北一輝が抱いたアジアへの夢  [反骨の系譜] 
芭蕉は「奥の細道」に「荒海や佐渡によこたふ天の川」という余りにも有名な句を残している。佐渡は、順徳院、日野資朝、日蓮、世阿弥などが配流され、多くは帰郷適わず魂魄を孤島に留め斃れた。江戸期には人狩りに遭った無宿人が金山の地底深く、水替え人足として使役され、万哭の恨みを残した怨念の島である。
保田與重郎が言うように、彼らに降りかかった非運を追慕し、中空に漂う怨念を天の川に託し魂鎮めとしてこの句を芭蕉は詠んだのだろうか。
幕末、吉田松陰は宮部鼎蔵と共に佐渡を訪ね、順徳院の墓所に参り、悲憤慷慨の一篇を残した。更に歩を進め、北一輝が31年後誕生することになる湊町に至り次の句を賦した。
『四山の残雪なほ皚皚(がいがい)たり
 梅蘂(ばいずい)いまだ看ず一点の開くを
 忽ち鶯語(おうご)を聞いて尋思(じんし)を驚かす
 二月すでに終り閏月(じゅんげつ)来る』松陰が詠ったのは佐渡の早春賦である。松陰の一途な人生はこの7年後に終わる。
「2・26事件」の首謀者として銃殺刑に処せられた北一輝。敗戦後、マッカーサーの私怨によって罪無き身を刑場に晒した本間雅晴。共に佐渡の人である。
荒海に霞み漂う歴史の島・佐渡。遠離の地故に、配流された敗残者、貴人を多く迎えた。素朴な島人たちは彼らを厚く遇する中で、中央権力への「反骨」を育て、その「系譜」が脈々と息づく島となった。
北の生家は、私の家から歩いて15分ばかりの所にある。
子供の頃、北について知りたがる私の問に、誰一人答える大人は居なかった。
それを問うた子供に対し、大人達の視線は異様な光を帯び、変人を通り越し危険人物を警戒するかの緊張があった。北は歴史の底に重しを付けられ浮かび上がれないよう葬られていたのだった。
佐渡人にとって言葉にするさえ憚られるタブーに私は触ったことを気付かされた。
大学に入った私は、新進気鋭・松本健一が世に問うた「若き北一輝」を貪るように読んだ。そこには全編私の故郷が描かれていた。私の家の前に続く浜辺の松林。そこで北が初恋の少女と語り合ったであろう青春の日々を追想し、望郷の念に駆られた。
夏休みに帰郷した私は、北一輝の墓を探し当て、深く額ずいた。罪人の墓は夏草に覆われ、訪れる者さえなく放置されていた。(今は整備され墓地全体が綺麗になっている)
それでも尚、私は北の思想に手を出そうとは思わなかった。
「霊告日記」に代表される北の神がかった後半生が、私を躊躇させた。
北に被せられた仮面は余りに不気味に見えた。大川周明によって「魔王」と形容された彼の思想と生き様は、凡人には難攻不落に思えた。
大学在学中に知り、今に至るも私に大きな影響を与える政治家に「中野正剛」がいる。
彼は、北と心許しあった友であった。中野正剛は辛亥革命に、多少の関わりを持ち、頭山満の玄洋社は中野の故郷・福岡にあり、頭山は北と共に辛亥革命に深く関わていた。孫文や宋教仁の軌跡を追い、辛亥革命と当時の日本を振り返る時、北一輝を迂回して語れないことに気付いてはいた。
波乱万丈54年の北の生涯と同年を迎えるまで私は馬齢を重ねてしまった。北一輝と向き合わねばならない。同郷の先輩を敬して遠避けた慙愧から、北を望遠鏡でも顕微鏡からでもなく私の目線で捉えてみようと、この一文を草することにした。

[若き革命思想家誕生]明治16年(1883年)4月3日、北輝次(一輝)は佐渡・両津湊町に生まれた。
偶然ではあるが、昭和21年(1946年)同日、フイリピンに於いて同郷の本間雅晴が刑死している。
湊町一、二の分限者の家に産まれ、家業(酒造業)の傍ら政治に熱中する父の慌しい毎日、行き交う人々との激しい遣り取りが少年に「何か」を植え付け、学業の傍ら私塾で漢学を学び、明治30年(1897年)北は第一回生として佐渡中学校に入学した。
