報道
合併騒動騒動で、第二次帝国音楽学校は廃校に追い込まれ、反対派学生は新校を樹立するに至った。
新校樹立の先頭に立ったのは、評議員の中で発言力の大きかった鈴木鎮一だった。
一連の出来事について第二次帝国音楽学校評議員野村光一は次の様に回想している。
学校の経営が行詰っちまって、どうしても埒があかない。校長の北れい吉さんも困っていたなぁ。結局はお手上げでね、この学校をどこかの音楽学校に吸収して もらって解散しようということになったんだけど、学生がいう事を聞かない。こ のまま続けるっていう。その味方になったのが、鈴木鎮一さんただ一人だ。
1935 年 2 月 7 日付『朝日新聞』では、この騒動を「第二次帝国音楽学校は学校という名はあるものの、提琴家モギレフスキーを中心としたささやかな楽塾である、それだけに教授も学生ものんびりとした研究施設を与えられて型にはまった学校制度は御免だというのが 今度の騒動のイデオロギーである」と伝えた。
12 月の終業式において合併が発表された折には、学生側からすれば唖然としたまま多少の質問をするにとどまったが、冬期休暇中に合併反対派勢が組織されていった。代表学生ら年明けの 1 月 14 日に北校長を訪問し、反対決議書を提出したが、受理されず、そのまま 1 月 16 日に調印式が決行されたため、反対派勢はますます反感をつよめ、合併阻止のために、日大芸術科長の松原寛宅を訪問した。そこには、偶然堀内敬三も居合わせており、反対派学生 の説得を試みたが、徒労に終わった。
それから数日後、評議員の鈴木鎮一から幹部らに「自力更生案」が提案された。調印式を 終えてしまった以上、合併は決定したわけだが、野村、堀内、北、小松らは、鈴木の更生案 を一応聞き入れ、北宅で話し合いを行った。
調印式後に提案された鈴木の更生案1とは、堀内と小松の証言によれば、「P.C.L.の植村 泰二から、学校が救われるほどの十分な援助が受けられるとの確約を得た」というもので あった。当然、その時の堀内らは月 300 円の赤字を植村の援助によって賄えるという意味と して理解した。しかし、後日植村と親しかった堀内が本人に直接確認すると、植村が鈴木に 提案されたのは、「毎月 25 円ずつ」即ち 10 万円程度の援助と、「年度初めの 300 円の宣伝費」 であり、植村はこれに対して承諾したのであった。堀内から、月 300 円の援助を必要として いることを知ると、毎月 300 円という事ならば断るという返事で、植村からの援助は望めな くなった。
推測の域を出ないが、ここで鈴木の提案について考えてみたい。鈴木は、月額 300 円とい う高額な話では、どの支援者に持ち込んでも、最初から望み薄と考え、さしあたって毎月の 補助金として 25 円を確保したつもりだったのかもしれない。更に、この時既に 2 月だったから、じきに訪れる「年度初め」の 4 月か 3 月末に宣伝費としての 300 円が入れば、内訳は ともかく、一か月分はなんとか賄えるわけである。支援者へ持っていく話として、総額とし て毎月 300 円を必要としていることなどは、不要あるいは不利な情報なのである。その上、 その 300 円を一人の後援者に負わせる必要はないのである。
実際、堀内の話によると、紛擾の話を抜きにすれば、植村は「そんな少額の金で学校一つ 救われるならば喜んで御役に立ってよい」と考えていたのである。
鈴木は、同じ方式で他の後援者を何人か集めていけば、当面はやりくりできると見込んで いたのかもしれない。
堀内・小松の証言によると、植村の援助という自力更生案が破れた後、鈴木は第二の自力更生案を提案した。それによれば、「私が責任者となれば其の人は金を出す」 という鈴木の個人的な縁故によるものだったらしい。察するに、「其の人」とは徳川義親を想 定してのことであると思われる。第二次帝国音楽学校廃校の直後に、鈴木を院長として設立された帝国高等音楽学院顧問に就任したのは、徳川義親だったからである。
「想定して」というのは、まだ鈴木がこの時、徳川に了解を取っていなかったと考えられ るからである。堀内によれば、「その証拠に本日グランドピアノ一台を[其の人が]寄付して くれた。」と鈴木が言った矢先に、学校の玄関にピアノが一台届いた。ところが、小松がピア ノの出所を探ると、それは日本楽器製造会社から運ばれたもので、「支払いは月賦、買受名義 人は鈴木鎮一氏、保証人二人は追って立てる。月賦の前金は学校で買うんだからなしにして 貰い度い」という鈴木の条件で届けられたものだった。このピアノの件で、小松も堀内も、 とんだ茶番に騙されたと言って憤慨したのである。
しかし、鈴木の背後にある「鈴木バイオリン」に目を向けて考えれば、あながち茶番とも 言い切れない。「ピアノの出所」は即ち、「鈴木バイオリン」と並んで日本の楽器産業を支え た「日本楽器製造会社」である。会社としてはライバルといえども、鍵盤楽器と弦楽器とい う異なる分野で、互いの縄張りをわきまえた深い交流があった。
鈴木梅雄は 1911 年(明治 44)に東京の日本楽器に派遣されたが、そこに持ち込まれる自 社のヴァイオリンの修理や舶来品の観察、などの修行が目的であった 。
1935年4月の『月刊楽譜』(第 24 巻第 4 号)上で、鈴木を弁護した平間文壽曰く、ピア ノはかねてから同校に必要とされていたものだというが、これは楽器屋に顔の利く鎮一ならではの妙案で、ピアノをタイミングよく届けさせたことで、合併反対運動に拍車をかけたこ とは確かである。
大部分の反対派学生と教師たちは、合併反対の姿勢を貫き、2月13日付で学生、職員の大部分が退学、辞職したあと、世田谷経堂に新校を樹立、直ちにそちらで授業を開始した。
合併の失敗には、校主高井と家屋所有者の山名という人物との間におきた問題にも原因が あった。当初、土地および校舎の名義変更には反対しないとの意向を示していた両者間で「経済上の問題」が生じ、最終的に高井は「斯う紛擾が生じては[日大への]名義移転に応じかね
る」と言い始めたのである151。合併先の学生と教師一同が不在の上、名義移転を拒まれた日大にとって、もはや調印式は全く意味をなさず、第二次帝国音楽学校の廃校が決定した。 |