文化は「公」のもの、公共的なものである。それ故に文化は媒介物として人と人を結合させる機能を持つ。言語がその典型であり、国民文化の根本的なものである。文化政策が果たすべき役割もこの文化の持つ結合機能を十分に発揮させ、わが国の歴史を伝承し未来を創造することにある。

文化政策は心理的側面が大きい。戦前のナチズムや軍国主義の文化統制が影を投げかける。真に求められるのは未来の創造につながる文化政策である。

倉田百三は文化統制が誤った方向に進まないよう知識人も協力すべきと言うが、文化政策に統制は馴染まない。統制など持ち出さなくとも、文化政策は主観主義的自由主義のニヒリズムとは一線を画し、秩序への意志が根底にある。秩序のないところに真の自由はない。

文化政策の目指すところは、第一に、国民に創造の喜びをもたらす生産的文化の確立にある。全ての文化は国民的基礎の上に立って初めて生産的なものになる。

第二に、文化政策は文化至上主義ではない。文学や美術のみでなく生活文化である。日常性を重んじ文化を生活的にするというのがわが国の伝統である。

第三に、外国文化は文化政策に受容される。歴史的生命体である一国の文化にとって、外国文化は環境を意味する。環境の中で育まれてこそ文化はより良きものに成長する。

文化政策は政治の文化性が前提になる。政治は力であるが、文化技術でもある。政策の主体とも言うべき政治に文化性がないならば文化政策は考えられない。その意味で政治家は芸術家でなければならない。

わが国の政治に新風を吹き込むものは何よりも文化政策である。官僚政治の弊害は文化性の欠如により政治家が政治問題の心理的側面に無理解なところにある。

 

技術は人間の主観的な目的を客観的な法則に合致させるように教育する。技術的目的はその時代に与えられている時代的課題に制約されているが、単に客観的なものでなく、どこまでも主観的な意味を持つ。主観的なものと客観的なものとの綜合の過程で主観的なものの支配が実現される。技術は自然に対する人間の支配を可能にすることで人間を自由にする。

全ての人格的・政治的自由は旧体制からの解放として成長し、技術を基礎としてのみ可能である。技術の発展なしには政治的自由の発展も考えられない。技術は主観的なものに対して手段と見られるが、媒介的な統一を通じて主観的なものの現実的な自由が実現される。技術は自由を実現するものとして文化の理念と完全に一致する。

技術の発達のみが人間の労働を軽減できる。技術に対する非難は社会的制約に由来する。技術を社会的制約から解放し、十分に効果を発揮させることが必要である。社会的政治的な行動も技術を離れることができない。かくて文化はそのあらゆる方面において本質的に技術的である。

 

「文化」は「耕作」を語源とし、自然に対して加えられる人為である。耕作の進歩はその技術における進歩であるように、あらゆる文化は技術的である。
 経済はもとより、法律や政治にしても、技術化することが進歩である。科学は技術化する要求から発達し、また科学の発達が技術化を発達させた。
 文学にとっても技術は不可欠で、文学者にも技術の習得が必要である。科学と文学の技術には相違はあるが、精神において類似している。

 すべて生命あるものは技術的である。生物の構造も環境に対する適応の仕方に制約され、適応の仕方は全て技術的である。生物は技術が有機的な器官に結びついているのに対して、人間は機械的な「道具」を作り使用する。(フランクリンの定義:人間は「道具を作る動物」)
 動物の技術が本能的に対し、人間の技術は知性的である。文化は全て知性的な技術を基礎としなければならない。

 

技術は物を作るものであり、自然科学は技術の前提として技術に結びつくことによって自己の認識の確実性を日々に証明している。歴史も文化も人間によって作られるものとして、その基礎にはつねに技術が横たわっている。

 技術とは、第一に、その一般的本質において、主観的なものと客観的なものとの統一である。技術はつねに物の客観的な認識(=科学)を前提している。人間は主観として環境に対して独立し、環境を純粋に客観的に捉えることができる。主観的なものであるだけ、客観的なものとの統一を求める。この統一は人間においては技術的に行われる。

第二に、技術は人間の主観的な目的を予想している。主観的な目的と客観的な過程とを結合し統一するものが技術である。技術の本質は「発明」であり、存在しなかったもの、新しいものをこの世にもたらす。

第三に、技術は物を変化することである。主観的なものと客観的なものとの綜合は、技術において物を変化することによって実現される。

技術の本質は、物の客観的な因果関係を人間の主観的な目的に結合する因果論と目的論の統一である。