椹木野衣 Noi Sawaragi 03.10.17 8:09PM
「アンフラマンス」について
港さんの作成したメディア美術学科建築案のコンセプトに出て来たキーワード「アンフラマンス」について少し補足しておきます。
「アンフラマンス(極薄性、infrimance)」とは、1980年にマルセル・デュシャンの未刊のメモが刊行されたとき話題になったことばで、僕らがこの物理空間上に留まったまま非物質界へとアプローチするために考えられたデュシャンの造語です。
いってみれば物質界に居ながら、可能な限り非物質界に近い、その<寸前>に留まることを指したことばで、デュシャンがしばしば「ガラス」や「ドア」を使ったのはそのためであると考えられます。
したがって、デュシャンが「ガラス」や「ドア」を使うときには、象徴的比喩というよりも、あちらとこちらを折り返す「蝶番」の機能性を重要視しています。
つまり、物質界と非物質界を往還できるための、折り返しが効いて厚みのない境界膜のようなヴィジョンですね。
ここで思うのは、
「物質界(現実世界)と非物質界(情報世界)を往還できるための、折り返しが効いて厚みのない境界膜のようなヴィジョン」
こそ、新学科が求めているものではないかということです。もしそうなら、新学科の建物も、このデュシャン・モデルに沿って、それ自体が一種のインターフェイスをなすものとして作られてよいのではないかと。いわば物質界と非物質界を折り返す蝶番効果としての建築。もっといえば、デュシャン式「アンフラマンス(infrimance、極薄)」そのもの、としての「多摩アート・ユニバー・シティ」。
ちなみに、藤本由紀夫氏のエッセイによると、稲垣足穂(1900年生だからデュシャンのほぼ同時代人。しかも独身者!)のことばの中にも「薄板界」という概念があるそうです。
たとえば、タルホは次のように語ります。
「まっすぐに行く者には見えないが、横を向いたら見える。しかし、その角度は最も微妙なところにあるからめったにわからぬ」(「タルホと虚空」)
タルホがこういうとき、彼の念頭にあったのは、おそらく鉱石ラジオであったと思われます。
端的にいえばチューニングの妙ですね。だからタルホにとっての薄板界というのは、具体的には巻きコイルのようなものであったのではないかと。
その延長線上にタルホが、自分自身が一個の放送局であることのエロティシズムを感じていました。
これは、情報を吸収し、非物質界に向けて吐き出す有機体=生命としての「独身者の機械」=「放送局」が、薄板界としての大学にとって、設備というよりも、存在そのもの関わる機能であることを意味します。
思うに、デュシャンやタルホ的な「通信的エロティシズム」の世界には、「高度情報社会」という合理主義の罠に陥らずに、21世紀の新しい倫理としての情報という概念に沿って、来るべき大学像を考える上で、様々なヒントが眠っている気がします。
椹木野衣
Noi Sawaragi