創立の意気に燃えた情熱的な教師たちは在校生に大きな影響を与えた。特に感化を与えた教師に長谷川清(後、淑夫と改名、号・楽天)がいる。英語教師の長谷川から北は英語の修習ではなく、進化論や英国史を始めとする世界史などの課外授業で、思想家として基礎が形作られた。北との師弟関係は僅か三年であったが、交友は続いた。以降長谷川は一生を文筆に生きた。後に筆禍事件を起こし不敬罪で入獄させられている。
長谷川の長男・海太郎は後の林不忘「丹下左膳」の作者として名高いし、隻眼の左膳のモデルは北であったとも言われている。
序ながら、本間雅晴が台湾軍司令官時代の、台湾総督は同名別人の長谷川清であった。
眼病を患った彼は、休学、復学、落第の不運に見舞われ退学した。
明治34年(1901年)7ヶ月間も新潟の眼科院に入院。退院した北は初めて上京する。
激動の20世紀開幕の年。そこで北は、社会民主党結成の興奮をリアルタイムで味わった。
北の悲恋に終わる初恋もまたこの頃のことである。


『みえずみ江ずなる人かげをみおくりて
 逢はれん思あはれぬ思』
(明治34年2月23日発行「明星」)少年の純情が切なく伝わってくる。
明治36年、両津町初代町長などを歴任した父ではあったが、衰運に向かう家産を残し急逝。何かを振り切るように、北は10月「輝次郎」と自ら改名した。
一家の大黒柱になった北は煩悶の中にあった。北は佐渡に埋もれる気はなかった。
孤島に沈潜する寂寥感、疎外感に苛まれながら、明星ばりの詩を詠み、時論を「佐渡新聞」に投稿。早熟な少年・輝次の思想家の芽は日に日に大木に育ち始めていた。
「国民対皇室の歴史的観察」「咄(とつ)非戦論を云う者」等など。不敬の謗りに怯みもせず、日露戦争開戦前夜の激しい論戦に北は参戦して行った。
島人にとって船で渡る対岸は、新潟ではなく本土であり、それは東京と同義語だった。
知的好奇心を満たす修行の場であり、人生の本舞台そのものを意味した。
当時の連絡船「度津丸」が吐き出す汽笛の音は、北に焦燥感と取り残される漠然とした不安を与えていただろう。
北の中学の後輩・青野季吉はその心境を

『少年の日 私はこの美しい入江の岸辺に
ぼんやり立っていた 何を待つともなしに』と詠った。佐渡人が等しく体感する思いである。
インテリ遊民の生活から脱し、戦場への旅立ちの日が迫っていた。
明治37年(1904年)夏21歳上京。早稲田界隈の下宿で、弟・ク吉(元・代議士)と共同生活を始め、早稲田で聴講生として学び、大学図書館、上野図書館に通い、日露戦争の喧騒に関わらず古今の書籍に没頭した。
この時、北は「佐渡中学生諸君に与ふ」と題する一詩を投稿し自らの旅立ちへの餞とし、苦く切なく悲恋に終わった青春への葬送曲とした。
『(略)ああ友よ。 名を求むるか、脆し。
 理想こそ永久なる  ソーシャリズムあり。
 恋か、小さし。
 意気のみぞ不滅なる  デモクラシーに来たれ。
 棺を蓋ふも名は定まらず、繊手何ぞ瞑目の枕ならむ。
 裸形六尺の骸、血滑らかに、ギロチンの刃にこそ。』
明治39年(1906年)5月、23歳の折「国体論及び純正社会主義」を自費出版で世に問うた。後に、板垣退助をして、『御前の生まれ方が遅かった。この著述が20年早かったらば我自由党の運動は別の方向を取って居った』と言わしめた天才・革命思想家誕生の瞬間である。
しかし、父死して後の経済的困窮が始まっていた。金策に苦労した末の発刊であったが、旬日を経ずして発禁処分となった。
北の人生の波乱万丈、容易ならざる航路を予感させるデビューである。
北の思想の源流は、日本的共同社会主義者・西郷隆盛にあった。
最近話題になったアメリカ映画「ラスト・サムライ」で助演の渡辺謙は西郷をモデルとした古武士「カツモト」を演じた。彼らの住まう映画上の空間では、農民にして武士のサムライ達が、武術の練磨に励み、農耕に勤しむ姿が描かれていた。屯田兵と見るべきなのだろう。土地は私有ではなく公有であることが推測された。貧しくはあっても道義が尊重される社会が営まれていた。東洋的共和政治はカリスマ的強力な指導者に率いられる。カリスマの資質は「天を畏れ民を安んずるの心」の持ち主で無ければならない。
