メディアの支配者
世間に禁忌は数あれど、「電通」ほどマスコミが避けて通るものは稀有なのではないでしょうか。この電通タブーの特徴は、普段はかなり危ない話を取り上げる週刊誌でも、殆ど記事にしないことです。
そのため、電通は、誰しも「名前は聞いたことがある」大企業にもかかわらず、その実態を知るものは極めて少数となっています。
しかしながら、電通タブーをかいくぐって、世間でまことしやかに語られる噂があります、それは「電通がマスコミに対して決定的支配力を持ち、政府と結託して世論操作に邁進している」というものです。そんな噂はどこまで事実なのでしょうか。まっとうに考えれば、広告代理店がテレビやクライアントを上回る力を持つというのは俄かに信じ難いものがあります。
そこで、電通の本社に目を移してみましょう。電通の本社は、開発目覚しい新橋・汐留地区の中核に位置する48階建の複合超高層ビル、カレッタ汐留にあります。電通ビルの通称で呼ばれるこのビルは鋭利なシルエットで広く知られている、汐留地区の新たなシンボルです。電通は同ビルの地下5階から地上45階までをオフィスとして利用しており、その他の部分は商業施設が入居しています。
電通ビルは高さで向かいの日本テレビタワーを圧倒しており、汐留地区全体でも汐留タワーに続いて2番目の高さです。広告代理店ビルが広告主やマスコミのビルより巨大であるという事実が、電通の力を物語っています。
どうやら「電通タブー」には幾許かの真実が含まれているのではないかということを強く感じさせる風景です。端的に言えば、「そこまで儲かるのか」という疑問です。
そこで本ブログでは、東京の中心・汐留に電通ビルという「富の象徴」を打ち立てた電通の資金力・支配力の源泉と、「電通タブー」の真偽を解明して行こうと思います

国家総動員体制
電通の前進となる日本広告及び電報通信社は、いずれも1901年に創業されました。両社は日清戦争に記者として従軍した経験から、日本における本格的な通信社の必要を感じていた光永星郎によって設立された姉妹会社で、日本広告が広告部門、電報通信社がニュース部門です。
電報通信社は1906年に日本電報通信社として再編された後、1907年に日本広告と合併しました。社名は変わらず日本電報通信社です。
当時広告業は新興産業であり、日本電報通信社は明治末までに業界最大の企業として確固たる足場を築きました。
とはいえ、当時は広告代理店・通信社ともに各地に乱立しており、日本電報通信社はそれらの中の一大企業に過ぎませんでした。
例えば、1890年創業の萬年社や、1885年創業の博報堂は電通よりも歴史が古く、昔から新聞広告を幅広く手がけていました。
そして、もちろんそれらのなかには日本電報通信社と肩を並べる規模のものも存在していました。1926年に国際通信社と東方通信社が合併して設立された日本新聞聯合社は、当時日本電報通信社と並ぶ二大通信社と呼ばれていたのです。
 
しかし、この状況は満州事変後大きく変化することになります。ナチスドイツ流の産業統制である一業一社体制がもてはやされ、国家総動員の名の下で国内産業への統制が強化されて行きました。
情報という重要な産業を扱う通信社・広告代理店業は真っ先に再編の対象になりました。戦争継続には報道管制と世論操作が不可欠だからです。
日本新聞聯合社と日本電報通信社は統合再編を強いられました。具体的には、1936年に両社の通信部門は日本新聞聯合社に移管した上で社名を同盟通信社に変更する一方で、両社の広告代理店部門は日本電報通信社に移管されたのです。この再編こそが、戦後の電通の支配力を生んだ端緒となりました。
さらに太平洋戦争中にも、更なる零細通信社・代理店の強制的な再編が行われ、これによりニュース=同盟通信社、広告=日本電報通信社という独占体制が完成しました。
 
前回の詳説日本の情報機関 で触れたことですが、日本の情報収集の特徴として政府情報機関と記者の連携の強さがあります。
このことは戦時中の大陸でも遺憾なく発揮され、同盟通信は南方の通信機器の独占使用や対外謀略放送の任務を軍部から託され、事実上軍部の国策の手足となって大本営発表を流し続けていました。
一方で、日本電報通信社は日本電報通信社で、広告のノウハウを生かして占領地で特務機関まがいの活動を行っていたとされ、軍部と密接な動きを見せていました。
大陸で特務機関を組織していた大物としては、真っ先にフィクサー児玉誉士夫が思い出されますが、日本電報通信社・後の電通は戦時中、会社自体がフィクサー児玉と同じ事をしていたわけです。

