために下駄を買ってもらえず、小学校へははだしで通学したが、神童いわれるほどよくできた。 兄の育太郎は、小学校を出ると、丁稚奉公にやらされた。桃介もまたそのコースをたどることになったかもしれぬが、その才能をおしみ、両親に話をしてくれるひとがあらわれた。一軒おいた隣の、榎本某。くわしい記録はのこっていないが、士族かなにかで多少の教養もあったのであろう。 「桃介さんのようなひとを、こんな田舎にうずもれさせるのはおしいね。東京へやって学問をさせたら、今に偉いものになりますよ」 両親はそのことばをよろこびつつも、表情は暗かった。 「学問はさせたいと思いますが、何分、学資の方が――」 だが、榎本は引き下がらなかった。 「ご本家はたいそうな地所もちとか聞いています。たのめば何とかなりはしませんか。ともかく、借金しても、学資ぐらいつくれると思いますがね」 その夜、夫婦はおそくまで相談した。翌日、学資はいくらぐらいいるだろうか、と聞いてまわった。 「寄宿舎に入れて、月に八、九円というところではあるまいか」 という話とともに、学校は福沢諭吉の慶応義塾がよい、とすすめるひとがあった。 明治十六年夏、数え年十六歳の岩崎桃介は人力車にゆられて東京についた。まだ東京―川越間の鉄道はなかったのである。 彼よりも一年おくれて入った藤山雷太などといっしょに独立同盟会という組織をつくり、演説討論に花を咲かせる反面、かなりのわるさもやったようだ。他の学生たちが勉強をしているとき、石油の空罐にヒモをつけて、ガラガラと廊下を引きずりまわして怒らせたこともある。二階から小便をしているとき、福沢諭吉が通りかかった。 「だれだ、そんなところで小便をする奴は」 という声を聞いて、 「桃介だ」 と答えた。 福沢は非常に立腹して、退校させる、という羽目になったが、田端重晟、石井甲子五郎などの友人が平あやまりにあやまって、ようやく事なきを得た。 だが、単なるヤンチャ坊主ではなかった。 川越の両親に手紙を書き、土地でとれたサツマイモを福沢先生におくるようにたのんだあと、父から先生におくる手紙の文面までつくってやっている。また経済界の変動にそなえて、家族八人、二年間の生活をささえるため、三百八十四円を銀貨でためなさい、ともすすめている。苦労しらずのボンボンにはできぬ芸当、といわねばならない。 岩崎桃介が福沢家と不思議な縁でむすばれたのは、慶応の運動会のときである。競技に出る学生たちは、おもいおもいのシャツを着て、それに水彩絵具でヒョットコ面や天狗面をかいたりしたのだか、桃介は友だちにライオンをかいてもらった。 「天成の眉目秀麗で背のスラリと高い青年が、奇抜なライオンを背にしてさっそうとかけまわるところはひときわ目立って、だれが見てもほれぼれするくらいであった、とは、五十年の老友田端(重晟)氏が今でもくり返し嘆称するところ」(『福沢桃介翁伝』)と大西理平は書いている。 福沢一家も、諭吉夫妻はじめ令嬢たちが見物にきていたが、まず第一に諭吉夫人の心を桃介は引きつけたのだ。すでに長女の里は中村貞吉にとついでいて、次女房の花婿候補を物色中のところであった。 「あのライオンのシャツをきたひと、どうかしら……」 ということばに、里が賛成し、その夜母娘して諭吉にせまった。 「調べてみよう」 ということになった。 二階から小便をして、あやうく退学になりかけた話もあらためて諭吉は思いだしたであろうが、あのときは他の学生たちに対する見せしめという意味でつよく出ただけで、もともと諭吉本人にも、これに似た失策がある。 大阪の緒方塾で勉強していたころの話。彼自身の口をして語らせると、「或る夜私が二階に寝ていたら、下から女の声で『福沢さん福沢さん』と呼ぶ。私は夕方酒をのんで今寝たばかり、うるさい下女だ。今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。それから真裸でとびおきて、ハシゴ段をとびおりて、『何の用だ』とふんばったところが、案に相違、下女ではあらで奥さんだ、どうにもこうにも逃げように逃げられず、真裸ですわっておじぎもできず、進退窮してじつに身のおきどころがない。奥さんも気の毒だと思われたのか、モノもいわず奥の方に引きこんでしまった」(『福翁自伝』)という一件だ。 これを思えば、桃介の失態も青春客気のなす罪のない失策、と失笑してすますことができる。それよりも、かんじんの勉強の方だが、これは「学課は優秀、才気英発、容貌風采、起居動作にいたるまで一点の非のうちどころなし」、おまけに「家筋や血統も申し分なし」とのことである。 「これならよさそうだが、お房の気持はどうだろう?」 「それはあなた、大丈夫でございます」 錦(きん)は大きくうなずいてみせた。以心伝心、母親の本能で見ぬいているというか、いやじつは、運動場で桃介の英姿に見とれ、頬をそめた娘になりかわって動いてやっただけのこと、かもしれなかった。 岩崎桃介は塾の教師酒井良明によばれた。 「君は養子に行く気はないか?」 という話だ。ない、と答えた。酒井はなおも追及した。 「嫁をもらわないか?」 「まだ若すぎます」 「学校を出たらどうするつもりだ?」 「洋行したいと思います」 酒井はそこでニヤリと笑った。 「君、洋行すると言ったって、金がなければできぬだろう。金はあるのか?」 「ありません」 「金を出してくれるひとはあるんだよ」 「いったい誰ですか?」 酒井は桃介が乗り気になったのを見ると、本題にもどった。 「それは君が養子に行くか、嫁をもらうかしなければならぬけどね――」 「何でもやります。だけど、誰ですか先方は?」 「じつは福沢先生だ」 「ご冗談でしょう」 「冗談じゃない、本当だ」 桃介は迷ったが、両親はじめ、友人たちもすすめるのでついにこの申し出をうけた。