正に「敬天愛人」を唱えた西郷そのもの。北の著述を読みイメージを膨らませ脚本が出来たのかと錯覚する出来栄えであった。
北一輝は社会主義者である。
社会主義社会建設に至る方策を、この千頁に及ぶ思想書で北は提起したのである。
北の目指した政体は東洋的共和政であり、社会主義社会の実現を目標にした。
戊辰戦役から憲法発布、議会開設までを北は第一期・維新と規定した。
維新の志士、自由民権の闘志が家郷を擲ち、命を賭け勝ち取った憲法。本来それは民主国である(はず)。然るに、誤れる支配層の恣意に依り、復古的国体論に眩まされ天皇が絶対専制君主となり、資本家・地主が恣に国政を壟断し、民を圧迫するに至っている。維新革命の心的体現者・大西郷が群がり殺された明治10年以降の日本は、道義去り復辟の背信的逆転が為されている。
しかし日清、日露の両戦役を戦った国民は愛国に目覚め、国家の主体として意識が覚醒されたはず。普通選挙権さえ獲得できれば、議会において多数派が、平和裏に維新革命を成就できる。北は民権の活力とその可能性に全幅の信頼を置いた。
明治期の日本人にとって「国民国家」の誕生は、革命的なまで目の眩む感動であったことが判る。北にとって父の時代の自由民権運動は羨望と憧憬の対象であった。政治は技術でなく意気であり『身は白刃に斃れんとして而も自由は死せずと絶叫』し、まっしぐらに突き進む、たぎる情熱だった。
それは西洋文明が導入され覚醒されたばかりの日本において早すぎる提言だった。翻訳輸入者が泰斗とされた時代に余りに独創的であった。北にとってそれは必然的に現状への不満に繋がり「普通選挙権」を獲得し、「ソーシャリズム」「デモクラシー」実現を目指すことは後の革命路線に敷衍することが予感された。
数年を費やし、脳漿の全てを搾り出し世に送った処女作は呆気なく闇に葬られた。
しかし北は昔日の北ではなかった。文名大いに上がり幸徳秋水、片山潜、堺利彦などの社会主義者達から注目され、同士としての誘いを受けた。が友人として幸徳との往来は続けたものの盟を約すことはなかった。
『孤行独歩、何者をも敵として敢然たる可しという論客の一人位は必要に候』
群れを好まず、独自の道を闊歩する気概に溢れたこの頃の心境である。 [革命の支那へ]

宮崎滔天が主宰する「革命評論」が明治39年9月に創刊された。
同人には、平山周、萱野長知、清藤幸七郎などがいた。
明治38年8月に結成された「中国革命同盟会」の日本人部機関紙としての性格を持った同人誌であった。中国革命同盟会は、日本を拠点に活動しながら、それまで分立していた三派、即ち孫文の興中会、章丙燐の光復会、黄興・宋教仁の華興会が宮崎滔天、内田良平らの斡旋で大同団結し出来た組織である。総理には孫文が選出された。
「支那風豪傑」が屯する梁山泊に、北は弟・ク吉に誘われ「仮の止り木」に拠るほどの軽い気持ちで参画することになる。北一輝と中国革命との結びつきは、躯幹偉大・革命浪人滔天との出会いに依って始まった。これが大正8年まで13年間に亘って没頭する中国革命への第一歩となった。
中国革命同盟会は、内紛絶えず、明治40年3月、孫文が日本政府から餞別を受け離日した頃から、修復不能状態にまでなった。
金銭問題から端を発してはいるが、日ごろから抱いていた孫文の独裁的会運営への不満と、革命戦略の違いから溝を深めていたのである。
孫文の戦略は、本拠を香港、ハノイ、シンガポールなど外国に置き、海外華僑から資金を集め武器を調達、日本軍部やフランス安南総督などの外国勢力と結び、国内勢力と呼応し外国から攻め込むというもの。しかし外国勢力への過度の依存は、起義成った後、外国から干渉を招く恐れありと危惧された。 蜂起地点は中国南部、広東省・雲南省に限られた辺境革命。孫文に付き従っていたのは胡漢民、廖仲ィ、汪兆銘、そして孫派と宋派の中間で彌縫策を巡らせた黄興である。地道な革命勢力の養成とその組織化に力を注がず、他力本願に過ぎ、僥倖頼みで蜂起が繰り返され犠牲者を増やし続けていた。
