大島渚監督が亡くなった。
大島渚監督の作品はたぶんすべて観ているが、「愛のコリーダ」の完全版はパリのカルチェラタンの小さな映画館で観て、これが最高傑作だと確信した。パリの観客はあのハードコアのセックスシーンで、なぜか笑っていたけれど。なぜ、だろう?
大島さんに初めて会った(というか、顔を見た)のは1969年。当時美術家の故・工藤哲巳さんがパリから1年ほど日本に帰国していて、まだ学生だったぼくともいろいろ交流があり、工藤さんが当時借りていた新宿の抜け弁天近くのアパートに遊びに行ったときのこと。大島組の撮影監督だった吉岡康弘さんと工藤さんは高校の同級生で、何かの撮影(年譜からすると『儀式』か?)の見学に工藤さんに付いて行き、終わった後の飲み会にも参加させてもらった。工藤さんが大島さんから「マムシ酒」(一升瓶の焼酎に一匹まるまるの毒蛇マムシが入っていた)をいただき、アパートに帰ってそれを2人で飲み干した(その後工藤さんはアル中になり、さんざん苦労するのだが)。
それからぼくは多摩美大のバリケードが機動隊に撤去された際に逮捕されて、起訴保留で出た後にまた別の闘争で逮捕令状が出て、ちょっと隠れていたころにお世話になった写真家の中平卓馬さんに、いろいろ決着がついた後の1970年初夏「サンデー毎日」の編集者だった松島利行さん(現・映画評論家)に紹介されて(二人は東京外国語大学の同級生だった)同誌でアルバイトをするようになったのだが、この松島さんが毎晩のように連れて行ってくれた新宿2丁目のバーがまた大島組のたまり場で、何度も大島監督の酔態、怒号、高説に接した。とてつもないカリスマだった。しかし、当時の大島さんは、若干38歳!今振り返れば信じられないほどの、まだガキだ。
70年代初頭は、日本という国そのもの(戦後の日本)がまだ若く、上り坂で、若い力が本当にこの国を牽引していたのだ、と改めて感慨深い。