どうも妻となるべき房本人よりは、<洋行>というエサに引っかかった感じがしないでもない。 ところで、娘をやるのでなく、桃介を養子にしたいという福沢諭吉には、すでの四人の男の子があった。 長男一太郎は二十四歳(数え年、以下おなじ)、二男捨次郎は二十二歳、ともに米国留学中で、兄はポーキプシーの大学、弟はボストンの専門学校で元気に勉強をつづけている。また自分の膝下には、三男三八(八歳)、四男大四郎(四歳)がいる。あとつぎにはこまらないわけであるし、封建的家族制度に反対して、とくにこの桃介問題がおきる前年には、その主旨につらぬかれた「日本婦人論」を「時事新報」に連載していたほどだ。他人の子供まで迎えて「福沢」姓を名のらせる真意はどこにあったのであろうか? その年十二月九日、福沢は桃介の実家に対して、自分の考えを文書にしてわたしている。「大意」と題されて、本文は箇条書き。 一、岩崎桃介を福沢諭吉の養子としてもらいうくるのこと。 一、養子は諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女お房へ配偶して別家すること。 一、別居の上は福沢諭吉夫婦より、居家処世の義につき心付けの件は忠告もいたすべく候えども、凡俗普通のいわゆる舅姑の関係をもってみだりに桃介お房の家事に干渉することなかるべし。 なおこのあとに外国留学のことなどにふれた五カ条があり、それはあとでふれようと思うが、ともかく今かかげた三カ条に福沢の気持はあらわれている。しかし、これでもなお、娘をとつがせずに桃介を養子とした真意は明確でない。 桃介を迎える前の年に、福沢が書いた「日本婦人論」の一節には「養子」のことが出ている。 「日本古来の習慣として家の系統なるものを重んじ、その重大なるは喩(たと)えんに物なきがごとくにして、流弊ついに養子の流行をいたし、子なきものは実の血統を断ちても養子養女の法により家の空名のみを存するもの多し。なおはなはだしきはその家族は死絶えて血属の孑遺(けつい)なく、家も貧にして財産なきのみか家屋さえなくして、家の空名の外無一物なるものにても、家はすなわち家にして戸籍上これを一戸という。子孫にあらずして子孫と称し、戸なくして戸と名づく。人間世界稀有の習慣にして識者のつねに怪しむところ、わが輩ももとよりその不都合を知るところのもの……」 すなわち「養子」は「流弊」、世間流行の悪風だ、とは彼自身のことばである。そこで、桃介の「養子」にはあ、世の悪風とちがう条件をつけた、というわけであろう。だとすれば、それは桃介の実家にあたえた「大意」の第二条「相続の養子ではなく、次女に配偶して別家する」ということ以外にはない。これで「流弊」とはいちがう「養子」だというつもりであろう。 福沢はこれで納得したわけだ。しかし、桃介の立場からこれを見れば、「相続権もないのにどうして福沢の姓をつがねばならないか」という問題が出てこないであろうか。 「新婚もって新家族を作ること数理の当然なりとして争うべからざるものならば、その新家族の族名すなわち苗字は、男子の族名のみを名のるべからず、女子の族名のみを取るべからず。中間一種の新苗字を創造して至当ならん。(中略)かくのごとくすれば女子が男子に嫁するにもあらず、男子が女子の家に入夫たるにもあらず、真実の出合い夫婦にして、双方婚姻の権利は平等なりというべし」もまた「日本婦人論」における福沢のことばだ。どちらか片一方の姓を名のるということは平等でない、という意味にもとれる。 岩崎姓を捨てさせ、福沢姓を名のらせ、相続権をあたえなかったことは、福沢の主観的意図は別として、福沢自身の文章よりこれを見れば、桃介に対する一種の不公平と見られぬことはない。まさか、外国留学をさせるからその不公平を我慢しろ、ということではなかったであろうが、筆写はこのへんがよくわからないのである。 それはともかく、桃介は翌二十年一月福沢家へ入籍、二月に渡米、イーストマン・カレッジを出てペンシルバニア鉄道会社で見習し、帰国したのが二十二年十一月。その月のうちに房との結婚式をあげさせられ、北海道炭鉱鉄道会社に入社、初任給百円をもらった。 いくら外国仕込みの新知識とはいえ、この待遇は破格であり、オヤジ「福沢」の七光りであったことは否定できない。
「日本の近代化遺産 ―新しい文化財と地域の活性化― 伊東孝 岩波新書(新赤版)695 2000年 Ⅳ 今に生きる産業遺産/4 発電所のデザイン博覧会と稼働する重要文化財―木曽川・発電所群 桃介と貞奴 福沢桃介の旧姓は岩崎桃介。福沢諭吉の次女・ふさの入り婿となって福沢姓を名乗る。諭吉の援助でアメリカに留学。1889年(明治22)に帰国して北海道炭礦鉄道に入社、サラリーマン生活を送ることになった。しかし六年後、肺結核にかかり退社。ふつうはここで意気消沈するところだが、桃介は独立した経済人への道を模索した。入院中におぼえたのが相場である。百発百中の株で財を貯え、電力事業に乗り出した。 桃介の名をさらに有名にしたのは、川上貞奴とのロマンスである。二人のロマンスは、1985年にNHKで『春の波濤』としてドラマ化されたので、ご存じの方も多いと思う。 桃介から「さアだ」と呼ばれた貞奴は、わが国の女優第一号として知られ、国際的には、〝マダム・サダヤッコ〟としてその名を馳せた。1871年(明治4)生まれ、美貌・才気・遊芸に秀でた名妓となり、最初のパトロンが伊藤博文であった。川上音二郎と結婚し、新派演劇の発展に尽力した。音二郎の死後六年目に舞台をやめ、以後、福沢桃介の行くところ、影が形に添うように貞の姿があった。 桃介橋の袂にある天白公園の敷地には、桃介が発電所の現場監督のために建てた山荘が残されている。1922年(大正11)の建造である。もとは二階建てだったが、戦後火災にあって平屋となり、現在は二階建てに復元され、桃介記念館として利用されている。