維新前夜、竜馬や松陰や晋作が斃された様に、支那でも幾多の志士が累々と屍を晒した。
宋教仁をして『奉ずべき王者』『没せずんば今日、孫愚袁奸をみざるべし』と嘆かせた趙聲のような志士が幾人も非命に斃された。後年、為政者は自身の統治の正当性を強弁する必要から、「真の英雄」を抹殺し、その痕跡すら青史に留めなかった。思いがけない凡人が「英雄」に祭り挙げられる喜劇を鮮明に記憶に留め置きたいものだ。
宋教仁や譚人鳳たちの戦略は、『外邦の武器を持たず、外人の援助を仰がざる、革命の鮮血道』を行く心構えのものだった。上海は全支那世論の神経中枢、維新期の京都に匹敵。その上海に拠点を置き、揚子江一帯に勢力を扶植し、『叛逆の剣を統治者の腰間から盗む』軍隊工作に全力を傾注、合体蜂起を策し、国家的統一を失わず、中央政権を奪取する。中央革命(長江革命)路線が採択された。
中国革命同盟会は、孫文の南方同盟会と譚・宋派の中部同盟会に事実上分裂していた。
明治44年(1911年)7月31日、中部同盟会が結成され、
10月10日、武昌に於いて遂に革命の烽火は上がった。
10月19日、宋教仁から、日本の内田良平に血飛沫滴る電報が届く。
  『北君イツ発ツカ返待ツ』
10月26日、北は新橋駅を発ち、10月31日上海に到着した。
北一輝 28歳。疾風怒濤の革命運動に単身乗り込む。白面の貴公子かくして大陸の革命家となり「北一輝」と名乗るようになった。
武昌まで船で遡航、また南京、そして上海、弾雨の中を縦横に駆け巡った。
12月2日、南京、遂に革命派に落つ。臨時政府の樹立が日程に上った。この時期、孫文は世界遊説に出かけ、母国・中国は元より日本にすらいなかった。
孫文が蜂起の成功を知るのは、アメリカに於いて、それも新聞からであった。
12月25日、孫文帰国。張繼の調停で、孫文・宋教仁との和解為り、
明治45年(1912年)1月1日、孫文が中華民国臨時大総統に就任した。
北は宋教仁を「冷頭不惑の国家主義者」「一貫動かざる剛毅誠烈の愛国者」と評し、深く敬愛した。自分をのみ恃む事多かった北が生涯の契りを結び、共に革命の砲火を潜り、抱寝の夜熱く語り、成就の夢を追い続けたのだった。
それだけに、孫文に対する採点は辛く孫文の「米国的夢想共和政」は中国の歴史に照らしアメリカ共和政の翻訳に過ぎ実現不可能と断じた。辛亥革命は、失敗続きの孫文の辺境蜂起路線から訣別し、新たな路線を打ち立て、憂国の念に燃える国家民族主義者が為した回天であり、孫文は革命運動の代表者にあらず局外者なりと断じた。維新功業の火付け役は確かに水戸ではある。だが成った後、薩長政府に分け前寄越せと言えるや否や。
『革命は腐敗堕落を極めた亡国の骸より産まれんとする新興の声なり。産まれんとする児の健やかなるか否かは只この意気精神の有無に存す』怯懦の孫にその意気ありや。
村上一郎はその著書「北一輝論」に於いて『武昌起義から数ヶ月間のプロセスはそれ以後のプロセスに比し、類なく美しかったと思うし、その美しさには北一輝や宋教仁の路線の推進が与って大きい力をなしたのではないか』と記している。
この時期の高揚しながらも冷徹な北の心境を清藤幸七郎あての書簡で知ることが出来る。
北は、日本が果たしてきた中国革命に対する貢献の大きさを強調し『日本の国家主義、民族主義から、排満興漢の思想ができた』と誇りながらも『日本は革命の父である』だが、これは両刃の剣である。中国は『根本的に、精神的に親日』である。しかし対応を誤れば『明らかに排日』に転換する恐れがある。『新興国に対し(中略)侮りがみえたら最後、日本は(中国)全四百余州からボイコットされるのだ』と警鐘を鳴らし『日本の対支那政策も一変しなければならぬ』と喚起を促した。
