騒動の原因は、專門学校遲延もあるも、信州諏訪の四名金原、名取、清水、宮坂(以上2人共に助教授)の策謀に依るものにて、後2名は馘首、前2名は各教務主任と主事を解職し教授としてのみ止め候、其の他の原因は清水、宮坂(前者は帝展出品落選)が反牧野、反帝展の空氣を作り、プロレタリア藝術といふ赤かぶれの学生を組みて学校革改運動を起したるものにて、帝美が專門学校となれば、金原も名取も重要せれず清水、宮坂も首になると考へ、学校革改、專門学校遲延の責任を問ふ運動を起し、卒業生中のルンペンが先頭に立ちたるものにて、之に躍らされたる学生が馬鹿を見たるものに候。文部も東京府も警察も、これほど理由なき騒動なしと考へ居り候。小生は牧野、川崎、吉田、松浦、井上の諸評議員と合議、赤がかった奴は50人でも100人でも整理する決心にて邁進、憲兵隊も痛快がり候。(上野美術学校も最近8名赤化にて退學を命ぜらる)。
名取は小生先生より経営権を委譲されてより、印判も金銭も一任致し置き(本年3月末まで小生一銭も現金を取り扱はず)後一昨年4月より庶務と會計とを分ち大田に会計を任せ候處大田は名取の不正(2,000円位)を捉へたる苦痛に堪えず、学生をして大田排撃を試みしめたるものに候。小生訴えれば名取は危きも、校内の耻なれば此の點は追及せず候。金原も名取も恩師紀叔雄(早大教授)の経営せる日本美術学校に於て乗取りを企て追ひ出されたる前科者なること、今日事情を詳かにし、一驚を喫し候。要するに小生等は美術ブローカーにか丶りたるものに候。評議員一同は素より實科正教授、学科正教授は一人も動揺せず、今回の處置を痛快がり候。どの学校も急速に發展せるものは、3年目か5年目に一騒動あるは例なり。毫も驚くに足らず、彼等も惨敗と悲観致し居り候。
さて專門学校の問題なるが、小生一昨年帰朝後丸二ヶ年、著述の暇もなく寝食を忘れて努力し、40数名の人々に頭を下げ、何の因果で美術学校に関係せるかと悲觀せるも、行きがかりと、責任感の爲め邁進今日に及び候。仕事の出來ざる損失を外にして、交際費、自動車代等年額2,000円(5ヶ年計10,000円)くらいは「祖國」を喰ひ候。洋行の際「祖國」の残金を建物の爲めに支出せし4,500圓も帰朝後2年間に引出し、煙の如く消え候。小生の預けたる分は、米山氏の8,000円と外に1,000円のみに候。
專門学校問題については、昨年鈴木荘六大將(武徳会会長)より越後の中野忠太郎氏(石油王)に説いてもらうこととなり、半歳待ちしも中野氏病氣の爲め上京せず、鈴木大將も説く機會なかりしものに候。
今年春より学生の熱望甚しく、金原銀行より100,000円、1割の利子にて10ヶ年々賦にて借入りる積りなりしも失敗(理事先方3名、校内小生、松浦2名として)、一昨年大宮教授某夫人に出さすこととなり、ほヾ確定せしも、出資者側の評議員数と学校側の評議員数と、吉田君を入れる入れぬで、1名の争ひにて失敗(理事出資者側2名、学校小生1名)、實科教授は生活の爲めに働くに非ず、自治ならざるべからずと主張し、之も小生としては道理あることと存じ候。
本年1月に入り学生餘りに日限附きに要求するを以て、小生理事も校長も全部止め日本大學の松原博士に一任せんとせしも、實科教授承知せず、更に山岡萬之助氏(日大総長 日満法曹協会会長)の女婿櫻井子爵の息引受けると申したるも、100,000円の利子年一割外に本人の年俸1,500圓を要求せしも止むなく之に承知し、小生は校長も譲り理事長もお任せしたるも4月13日の開校日に間に合はずお流れとなり候。(理事長櫻井、理事山岡、藤山雷太(藤山コンツェルン)の息と先方3名、校内より小生と長老の杉浦の2氏、財務評議員6名櫻井側、教務評議員6名学校側)、この際先生と山岡氏との不和も考へ躊躇せしも、学生の強要甚だしく(之には清水等の煽動あり)一度承認せしも、山岡氏は先生への年金に難癖をつけし由、又学校不穏の形勢より躊躇したり。併し櫻井氏は小生の誠意と評議員の人柄に感心、山岡氏の反對を押し切り断行せんとしたる誠意は認めざるべからず候。