「日本百名橋」 松村博 鹿島出版会 1998年 電力王の夢を架けた 桃介橋 中央本線南木曽(なぎそ)駅のすぐ近く、国道19号に接して木曾川の本流を渡る特異な形式の吊橋が架かっている。木製の補剛桁がコンクリートの塔で支えられた四径間の吊橋はクラシカルでありながら、モダンな雰囲気をもつ大正期の代表的な構造物の一つである。この橋は大正11年に、わが国の水力発電の最大出力(4万2000キロワット)と長距離送電の記録を塗り替えた読書(よみかき)発電所の建設に伴って資材運搬用のトロッコを通すために架けられたが、その後メンテナンスが十分でなく、昭和53年頃には交通止めにされたまま荒れはてていたものを平成5年に南木曽町によって復元されたものである。 読書発電所は福沢諭吉の女婿で、電力王といわれた福沢桃介が設立した大同電力㈱によって建設された。福沢桃介は一河川一会社主義を主張し、大正7年には木曾川の電源開発に着手し、大正8年の賤母(しずも)発電所をはじめ、大桑(大正10年)、須原(大正11年)、桃山(大正12年)の各発電所を建設、読書発電所はその総決算ともいえるものであった。 この発電所は十数キロ上流の大桑村で取水し、木曾川左岸のトンネルを通して有効落差112メートルで発電するもので、大正12年12月に完成している。発電所の工事のための橋に大同電力ゆかりの人の名前を橋名にした例が多く見られるが、福沢が自らの名前を冠したのは特別の思い入れがあったからと思われる。 桃介橋は、橋長247メートル、支間長がそれぞれ22.7メートル、102.3メートル、102.3メートル、13.6メートルの四径間の吊橋で、幅員は2.7メートル、中央にトロッコの軌道が設けられていた。主ケーブルは直径34ミリ相当のストランドロープ4本よりなり、ハンガーは直径2.2メートルの素線15本を束ねたもので、ターンバックルを介して主桁に連結されている。補剛トラスはダブルワーレン形式の木製トラスで、21センチ角の上下弦材の間に隅沓材を介して斜材を取り付け、直径22ミリの鋼棒を鉛直に通して上下を締め付け、トラスを構成している。また塔から桁へ斜張橋の斜材のような直線のステーを張り、両岸や河原敷にアンカーされたウインドステーによって橋全体の安定が図られている。 この橋のデザイン的な特徴は橋脚と塔にある。河床を掘りくぼめてコンクリートを打設した直接基礎の上に、表面に石積みが施された楕円形断面をもつ橋脚躯体が造られ、その上に鉄筋コンクリートの塔が建てられている。塔には大きなアーチの上に三つの小さなアーチの窓が開けられ、その上には六つの細長いアーチ状の飾りが付けられ、柔らかな印象をつくっている。そして中央の橋脚には下流側へ向かって中洲へ降りる階段が付けられており、景観上のアクセントにもなっている。この階段は洪水時の水圧に対する抵抗を増すためのものとも考えられる。 桃介橋は、読書発電所の建設資材を中央西線の三留野(みどの)駅(現在の南木曽駅)から木曾川を渡して対岸へ送る目的で架けられた。橋を渡ったトロッコはインクラインによって断崖を上り、建設現場へ資材を運んだ。この橋の設計には建設当時現地に滞在していたアメリカ人技師がかかわったと考えられ、ケーブル等もアメリカからの輸入であったようだ。 桃介橋は昭和25年に関西電力㈱から読書村(現南木曽町)に引き継がれ、人造橋として通学などに長く利用されてきたが、昭和53年頃には老朽化が目立ち、本格的な修理も施されないまま廃橋同然になっていた。南木曽町では平成2年に「大正ロマンを偲ぶ桃介記念公園整備事業」をスタートさせ、その中で桃介橋の復元も行うこととした。橋の復元にあたっては、各方面の専門家や行政担当者によって桃介橋保存・活用検討特別委員会(太田博太郎委員長)が作られた。その中では、できるだけ原形に近い形に戻すべきであるとする文化財保存を強調する考え方と現在の設計基準を満足させようとする管理者の主張を両立すべく論議が重ねられた。 強度上問題がなかったのはアンカーだけで、塔は片側のスパンに偏載する人数を200人にするような通行制限を前提としてそのまま利用されることになった。その他の部材はかなりのものが取り換えられた。主ケーブルをはじめ、タワーステーやウインドステーは一部に断線も見られ、かなりの錆もあったことからすべて新しくされた。また補剛桁や床組などの木製部分も腐食が激しく、すべて取り換えられることになった。70年前の架設時には栗、杉、松材などが使われていたが、栗は現在では入手が難しいことや地場産の木材を使うことを配慮し、トラスの弦材、斜材には耐水性にすぐれ、ねじれの少ないサワラが、縦桁、横桁には腐食しにくいアスヒが、敷板などにはヒノキが使われた。そして最も荷重を受ける吊り桁やトラス格点の隅沓材には耐久性、強度とも勝れた南アフリカ産のボンゴシ材が使われた。また補剛材のラテラルやケーブルバンド、ターンバックルなどの金具類はできる限り再利用することにし、亜鉛メッキなどの防錆処理が施された。四分の一程度が取り換えられたが、元のものと同じように鍛造品とされた。このように土木構造物が一つの文化遺産として、できる限り建設当初の姿で復元されようと努力されたことは大変貴重である。今後の保存の基準作りにも指針を示したことになるだろう。