臨時革命政府では、北京を中心に勢力を維持する北方軍閥・袁世凱との決着が課題だった。革命派は、外国とりわけ日・英・露三カ国からの干渉に神経を尖らせた。満清朝廷温存に繋がる立憲君主制の強要や、袁・孫妥協の斡旋、ロシアによる蒙古蚕食への日本の黙認、そして切迫する財政状況、亡国的借款など。
北が日本政府に望んだのは、「王者の如き善意なる傍観」好意的中立であった。『革命とは亡国と興国との過度に架する冒険なる丸木橋なり』革命の橋を渡り、興国の彼岸に達せんともがくも未だ渡橋半ばの支那に、アジアの盟主たるべき日本が、白人列強の走狗となり、旧権力の温存に加担する。愚呆、驕慢な為政者、雷同する大陸浪人に怒りの刃を向けるも、革命を知らず、支那軽蔑観に目を覆われた者たちに届くことはなかった。
明治45年2月13日、武昌蜂起から4ヶ月。袁世凱との南北和議成立。求心力なき「木偶・孫文」はわずか3ヶ月足らずで「臨時大総統」の座を袁世凱に譲り、悄然と中国を離れることになる。第一革命はかくして失敗に終った。宋教仁に日本の非を指摘された北は『日本人たる不肖の忍ぶ能はざる所なりき』と慨嘆した。
宋教仁は、袁世凱に請われ農林総長として入閣した。宋は強大な軍事力を擁する袁を恐れてはいなかった。革命を起こしたのは宋一派であり、臨時革命政府組織大綱21条は宋の意が色濃く反映され「中華民国臨時約法」として3月12日に袁世凱により公布された。議会の開設が出来れば、多数を獲得し責任内閣を作り大総統・袁を牽制出来ると読んだ。
宋教仁は孫文と共に国民党を組織し、大正2年(1913年)2月の選挙に臨んだ。
結果は目論見通り、宋の擁した国民党が圧倒的第一党となり、実権を握る宋が最大実力者となった。
宋を脅威と警戒し窮地に追い込まれた袁世凱らは3月20日、上海停車場で宋を暗殺した。
宋は滝の如く流れる血潮を押さえながら『南北統一は余の素志なり。小故を以って相争い国家を誤る勿れ』と遺言した。宋の死は革命党の脳髄が砕けたに等しかった。
北伐討袁の旗挙がり、第二革命が勃発、内乱が繰り返され、群雄割拠、列強の介入を許す混乱へと繋がっていった。
北の嘆きは尋常でなかった。真犯人を探し出さずば「革命に生き、彗星の如く消えた友」に顔向けできない。また成仏出来るはずもない。許さじと奔走する北もまた、日本にとっては紛争を呼ぶ爆裂弾であり邪魔な存在に過ぎなかった。
4月8日、北は上海領事館より「退清命令」を受け、向こう三年間の清国在留禁止措置を受け上海埠頭より船上の人となった。ジャンク行き交う揚子江を下りながら遠ざかる日々を偲び、双頬を濡らし滂沱と流れる涙を拭いもせず、孤影悄然、川風に吹かれていた。
「長江流れて濁流海に入ること千万里  白鴎時に叫んで静寂死の如し
 断腸の身を欄に寄せて千古の愁を包める浮雲を望み
 天日の悲しみを仰ぐ  限りなき追憶は走馬灯の如く眼前に浮かびては消え」

[支那革命外史]
日本に戻った北は大正4年「支那革命外史」を、大隈総理や政府要人たちへの入説の書として書き上げ、日本の対中外交の転換を促した。
革命の実見者にして、革命の支那に熱い思いを傾けた実践者・北入魂の覚醒的日本外交論であった。「日・支」和すべし。革命中国を擁護し、共存の道を図り、連携して世界戦略を打ち立てよ。日本海を地中海に擬し内海とするアジアの大ローマ帝国構想である。
日本に期待する中国国民を犲狼の羊言で裏切ってはならない。支那の割亡に繋がるイギリスを先頭にした鉄道敷設に名を借りた資本侵略の走狗に堕せば、その憎しみは倍化し熾烈なものになる。今のまま放置はできない。取り返しがつかなく為る。中国のナショナリズムを侮ってはならない。
「日・支」共通の敵はイギリスでありロシアである。イギリス追随の外交方針を放棄せよ。
アジアから駆逐すべきである。中国革命最大の妨害者、侵略者に兵を向けよ。
