成田千里

1936 北村西望

1924
大正24年4月
第一東京市立中学校校長(東京都立九段高等学校 千代田区立九段中等教育学校)
1929
昭和4年正月
成田校長は学校会計のびん乱などを理由に突然クビになる。後藤新平が市長を去って後ろ盾を失った 
「菊友会」第一東京市立中学校の同窓会 公益社団法人九段「至大荘」
1932
昭和7年7月
東京府豊島師範学校(東京第二師範学校 東京学芸大学) - 1939年(昭和14年)8月
1934 東京府豊島師範学校校長、
成田千里が「海の道場としての至楽荘」を昭和9年7月に
「野の道場としての成美荘」を昭和11年8月に
「山の道場としての一宇荘」を昭和14年7月に開設 
「撫子の会」東京学芸大学小金井小学校同窓会
1942
昭和17年
財団法人多摩帝国美術学校 理事長 1週間理事長
「1942年 成田千里氏との間に東横への負債返還を条件に理事長就任を約束したが成田氏の食言により破約となる」
1942 日本水上学校 (水上小学校)学校法人 聖坂学院 創立者 伊藤伝(1880~1955年)
水上児童教育の話が視学 成田千里からあった
  大阪府池田師範学校校長
1943官立に移管 1949大阪学芸大学の専門学校大阪第二師範学校 大阪教育大学
1949 「東京都教育委員会における殴打事件に関する質問主意書」昭和24年11月24日提出質問 
衆議院議長弊原喜重郎殿 提出者渡辺義通
東京都教育委員成田千里は、11月11日教育庁の一課長を殴打し、そのことによって教育委員長を辞した
1957 「成田千里先生伝」 成田千里先生伝記刊行会 (1957)

 
千鳥ヶ淵公園南端の石碑「第一東京市立中学校発祥之地」
大正13年(1924)4月 成田千里校長のもと開校す 第一精神と智・徳・体 三位一体の新教育を行い
昭和3年(1928)1月  九段上の新校舎に移る 東京都立九段高等学校の原点なり 
昭和63年(1988)5月5日 菊友会


東京都立九段高等学校は、関東大震災による学校不足を背景に、1924年に第一東京市立中学校として東京市により創立された。初代校長の成田千里は、徳体三位一体の新教育を理想とし、大正デモクラシーの気風を引き継ぎ、他校とは一線を画した独自の自由、かつ「至大荘」に代表される質実剛健な校風を生んだ。制服は府立五中などと共に、当時としては画期的な背広であった。国立栄養研究所の指導のもとで、学校給食が出されていた時期もあった。進学面では旧制一高へ多数の進学者を輩出した。