「20世紀 日本の経済人」 日本経済新聞社編 2000年 渋沢栄一、松下幸之助、井深大……。激変の時代を疾駆し、日本に未曾有の発展をもたらした「巨人」たちの様々な人生ドラマを、丹念な取材で再現。52人の創造性溢れるリーダーシップに、失われようとしている「日本経済の活力」の源泉を探る。 福沢桃介(ふくざわ ももすけ) 相場師から電力王に 貧乏な家に生まれ、才知と眉目秀麗を認められて福沢諭吉の婿養子になった桃介。約束されたエリートコースを結核で棒に振るが、ハングリー精神を発揮、天下に知られた相場師となる。後年は実業家に転進、電力王と称された。「天は人の助けざる者を助く」が信条の偽悪家は、始末に負えぬ拝金教と評された。が、川上貞奴と浮名を流した一代の鬼才の屈折人生は、一片の痛快さもある。 「(私は)世間のいわゆる軽薄才子だ」「私の口は信頼できぬ。なぜかというと、私には一定の主義がない」「世の中の金持ちは、偶然今日の結果を得たくせに、賢ぶってホラを吹くので、先見の明とは真っ赤なウソだ」「人を見たらたいがい泥棒と思えば間違いない」 こんなことを公然とうそぶいた男は1868年(慶応4年)6月25日、武蔵国横見郡荒子村(現埼玉県比企郡吉見町)で、岩崎紀一、サダ夫妻の二男に生まれた。六人兄弟だ。田んぼが一反の貧乏所帯。おっとりした婿養子の父は野良仕事に向かず、気丈な母が開いた荒物屋も行き詰まり、能書家の父の特技をいかそうと川越に引っ越してちょうちん屋になった。金持ちだった岩崎一族などの出資で八十五国立銀行ができ、父は書記になるが、一族の没落で再び貧窮した。 桃介は神童の誉れ高かったが、ゲタも買えず、小学校にはだしで通った。友達に笑われ「大きくなったら金をもうけて今の貧乏を忘れたいと子供心にもしみじみ思った」。あだ名が「一億」。「一億円の金持ちになるのだ」が口癖だった。 その才を惜しんで学問を薦める人があり、慶応義塾に入る。養子のきっかけは運動会だ。桃介は眉目秀麗で背が高い。絵のうまい学友にシャツの背中にライオンを描いてもらって、さっそうと駆け回ったから、諭吉夫人の目にとまった。 洋行を条件に養子縁組。ただし、「諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女お房へ配偶して別家すること」。諭吉には四人の息子がいた。なぜ養子か分からない。米国に留学、ニューヨーク州のイーストマン商業学校を四ヵ月で卒業すると、ペンシルベニア鉄道で実務見習い。帰朝後、結婚式をあげ、北海道炭礦鉄道に入社。破格の月給百円は恵まれすぎた門出だ。 ところが六年後に血を吐き結核治療のため辞職した。前途は暗黒。給料の半分を貯金していたとはいえ大したことはない。養子の身分で面倒をみてくれとは意地でも言えなぬ。思いついたのが株だ。北炭の社員で株に詳しい者からイロハを学び才能が開花した。千円の証拠金で始めて一年でもうけが十万円。それからの桃介を「相場師になってしまった」と諭吉は嘆いた。
「野生のひとびと」 城山三郎 文春文庫 1981年 本書は、大会社大企業中心の歴史でもなければ、三井・三菱など財閥の成長を軸にした歴史でもない。側面史、いや側面史への一つの試みであり、終始、人間の物語である。野性的な人間が、時代の流れと組織の枠の中で、どこまで奔放に生き、また、その野生が企業なり経済なりをどのように動かして行ったかの点検の書である。(あとがきより)
「日本創業者列伝」 加来耕三 人物文庫 2000年 岩崎弥太郎、渋沢栄一、安田善次郎、浅野総一郎…。国際化、産業界再編、IT革命、リストラなど大変革期を迎えた今、なぜ明治・大正・昭和前期の立志伝なのか? 企業立国・日本を立ち上げた創業者たちの苦闘の軌跡を歴史のダイナミズムの中で捉え、手本無き時代のビジネスマンの生き方を考える座右の一冊!(カバーのコピー) 第二章 企業立国の揺籃期を支えた人びと/福沢桃介
明治 | 元 年 | (1868) | 埼玉県比企郡に生まれる。 |
〃 | 十九年 | (1886) | 福沢諭吉との間で、養子の話が決定する。 |
〃 | 二十年 | (1887) | 慶応義塾を卒業。アメリカへ留学。 |
〃 | 二十二年 | (1889) | 帰国。諭吉の次女・ふさと結婚。福沢姓となる。北海道炭礦鉄道会社に入社。 |
〃 | 二十七年 | (1894) | 日清戦争勃発のため、外国船をチャーターし、石炭を輸送。 |
〃 | 三十四年 | (1901) | 喀血。株相場をはじめる。北海道炭礦鉄道に再就職。 |
〃 | 三十九年 | (1906) | 北海道炭礦鉄道会社を退職。 |
〃 | 四十年 | (1907) | 日清紡績設立。相場から手をひく。 |
〃 | 四十四年 | (1911) | 日本瓦斯会社を設立。四国水力電気・浜田電気・野田電気会社などの社長。唐津軌道会社取締役となる。 |
〃 | 四十五年 | (1912) | 千葉県から衆議院議員に当選。 |
大正 | 十五年 | (1926) | 帝国劇場代表取締役となる。 |
昭和 | 三 年 | (1928) | 実業界を引退。 |
〃 | 十三年 | (1938) | 死去、七十歳。 |