ドイツと同盟し東西呼応しイギリスに当れ。日本がイギリスから奪取するのは、香港、シンガポール、豪州、英領太平洋諸島である。
インドはイギリスから解放し独立させねばならぬ。
中国は有史以来の敵・ロシアと戦うべきである。蒙古を奪い返し併合し、日本がシベリア諸州を奪う。日本人の血が滲み込んだ満州はロシアの南下を食止め、支那を保全する防壁。日本が進駐し防人たるべし。
そしてアメリカと経済同盟を結び、中国開発にアメリカ資本の参加を促す。
日・米戦うなかれ。日本が唯我独走の道を驀進すれば、イギリスに合体したアメリカを含む白人同盟軍と支那が手を結び日本に向かってくるは必定である。支那は民族的死力を結集し日本に抗戦する。日本は必ず滅亡してしまう。
この後の、日本の運命を恐ろしいほど見通した眼力である。北一輝 32歳。
そして大正5年(1916年)6月、北は再び、上海に渡った。
隻眼ではあっても北には、「対華21か条」の調印から始まる排日・侮日に結集する大衆の怒りが燎原の火の如く燃え盛るのが見えていた。暗澹たる思いを抱き、大正8年「五・四運動」で爆発する反日・民族運動の炎のなかに身を晒した。
大正8年(1919年)は革命運動が世界的な高まりを見せた時期であった。
第一次世界大戦が前年11月に終結し、ヨーロッパ諸国は疲弊し、アメリカが世界のリーダーとして勃興した。「五・四運動」は6月に上海に飛び火し全国に波及した。
朝鮮でも「三・一万歳事件」が起こり、日本からの独立を求めるデモが京城で起き、蜂起は全国に拡大した。総参加者136万名、死者6670名、投獄52730名。
インドでもエジプトでも民族解放運動が激しさを加え始めていた。
日本でも前年8月の米騒動を切っ掛けに階級闘争の萌芽が見られ、デモクラシー運動、普通選挙権獲得に結集した大衆行動や、労働争議も増発していた。
北一輝は「国家改造案原理大綱」を上海で40日余の断食を続け一気に書き上げた。
『そうだ、日本へ帰ろう。日本の魂のドン底から覆へして、日本自らの革命に当たろう』
大正8年(1919年)12月、北一輝の13年間に及んだ中国革命との関わりは、汽船から吐き出される煤煙が万里長江を漂い行くように終わった。
大正12年5月、伏字だらけではあったが衝撃の革命手引書が出版された。
「日本改造法案大綱」と改題されて。
北が大陸的豪雄・譚人鳳の孫を養子に迎え「大輝」と命名したのはこの頃である。
大輝は革命に起ち、革命を戦い、革命の大地に生を受けた「革命の子」。
母を弑して産まれた幼子は肉親の温もりを知らず、我を父よと健気に慕い寄る。この子の同朋が父の故国に怒りと憎しみを燃やし怒涛の群集となり、叫び狂っている。見よ!先頭に立つは、悉く父の嘗ての同志ではないか。
哀れなるかな、二つの国に引き裂かれる吾子よ! 北の苦悩と嘆きが伝わってくる。
北は生涯、革命の孤児・大輝を盲愛した。気丈夫な彼が、妻に一度だけさめざめと泣く姿を見せている。『お前ほど不幸なものはない』処刑前、大輝との最後の別れに際してである。
[日本を憂いて]
近代、佐渡は特異な刻印を記す幾多の天才を世に送り出した。
一人は、司馬遼太郎が「胡蝶の夢」で描いた語学の天才・司馬凌海であり、一人は皇居・明治宮殿屋根の両端に瑞鳥の鋳銅を羽ばたかせた人間国宝・佐々木象堂。そして一人は言うまでも無く本編の主人公・北一輝である。
いずれも、天領の自由な空気を腹一杯吸い込みながらも、孤島の鎧を身につけ、権威に挑む反骨の気風に鍛えられた天才たちである。
思想が独創的で先鋭であっても、実力通り認められない時代であった。
鋭敏な頭脳のはけ口を中国革命に求め、支那を愛し、青春の全てをそこに捧げ、大陸浪人の属性を身に付け、遂には刑死への道を無造作に開いた神がかった後半生に、私は旧時代への限りない懐かしさを抱く。故郷から出でた偉人を敬う気持ちだけでなく、後年の北の金に対するだらしなさ、恐喝まがいの醜さまでもが、私にはいとおしい。北に見えていたこの国の行く末、それを案じ渾身の思いを込め世に問うた提言が、一部青年将校を除き、見向きもされず放置された無念と、軍内部の派閥争いが嵩じた末の騒乱であり、それを黙認していた軍首脳の責任遁れによる転嫁で首謀者とされた同情から。