財閥解体
戦後、同盟通信と日本電報通信社は対照的な運命を辿りました。
同盟通信は、GHQに戦時中の対外放送や独占的ニュース配信を嫌気され、占領下では厳しい検閲を受けました。更に、同時期には大手新聞三社による同盟潰しの策略もあり、結局同盟通信は、1945年10月末をもって「社団法人共同通信社」と「株式会社時事通信社」に分社化されました。
旧同盟通信の事業のうち、共同通信社が新聞紙への新聞通信事業、時事通信社が一般読者への時事通信・出版事業を承継する一方、同盟の系列会社だった、通信社史刊行会・同盟通信社印刷所・同盟技術研究所・財団法人同盟育成会などは各々独立企業として同盟の傘下を離れました。
このように、同盟通信は実質的に財閥解体の憂き目に遭いました。
 
一方で、日本電報通信社は戦前の準特務機関としての性格を生かし、政府・GHQに食い込むことに成功します。1947年に社長が公職追放に遭い、新社長に「鬼十則」で有名な吉田秀雄が就任すると、この動きはさらに加速しました。
吉田は満州や上海から引き上げてきた、旧軍人・満鉄関係者を電通に大量に採用します。彼らは広告のノウハウを持っていたわけではなく、電通で実質的にフィクサーとしての活動を行っていました。大陸人脈や政財界との近さ、そしてCIAとの関係など、彼らはミニ児玉・ミニ笹川の集団だったと表現しても過言ではないでしょう。
電通が時として、名高い「満鉄調査部」の後身と呼ばれるのはこのような背景に基づいているのです。
この社長吉田秀雄は、戦後の「大電通」を確立させた功労者です。電通の「フィクサー化」だけに留まらず、アメリカ式広告法の導入などの、電通近代化を推し進めました。
更に電通は1951年に放送を開始した商業ラジオや、1953年に本放送が始まったテレビ放送にもいち早く着目しました。当時誰しも懐疑的だったラジオ・テレビ広告の事業開拓を行い、社長の吉田自らも免許申請を行うなど、多くのラジオ局・テレビ局の設立に関与したのです。実際、吉田は幾つかの放送局では取締役に就任しました。その中でもTBSは吉田の関与が深く、現在でも民放の中で最も電通と親密だと言われています。
 
結局、ラジオ・テレビ化の流れにいち早く対応できた電通、そして少し遅れて進出した博報堂が、戦後広告業界の1・2位として固定し続けることになりました。50年代始めは、現代の広告代理店業界地図の枠組みが出来上がった時期といえるでしょう。
 
二人の吉田
52年10月の総選挙で自由党・吉田茂首相は電通にキャンペーンを依頼。このことが発端となり、電通と吉田茂、ひいては電通と自民党の関係が深まります。これによりもともと旧軍が中心だった電通の人脈は政党政治家にも拡大し、電通は反共・安保擁護のための保守体制に組み込まれることになりました。
さらに吉田茂を介した政界浸透や、電通で採用していた旧軍人・満鉄関係者の公職追放解除に伴う政府要職復帰、コネ採用による有力者の子弟の取り込みなどにより、電通人脈は更に強力に日本中に張り巡らされました。
こうした社長吉田秀雄の人脈戦略は大きな成功を収め、電通は総理府の宣伝予算をほぼ独占することに成功します。そのことは、電通に政府のフロント企業としての性格を与えました。
電通・吉田秀雄の、日本政府・CIAとの関係は、読売新聞・正力松太郎に似ているといえるでしょう。
とは言っても、この時期は東西冷戦の下で安保闘争に見られるように、国内世論は保守・革新で激しく割れていました。
少なくとも50~60年代に関しては、電通が政府関係の宣伝を受注しているからと言って、「政府・電通の世論支配」とは程遠い状況にあったといえるでしょう。また程遠かったからこそ、政府は電通を必要としたともいえます。 
 
ところで、敗戦により解体された財閥は、朝鮮戦争以降の「逆コース」の中で、企業集団として徐々に復活していました。
財閥解体は1947年の第五次指定を最後として終了する一方で、1954年には三菱商事、1959年に三井物産、1952年には住友銀行が再建されるなど、一度は解体したはずの財閥系企業が続々と社名を元に戻し始めたのです。戦前の財閥は持ち株会社を核としていたのに対し、戦後の企業集団は銀行・商社を核とした融資関係とグループ内の株式持合いを基本としていました。
旧同盟通信・日本電報通信社もこの動きの例外ではなく、電通・共同通信・時事通信はお互いの株式を持ち合い、事実上のグループ再結成に動きました。
これにより電通グループは通信社事業と広告企業を束ね、再び寡占状態に復帰します。
戦争に負けてもしぶとく生き延び、かえって前よりも力を増した電通。しかし、その巨大化に伴い、社会には再び独占の弊害が生じ始めるのです。