「歴史人物意外なウラ話」 高野澄 PHP文庫 2000年 弁慶ばりの勧進帳で政府高官の鼻を明かした福沢桃介 「神聖なる議会の侮辱だ、証拠を示せッ」 衆議院予算委員会の議場は、野党政友倶楽部の福沢桃介がやった爆弾演説で騒然たる空気につつまれた。 「日本郵船には、政府から莫大な補助金がつぎこまれている。政府高官が多額の収賄を受けた結果である!」 日本郵船は明治18(1885)年に設立されて以来、政府の手厚い保護につつまれて日本最大の海運会社になっていた。 郵便汽船三菱と共同運輸が合併してできたのが日本郵船だ。 三菱は西南戦争の軍需物資輸送を一手仁ひきうけて急成長した会社であり、共同運輸もまた、三菱の独占に楔を打ちこむために政府が三井を支援して生まれた会社だ。 三井と三菱――日本の総資本を二分する財閥系の海運会社だから、死力をつくして競争するのが当然のはず、それが合併してしまったのだから奇怪きわまりない。 合併の最初から政府資金のカネまみれになっていたのが日本郵船だ。なにしろ、むこう15年間は毎年88万円の補助金を受けるという約束があったのだ。 88万円は100万円に、そして200万円にと増額を続け、大正6(1917)年には500万円にふくれあがっていた。 巨額の補助金をもらっていながら、株主には七割の配当をしていた。税金で経営し、税金で配当金を払っている。ムチャクチャなのである。これで利益があがらなかったら、ウソだ。 そこには贈賄がある――爆弾演説をした福沢は福沢諭吉の養子だが、生まれは貧しい。金持ちになって金持ちに復讐してやろうと決意して実業の世界にはいった。 金持ちになって金持ちに復讐するという福沢の決意が実現した背景には、第一次世界大戦後の好景気で日本がわきかえっていた事情がある。 実業界に顔を出したが、そこで三井、三菱の財閥支配という現実にぶっつかって、東京では手も足も出ない。 仕方がないから、名古屋や九州で電力会社をおこした。 それがうまくいった。 好景気の影響は地方経済にもおよび、電力需要が高まったのだ。東京で三井、三菱の儲けのおこぼれにあずかっているよりは、地方の電力王になるほうが利益が大きいのである。 名古屋の電力会社をバックに、福沢は代議士になった。いまや念願の金持ち退治の時きたれりとばかりに、「政府高官は郵船から収賄して補助金を増額している」と、爆弾演説をぶっつけた。 爆弾演説の舌鋒は、天皇暗殺計画の大逆罪で死刑になった幸徳秋水グループのことにもおよんだから、議場が震えたのも無理はない。 「彼らの罪は憎むべしといえども、彼らもまた帝国の臣民である。彼らをして、かかる狂態を演ぜしめたるは、だれの罪か!」 大正デモクラシーの風潮が高まりつつあったとはいっても、幸徳グループを援護するかのような意見は、悪くすると不敬罪に問われかねない。 その危険を冒してまであえて政府高官の収賄疑惑をいうには、よほどの決意だと見えた。 「証拠を示せ!」 「議会侮辱!」 与党委員が演壇につめよってくる。 そこで福沢は、 「証拠がほしいのか。そら、これじゃ!」 ポケットから一枚の書類を出して、ふりかざして見せた。 議場はいっそうの興奮につつまれたが、それまで福沢に罵声をあびせていた与党委員のなかには、顔色をかえて沈黙した者もいる。 ――それ、見たことか! 福沢は、得意満面の表情で議場をにらみつける。金持ちをやっつけた、こんなにうれしい気分はない。 さて、ところで、この証拠文書なるもの、収賄高官の名前が列記してあるどころか、福沢が関係している日本ガスという会社の、なんでもない書類だった。弁慶が安宅関で読んだ勧進帳なのである。 福沢としては、政府高官や金持ち代議士の鼻をあかして溜飲をさげればいいというだけの計画でやったもので、後始末をどうするか、そこまでは考えていない。おなじ政友倶楽部の尾崎行雄などは生真面目な男だから、福沢がふりかざした書類には収賄高官の名前が列記してあるとばかり思いこみ、内閣総辞職にもちこむチャンス到来と、はりきった。 書類が勧進帳だと知っていたのが岡崎邦輔で、あちこち、かけまわって了解をとりつけた。秘密会をひらき、福沢が再登壇して収賄云々の発言を取り消すということで始末をつけてくれた。 福沢は軽薄なやつだという悪評も生まれたが、本人は気にもしていない。国家の命運とか政治の神聖とか、そんな面倒くさいことはぜんぜん考えず、自分で稼いだカネを自分で好きなように使うことだけに熱中していた。 大正という時代は、こういう新型の金持ちが登場した時代でもあった。
「福沢桃介の経営学」 福沢桃介 五月書房 1985年 財界人物我観 無遠慮に申し上げ候
「コンサイス日本人名事典 改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年 福沢桃介(ふくざわ とうすけ) 1868~1938(明治1~昭和13)明治・大正期の実業家。 (系)岩崎紀一の子。福沢諭吉の養子となり、のち分家。 (生)埼玉県。 (学)慶応義塾。 1888(明治21)アメリカにわたり、ペンシルベニア鉄道の見習をした後、帰国。北海道炭鉱汽船、王子製紙など三井系の会社に勤務。1906瀬戸鉱山を設立し、社長の就任。その後、木曽川筋八百津発電所、矢作水力、大阪送電などを建設・設立し、1920(大正9)には5大電力資本の一角たる大同電力を設立、社長に就任した。1928(昭和3)引退。 (参)大西理平「福沢桃介翁伝」1937、堀和久 「電力王―福沢桃介」1984。
「コンサイス日本人名事典」 三省堂編修所 三省堂 1990年 川上貞奴(かわかみ さだやっこ) 1872~1946(明治5~昭和21)明治・大正・昭和期の女優。 (系)小熊久次郎の娘、川上音二郎の妻。(生)東京。(名)本名貞。 日本橋葭町の芸者であったが、1891(明治24)音二郎と結婚、洋行などの資金一切の援助をした。’99一座約20名で欧米巡業を行ない、1902再巡業。帰国後は<正劇>女優として活躍した。’08音二郎と帝国女優養成所を設立し、ここから帝劇女優が生まれた。音二郎の死後舞台を退き、一時川上児童楽劇団を主宰。わが国最初の女優とよぶにふさわしい女性であった。 (参)江崎惇「実録川上貞奴」1985。