北はこれまで三度殺されている。
銃殺による刑死は肉体の死滅であり。天皇に弓引く大罪人として刑死した「国賊・不忠者」に対し、故郷は出生地記録と在籍証明を島民の記憶から抹消させた。そして戦後は、大陸への侵略戦争を鼓吹し軍部を扇動した思想家として断罪され遺棄された。
昭和30年代、私が味わった佐渡の示した北への厳しい審判はこの総合体であった。
醒めた北一輝は、現代に於いても尚「右翼の教祖」と扱われる自分を、自らの軽躁が為した「まがごと」と軽蔑し、屈辱すら覚えているのではないだろうか。
右であれ左であれ、北への偏見を無くし、帝国主義の時代に、世界と向き合った北の思想の先見性と独創性を冷静に見れば、好悪は別として評価は自ずと変わるはずである。
大衆(マス)に向かい、生活苦の原因を摘出し、怒りを掻き立て扇動し、共に蜂起しようと先頭に立った訳ではない。印象としては閑静な豪邸の奥深く、気迫を込め一心に法華教を朗誦する「行者」の生活だった。
「2・26事件」の思想的な指導者として、断罪されたが、北は無惨に敗戦まで転がる日本の運命を見通していた。北が「日本改造法案大綱」で示した諸改革はアメリカ主導で作られた日本国憲法や、その後の法律で意外にもほとんどが成案になった。
「改造法案」は「国民の天皇」から書き起こし、「天皇の原義」は「国民の総代表」と規定した。「象徴天皇」となった戦後、今の我々から見て全く違和感のない天皇観である。
「天皇の国民」で無い点が注目に値する。
そして、華族制廃止や治安維持法・新聞紙条例・出版法の廃止、長時間労働・幼年労働の禁止。普通選挙権や労働争議権、児童の権利、教育の権利などが定められている。
三島由紀夫は『現憲法は北の日本改造法案大綱をモデルにして、しかもその内天皇の統帥権や軍事的クーデターのところだけを巧みに除外して作ったものだ』と言った。
GHQの中に北の著作を読んだ者が、いたのだろうか。当時、占領軍が参考にするとすれば北の労作以外、総合的に纏められた物はほとんどなかったのだから、ありうる話である。
生涯に三冊の書を残し、北一輝は自らの思想に殉じた青年将校の後を追い、泰然と刑場の露と消えた。
昭和12年8月19日 蝉時雨を浴びての最期である。 享年54歳であった。
北の養子・大輝はその後、父と同じ早稲田で学び、終戦直後の8月19日、父が愛して已まなかった上海で客死する。そこは自分の故郷であり、愛する父を追うように父と同じ命日でもあった。享年 31歳。

[永劫の旅人・北一輝]

北は未だに謀反人である。思想家として正当な認知も与えられていない。寂しいことだ。北の浪人生活も後世の人々から決して好意的に見られていない。しかし北は魂を誰にも売り渡さなかったし、恐喝であれ、強奪であれ阿ることは無かった。
昨今の、(文化人)と称する「売文・売顔(テレビ)」知識人の「右顧左眄」「大衆迎合」に由る妄言の為す犯罪性に比ぶれば、罪は比すべくもない。口舌を以って生活の資とする輩よりは、余程男らしく、毅然として見える。
 [泡銭を遊興に遣おうと、それは思想を鍛える肥やし。真個の男児の生き様、その痛快さ、君達に判るまい ホザケ!市民社会に逃げ込んだ「エセ倫理家共」]
哄笑する北の嘯きが聞こえる様だ。「去勢された宦官」(石原慎太郎)に成り果てた「行儀大好き」市民文化を、北は甘楽甘楽(かんらかんら)と笑い飛ばし、法華経三昧に没入し、闇の彼方で隻眼を光らせ皮肉な笑みを一人浮かべているように思える。
[君たちは時代と共に生きる現実空気の奴隷。突き抜ける思想、在るを知れ。次代が看えた不幸、我への愛惜、戯言に如かず。唯一人にて往かん已!]