「コンサイス日本人名事典 三省堂編修所 三省堂 1990年 川上音二郎(かわかみ おとじろう) 1864~1911(元治1~明治44)明治時代の新派劇の俳優。 (系)福岡藩主黒田氏の御用商人專蔵の子。(生)福岡県。 裁判所の給仕、新聞記者などをし、さらに自由民権運動に参加し、<演説遣い>にもなって<自由童子>と称した。1887(明治20)川上音二郎の芸名で歌舞伎俳優に加わって京都で出演、ついで大坂落語家の桂文之助に弟子入りし、<浮世亭○○>と名のって高座に出、オペケペー節で人気を得た。このころ角藤定憲が壮士芝居を始めたのに対して’90音二郎も同門の人や藤沢浅二郎を語らって<書生俄>を演じたが失敗。のち<書生芝居>を組織、大阪で「神風党」を演じて成功を収めた。’94東京浅草に進出し、伊井蓉峰らと共に相馬事件をタネにしたのが大当たりをとり、日清戦争の実況戦争劇を上演して成功した。’96神田三崎町に<川上座>を建て、明治劇壇に新派劇という新生面をきりひらき、また欧米巡業ののち1903<正劇>と名のって江見水蔭の翻案した「オセロ」などを上演した。’10大阪に<帝国座>を建設し、出演中に病気で倒れ、翌年死去した。川上貞奴は妻。 (参)牧村史陽「川上音二郎」全3巻、1963、井上精三「川上音二郎の生涯」1985。
桃介・独立のすすめ 財界の鬼才 電力王福沢桃介 冥府回廊(上) 女優貞奴 まかり通る 「桃介・独立のすすめ」 小島直記 新評社 1973年 第一章 提灯屋の二男坊 川越市は、埼玉県で最初に市制をしいたところである。大正十一年十二月一日、入間郡川越町が仙波村を合併してそうなった。 その川越町。鎌倉時代は河越といい、近世になって川越となったという。武蔵野台地の北端をしめる要地で、太田道灌が城をつくり、川越城、別名初雁城と称した。 江戸からは、板橋宿で中仙道とわかれ、上板橋、下練馬の両宿をへて埼玉県へはいり、新座郡の白子、膝折、大和田の三宿と、入間郡の大井宿をへて川越城下町にはいった。 これが川越街道で、両側に松や杉を植え、五街道クラスの並木道となっていた。現在の国道二五四号線がこれである。 その川越の高沢町蓮台寺門前へ岩崎紀一、サダという夫婦者が越してきたのは明治七年のことだった。 彼等はそれまで、川越から十二キロほどはなれた荒子村(のち比企郡東吉見村大字荒子)に住んでいた。 「うちは武田源氏の流れ」 ということをサダは子供たちにいいきかせている。 確たる証拠はなかったが、代々そういい伝えてきた。甲州には、東矢代郡に岩崎村というのがある。先祖は、武田氏につかえ、その村を領していた。 武田氏が亡びたとき、勝頼の妹というのが甲州から武蔵国に落ちてきて、川越の真行寺にはいって尼となった。このとき、岩崎家の先祖はこの妹について川越までやってきたが、主人が仏門に帰依したので、自分は荒子村に土着して百姓になったのだと、一門の人びとは信じている。 岩崎家では代々名主(村長)をつとめていた。その本家から、岩崎熊次郎が分家し、さらに熊次郎の家から岩崎武が分家し、さらに武の娘が分家した。 この分家した娘に外からむこがきて、サダという娘ができた。 そのサダにまたむこがきた。 「それがお前たちのおとっつあんだよ」 とサダはいう。 サダにむこ入りした紀一の家は矢部といい、これまた代々名主をつとめた名家である。 それがどういういきさつで岩崎サダのむこになったかははっきりしないが、はっきりしたのは、サダのところがきわめて貧しかったことだ。 本家からわけてもらったのはわずか一反歩の田で、「水呑百姓」もいいところである。百姓として独立の生計を営むには無理であった上に、紀一自身も名主の家におっとりと育った男で、百姓仕事には向いていなかった。 そこで荒物屋をはじめた。といっても、商売を切り盛りするのはサダの方である。彼女は勝気で才気煥発で、いわゆる「亭主を尻の下にしく」タイプなのだ。 紀一は、「蘭翠(らんすい)」という雅号をもっていた。荒物屋の亭主にはすぎた風流かもしれないが、書画を鑑賞し、漢詩をつくり、歌をよむ。 サダは、そういう非生活派の亭主にハッパをかけながらがんばってみたものの、ついに荒物屋にも行きづまり、新しい開運のチャンスを見つけようとして、その当時の都会――川越にうつってきた。 はじめ高沢町の蓮台寺門前、それから間もなく本町通りに転居して、提灯屋を開業した。字のうまい紀一の特技で食おう、というねらいだった。 二 夫婦には、育太郎、桃介、おれん、おてる、紀博、おすいの三男三女が生れた。 この二男坊桃介(ももすけ)が本篇の主人公で、荒子村から川越に転居したとき満六歳。この年小学校にはいっている。 その一番下の妹がのち画家の杉浦非水夫人となり、自分も歌人「杉浦翠子」として有名になるがそのおすいが「兄弟の縁」という回想記を書いた。 おすいはその中で、「大体岩崎家の血統中には、私ごとき性格者の産れることが当然であって、むしろ却(かえ)って桃介は変り種の感があります」と、次兄のことをやや否定的に書いている。 つまり、後年の大実業家桃介を、物質主義、黄金万能主義の権化のように見て、芸術に縁の遠い俗物あつかいをしているのだが、その意見の当否はこの物語全体で答えるとして、翠子のえがく「岩崎家の当然の性格」とは、この父親紀一の血をさしていることは注目していいとおもう。 「父岩崎紀一は書画を鑑賞し、漢詩をつくり、歌をよむの風流人型でしたが、その遺伝として歴然として顕現されたのが三人まで、すなわち長女れん子は絵画を好み、十五歳より修業し廿歳にして滝和亭の門下となり、上野公園開催の内国勧業博覧会に、竹林の七賢人を出品、授賞され、その作品はドイツ人の所望するところとなりました。しかし廿三歳の夭折(ようせつ)にて社会的に名を成すことはできませんでしたが、その若年にしての制作品は、識者の批判を受けて辱(はづか)しからぬものとおもいます。三男紀博が、これまた兄の言に従わぬ実業ぎらいでした。独学で書道と、易学を研究し、資本主義社会の現代において、無用の徒として生涯を送ってしまいました。一番末の翠子がまたそれであります。が、これは寡欲淡々たる風流人型の父紀一の遺伝であります。まったく三人とも兄の忌憚にふれる芸術家肌でしたから、これまた芸術家につきものの貧生活でおわり、なかんずくれん子などは貧しき人に自ら進み嫁して、いまは彼女の墓所さえもその寺から取除けられてしまったほどの社会的落伍者であります」 提灯屋を開いたとき、まだ紀博とおすいの二人は生まれていなかった。だが、生活の苦しさには変りはない。 もともと提灯屋など、大して利潤のあろうわけがない。しかも、ただ字がうまいというだけの素人に、注文が殺到するはずはなかった。 そこで傘屋を兼業したが、これまた一家をうるおすというまでにはいたらない。勝気なサダはそれが不満で、亭主にガミガミ文句をいった。紀一はじっとこらえているが、ときどき酒をのむと怒りだして、女房の顔を打ったりした。 そういう両親の争いを、二男坊の桃介が大きな美しい眼でじっと見ていた。まだ小学生とはいいながら、その眼で見られると、夫婦喧嘩はおのずとおさまった。 そういう光景を子供に見せては教育上わるい――という一般的な反省というよりも、もっと別のものが紀一とサダに働きかけていたようである。 長男の育太郎は、すでに家にいなかった。小学校だけおえると、すぐに丁稚奉公にいっていた。家計が苦しいだけでなく、もともと凡庸で学問ができなかったからだ。 ところが、二男坊はちがっていた。下駄を買ってやる余力はないので、桃介ははだしで学校に通っていた。学校の井戸ばたで足を洗って教室にはいり、帰りはまたはだしで家につき、足を洗って上にあがる。そのことを友だちにはわらわれていたが、学科となると、わらった連中は足もとにもおよばなかった。 「神童」 「天才」 という最大級の賛辞を学校教師にいわれて、サダは何度感涙にむせんだかわからない。 生活力のない不甲斐ない夫にかわって、岩崎の家を興すのはこの子にちがいない、とおもっていた。 紀一もまた、そういうせがれを誇りにおもう点では女房に劣らない。 家の宝ともいうべき桃介が、いかにも利溌そうな眼で見つめている前で、夫婦は目くじら立てて争うわけにゆかなくなったのだ。
「財界の鬼才 福沢桃介の生涯」 宮寺敏雄 四季社 1954年 (「経営の鬼才 福沢桃介」 宮寺敏雄 五月書房 1984年) 今春三月、旧友の下田将美君が来訪されて雑談してゐるうちに、たまたま、池田茂彬さんの著書「故人今人」のことについて、いろいろ面白い話が出た。その時、下田君から、『故人今人の中に福沢桃介論があるが、池田さんほどの人が福沢は天才であると評して居られる。君はその福沢に師事して成長した人間であるから、天才桃介とでも云ふやうなものを書いて見たらどうだ。今のうちに多少でも纏めて置かないと、福沢ほどの天才も後世全く忘れられた人とならう。』といふ親切な話が出て、更に同君が助太刀をしてやらうと云ふので、私もそれでは何か纏めて見ようかと、その時の話のはづみから筆を執ることになった。 元来、私は文筆には縁の遠い方で、到底自信は持てないが、下田君は経済評論家として、また、文章家として、広く世間に知られている人であるから、私は終始同君の助力にたよって著作することにした。謂はば下田、宮寺の共著と云ふべきであろう。(序より) -目 次- 第一話 鬼才点描 1 時代の子/2 後藤新平と肝胆相照らす/3 画期的な東海道電鉄/4 水力電源調査を活かす/5 寵妓を買切て園公に近づく/6 一生涯先払いの名案 第二話 生立から世に出るまで 1 貧家の次男坊/2 福沢家の養子となる/3 病人で相場に生きる/4 丸三商会の失敗が与えたもの/5 一代の反抗児 第三話 株式相場で産を成す 1 梅幸、羽左との花合戦/2 カンの良さは天稟/3 理づめの相場哲学/4 炭礦汽船株で池田茂彬を驚かす/5 産をなして足を洗う 第四話 事業界に入り電力王となる 1 事業界に入った動機/2 福博電気軌道会社/3 名古屋電燈を遠に中京へ/4 慎重な金融工作/5 電燈売込みの商略/6 幕下としての私の経験/7 覚王山下、桃介追憶之碑 第五話 成功した外資導入 1 大震災と大同電力の行詰り/2 珍妙な渡米三つ道具/3 紐育での名演説/4 礎石に偉人の言を刻す 第六話 政治とのつながり 1 政治家との交遊とその利用/2 日本の前途予言/3 代議士となって波瀾を起す 第七話 川上貞奴ものがたり 1 後半生の伴侶/2 貞奴の過去/3 命がけで谷底まで/4 自前経済の生活/5 二葉御殿/6 天才的な踊り/7 金剛山貞照寺 第八話 桃介の人間味 1 豊かな人情味/2 首切らぬ哲学/3 無言の叱責/4 雑誌ダイヤモンドの後援/5 情義に厚く恩義を忘れず 第九話 桃介式処世 1 桃介式なるもの/2 公私の別/3 園公に大根を、安田に雪駄を/4 私が叱られた話/5 ケチの真髄/6 稜々たる奇骨/7 ユーモアと奇智/8 粋な桃介 第十話 晩年の桃介 福沢桃介さんと私……松永安左エ門/私には生きた学問の先生……石山賢吉 福沢桃介年譜
「電力王 福沢桃介」 堀和久 ぱる出版 1984年 ★★ 貞奴、電力事業とのロマンに生きた福沢桃介の波乱に満ちた生涯!!福沢諭吉の娘婿としての栄光と転落を経て黎明期の電力界を制する事業家として活躍。また、運命の絆で結ばれた貞奴とのエピソードを描く。(帯コピー)