戦後の占領政策によって、歴史教育を否定され、民族の記憶である国民の歴史が奪われた。倒錯した歴史観が移植され、遂には国家について考えることがおぞましい事のように思うようになった。「国家感を喪失」し、思考停止に陥りこの60年間私たちは経済の成長神話を国是として漂ってきた。結果、昭和も大正も日清・日露の戦役も記憶から葬られた。
取り分け昭和前期の記憶は一切が、明治より遠くへ追い遣られてしまった。
この過程で、北一輝も本間雅晴も、故郷の記憶から消えたのである。
今尚、北は右翼民族主義者、フアシスト・国粋主義者、国家社会主義者、東洋的コミユーン革命主義者、対外膨張帝国主義者など様々な冠を被せられたままである。
新潟県小千谷市が生んだ世界的詩人に西脇順三郎がいる。
その代表的な長編詩集「旅人かへらず」の巻尾に、
「幻影の人は去る  永劫の旅人は帰らず」と詠い結ばれ、その詩碑が小千谷市街を見下ろす山頂に建立されている。
私は、その詩句に感動しながらも、モヤモヤとしたじれったい思いを永く抱き拘って来た。
西脇は「はしがき」に『通常の理知や情念では解決できない割り切れない人間がいる。これを自分は「幻影の人」と呼び、また「永劫の旅人」と考える』と解説した。
まさに、北一輝の事ではないか。北一輝と長い時間向き合う内、詩人・西脇の詩心とは違っても私の中で解けなかった拘りは氷解した。
北一輝は去った。今も歴史の闇に放置されたまま。
英雄化を望むのではないが、いつか「正当に蘇る日」が来ることを信じたい。
そして待ちたい。しかしそれは残念ながら自分たちの時代では無理かも知れない。孫たちに私たち世代の、間の抜けた馬鹿馬鹿しい営みを伝え、私は、私たち世代は早急に退場すべきと思っている。
未だ見ぬ孫たちよ!先人が挑んだように世界にアジアに目を開け。アジアの日本であることを忘れるな。時代が伝える評価を疑え。マスコミの流す空気に怯むな。時流に阿る安易に流されるな。自分が産まれたこの国の辿った歴史を学び、自分の信ずる道を発見して欲しい。そして私たち世代が葬り放置した民族の涙痕血史にエールを送り、愛情を込めて学び、日本を、我祖国を、再生させる世代であって欲しい。
世界は今尚、狼たちの戦場である。誇りを無くし、曖昧な笑みを浮かべ追従するを恥と悟って欲しい。自ら戦い、守り抜き、秩序を提言する気概なくて何の独立国か。
「好戦」と「自衛自尊」とは次元の違う話である。
古い映画の言葉であるが『強くなければ優しくなれない』至言である。
アジアは、世界は私たちに嘗てあった峨峨とした風格ある武士道精神の回帰を待っているのではあるまいか。

『蘇れ!日本。』 酔生独白に過ぎるとも。
70年安保世代の私にとって忘れられない映画がある。
「寅さん」「健さん」もこの時代の主人公では在ったが、深夜映画5本立て上映の一本に鈴木清順監督の快作「けんかえれじい」があり若者を虜にしていた。
喧嘩に明け暮れる旧制高校生の痛快な青春。喧嘩の果て主人公が夜行列車で東京に向かう。見れば泰然と紳士が一人。北一輝である。大きな喧嘩をやるための上京だ。吹雪舞う闇に轟然と響く機関車の音。「2・26事件前夜」波乱万丈青春ど真ん中、いざ殴りこみ「完」。
スカッと突き抜けた明るさ、若者のエネルギーと時代のダイナミズムに私は酔った。
北一輝をこんな風にも描くことが出来るのか、私の青春が始まろうとしていた頃の思い出である。
(浅学非才、付け焼刃の独学故、『北一輝著作集』中、取り分け「国体論」は私には難解過ぎた。松本健一氏を始め、北一輝に関する先哲の労作を参考にさせていただき、自分なりに咀嚼し、梗概とした。特に松本健一氏と渡辺京二氏の『北一輝』(朝日選書)に負う所多く感謝申し上げたい)
《主な参考文献》
「北一輝著作集1,2,3」(みすず書房刊) 「若き北一輝」(松本健一)
「北一輝論」(村上一郎)「北一輝とク吉」(稲辺小二郎)「西郷南州遺訓」
「北一輝」(渡辺京二)「旅人かへらず」(西脇順三郎)「日本の目覚め」(岡倉覚三)
「佐渡」(青野季吉) 「兄北一輝を語る」(北ク吉) 「人間の運命」(小島直記)
「佐渡の北一輝」(共著)「評論北一輝1、2」(松本健一)「伝宮崎滔天」(高野澄)
「33年の夢」(宮崎滔天)「孫文と中国革命」(野沢豊)「孫文選集1,2,3」
「孫文と中国の革命運動」(堀川哲男) 「西太后」(浜久雄)
「佐渡の百年」(山本修之助) 「代表的日本人」(内村鑑三) 他