「冥府回廊(上)」 杉本苑子 文春文庫 1985年 ★ NHK大河ドラマ「春の波涛」原作明治半ば、福沢諭吉の次女房子がアメリカへ留学する婚約者の福沢桃介を見送りに品川へ行った時、そこへ馬で駆けつけてきた美貌の芸妓がいた。生涯にわたり宿命の糸で結ばれる、のちの大女優川上貞奴であった……。実業界で活躍する桃介、演劇界で名をなす川上音二郎たち、明治期の群像を描く。
「女優貞奴」 山口玲子 朝日文庫 1993年 伊藤博文はじめ維新の元勲達が贔屓にした芸者・奴。のちには壮士演劇の旗手・川上音二郎と結婚し、欧米興行の際、ジイドやピカソの絶賛を浴びた女優・貞奴。音二郎没後、福沢諭吉の女婿で《初恋の人》桃介との同棲生活に入る――ジャパニーズ・アクトレス川上貞奴の波瀾の生涯。(カバーのコピー) 第一章 酒の肴の物語/十五の春 (前略) 貞は乗馬を習うために本所緑町にある草刈庄五郎の道場へ通い始めた。天保二年生まれの庄五郎は五十歳、八条流馬術師範で鹿島流馬術の達人でもあった。 この道場で貞が習ったのは古風な武芸に基づく馬術だった。馬乗袴に白鉢巻のいでたちで乗ったのだろう。少女の躰つきは一年で見違えるように変る時期がある。小姓のような装(なり)でも、明らかに女とわかる貞の乗馬姿が隅田川べりを駆けて人目に立った。稽古を重ねた貞は遠乗りができるようになり、その遠乗りも自信がつくにつれて次第に距離がのびる。 ある日貞は、一人で成田山まで足をのばした。本所から千葉の成田までは五十キロ以上ある。帰途、船橋を過ぎた辺りで日が昏れ、野犬の群に襲われた。絶壁に追い詰められ、馬は前脚を空に足掻いていななく。貞は振り落とされまいとしがみつくのがせいいっぱいで、手にした鞭で犬を追い払う余裕はなかった。 どれほどこらえていたのか、吠えたてる犬の声が途切れて、悲鳴に変わり、その声も遠ざかっていった。振り向くと、人影が見えた。人っ子一人いなかったのに、忽然と現れた黒いシルエットが不動明王さながらに立っていた。まるで、先刻お詣りしてきたばかりのお不動様が本堂を抜け出て、助けに来てくれたかのようだった。貞は雷に打たれたように身が震えた。 人影が近づいて、貞に怪我はないかときいた。手に持っていたのは不動尊の右手にある降魔(ごうま)の剣ではなくて、棒切れである。拾った棒切れと小石で野犬を退散させてくれた書生風の身なりの青年は、慶応義塾の岩崎桃介(ももすけ)と名乗った。 動顛して礼も満足に言えなかった貞は、翌日菓子折りを持って、慶応の塾舎を訪ねた。三田台を散歩しながら、貞は桃介の母もさだという名前だときかされた。貞が生家はとっくに没落したと言うと、桃介は自分だって水呑み百姓の子だと笑った。桃介は水呑み百姓の子ではなかったが、母のさだが埼玉の旧家から分家して養子を迎えたあと、事業に失敗したので、学資も乏しかった。桃介はその名の通り、桃太郎のようにつやつやとして、意気軒昂な若者だった。 その後二人が親しく行き来するようになって、一年を過ぎた頃、桃介に縁談が起きた。「天は人の上に人を造らず」と『学問のすゝめ』を著し、学生の尊敬を集める慶応義塾の創立者福沢諭吉に認められて、桃介はアメリカへ留学し、帰朝の暁には諭吉の二女・房と結婚することになった。諭吉は明治十八年に『今日新聞』が試みた人気投票で「現今日本十傑」の第一位に選ばれている。二位は福地桜痴(おうち)、三位が伊藤博文だった。 桃介の渡米に先立って、結納がとり交わされた。 「大意(婚姻に関する覚書・結納)」 一、桃介夫婦の間は男尊女卑の旧弊を払い、貴婦人紳士の資格を維持し、相互に礼を尽して、以て一家の美を致すのみならず、広く世間の模範たるよう致す可き事。 明治十九年正月二十八日 諭吉記 全八項から成る覚書の終項の文面である。披露宴には、岩崎家の本家当主も出席した。埼玉の田舎から出て来た岩崎老人は、諭吉に食べ方を教わって、初めて洋食というものを口にしたという。その孫娘・富司(とみじ)が三十余年後に、貞の養女になって、川上家を嗣ぐことになる。しかしそれはまだ誰も予測し得ない先の話だった。 明治十九年に貞は十五歳、桃介は十八歳、少女と少年のほのかな初恋はあえなく押しやられた。 「お互いは道は違っても、いつか立派に成功して、またお目にかかりましょう」 貞は別れの言葉を告げて、桃介の旅立ちを見送った。 偉大なる福沢諭吉の娘と、雛奴では勝負にもならない。貞は涙を見せなかった。袂を噛んでうちしおれるのは貞の性格ではない。何が「天は人の上に人を造らず」かと、小石を蹴っとばした。貞は口惜しさに切りきざまれる心を乗馬にふり向け、あるいは柔道、玉突き、花札、コップ酒と手当たり次第に打ちこんだ。どれも並々ならず腕を上げた。汗を流せば腹ふくるる思いもやり過せたし、何よりも自分の悲しみの深さが貞にはまだわかっていなかった。ただ、むやみと猛々しくなり、「女西郷」と綽名された。 もともと穏和な質(たち)ではなかったが、とみに荒っぽくなった変わり方を、養母の可免だけは手負いの獅子のそれと知っていた。可免としても貞に劣らず悔しく腹立たしい。怒りのエネルギーは、貞が一本の芸者になる披露目の準備に注ぎこまれた。 「まかり通る(上)奔馬編 ―電力の鬼・松永安左エ門―」 小島直記 新潮文庫 1982年 壱岐の旧家に生れた松永安左エ門は、福沢諭吉の薫陶を受けるべく慶応義塾に入学するが、卒業を目前にして実業家への野望にめざめ三井呉服店に就職する。しかし、そこで与えられた仕事はひとりで勝手に思い描いていたのとはかけはなれており、ただちに辞職して日本銀行に移るがそこも辞職。その後もつぎつぎと失敗を重ねながら、独特の人生作法と商売のカンを身につけていく。
「コンサイス日本人名事典改訂版」 三省堂編修所 三省堂 1990年 松永安左衛門(まつなが やすざえもん) 1875~1971(明治8~昭和46)昭和期の財界人。 (生)長崎県。(学)慶応義塾。