然るに小生の資金調達の苦労を見るに見兼ねたる早大出身の浅岡、藤原の二君は1月以来各方面奔走、遂に徳川義親候、藤田謙一氏(4社統合による日活設立)等の助力あり、東横問題、4月13日にして突如として現はれ、條件よく評議員諸君及び金原、名取も賛成す。その前、内田氏、小美濃氏、里見氏等の恊力に依り100,000円を調達せんとせしも50.000円しか出来ず、安田の重役佐島氏50.000円を作らんとせしも手間取り遂に見合せ候。内田氏等の場合には1割の利子を拂ふ(信用組合から9分にて融通の豫定)、元利皆済の上は始めの出資額の五分を十ヶ年間支拂ふこと、即ち50.000円皆済の後も十ヶ年間2,500円拂ふことという悪條件)約束なりしものに候。小美濃、榎本、内田、里見氏は内田氏を理事長とすること、之には小生も賛成せしも50,000円寄附又は低利融通せんとせし安田の佐島氏は如何に北君が信用するも縁もなき内田氏理事長では出し難し、北君自身理事長ならば兎も角と申し、結局お流れとなり候。内田氏も50,000円出資を好まず。
東横沿線は土地の發展と學校の移轉とを不可分のものとし、諸學校續々移りつ丶あり候。
例へば慶應大學豫科、法政大學も決定、工業大學、昭和醫尃等計7校。
美術學校は會社としては、少人数の學校なれば欲せざりしも、数人の仲介者懇願又懇願、小生、吉田、牧野、杉浦、井上、も同道懇願ストライキの起らんとする日破談たらんとせしも漸く調印。
條件は土地(上野毛駅より1分時、南に玉川を臨む)5.200坪、地代坪3銭5厘20ヶ年。小美濃の地代六銭と雲泥の差。もう1ヶ月後るれば分讓地たるべく、東横沿線の市内の土地はこれのみ、實に危機一髪。
金は建築費を小生等より20,000円前渡しすれば、100.000円の供託金と建築資金不足格50.000円貸興す。拾萬圓は公債、之に對して年3分、建築費50,000円に對しては年5分。
計年5,500円。3ヶ年間据へ置き、10ヶ年々賦償却。之ならば内田氏の五萬圓に就いての年5,000円と同様にて、我々としては天下斯の如き低利を以て借金出來ず。
但し之には條件あり即ち3年後若し間違へば年一萬圓償却し得る實力と誠意ある理事1名乃至2名を要す。他は凡て學校関係者とし他を交へざること。
依って評議員恊議の上
理事長 國澤新兵衛博士 大同殖産社長
理事 立花良介 小生30代よりの友人 同専務、黒龍會顧問
理事 北れい吉 教務
理事 杉浦非水
理事 牧野虎雄
理事 吉田三郎
理事 里見馬城夫 会計 (住宅組合法解釈1925)
名譽理事 木下成太郎氏
聯帯保證人 實科教授全体(山口、郷倉、熊岡等)
(北、里見は始めの20,000円を作ること)。
校内理事は定め易きも年一萬の保證支出をなす有力實業家を得る困難、實に言語に絶す。當方よしと思へば先方悪しと考ふ。苦心想像に餘りあり候。
東横の專務五島氏は朝倉氏事件に連坐し、理事には政治家はこまるとのことにて、床次、三土氏等を除き候。但し評議員又は維持員には政界の有力者をも加へ、内田氏もお願いする勿論に候。
貴電の如く武藏野の一角に美術の花を咲かせば、拙宅よりも近く何よりなるも、100,000円の供託金を3分で貸せる者も少なく、又專門學校認可直後不燃焼の講堂を文部省要求するが、此の資金40,000円も調達の途なし。今さへ學生專門學校問題にて噪ぎ居る始末。一日も早く断行を要す。
依って理事長内定と共に、土地も契約し、(6月より地代を拂ふ)目下20,000円の調達中に候。
又コンミツシヨン50,000円の内、2,500円は調印と共に、小生米國帰りの友人より借り、既に拂ひ出し候。
之は支配人、課長、係長、及び仲介者の實費に宛てしことと存じ候。(右は秘密)
既に42,000円の借財あり、新たに175,000円の借財を生ず。計217,000円に達す。小生美術家諸君と恊力一致して努力するも、13年乃至15年間借金の償却にか丶るべく、小生も70歳近くなるべく候。
但し安田の佐島氏は100,000円寄附奔走中、(多分安田善五郎氏か望月軍四郎氏ならん)之は東横の條件を知る上は大に減額されん。また米山氏は、8,000円の借金財團設置後寄附し呉るる約束、更に同氏は望月氏と恊議し3-40.000集めんと同情し呉れ候。財團法人となれば寄附募集の途もあり、東横の借金150,000円2ヶ年据置中、50,000-60,000円の借財は寄附及び畫會にて返済せん所存に候。
安田の佐島氏も學校を見に來て、此の建物はバラックにて假普請と見るべく、五年後には他に5,000坪くらいの土地を見立て丶移轉すべきものなりと断定致し候。
教練等の爲めには勿論に候。況んや土地細長く、市外でもあり、將來の爲めに考えふれば鐵筋の建物を建てるに不得策に候。
目下鐵筋コンクリートは、早大教授兼帝美講師今井氏日に夜をつぎ設計中、さなくば九月半ばに出來ず候。
鐵筋 300坪 40,000円餘
木造 500坪 20,000円餘(現在の建物を利用す)
計 800坪 70,000円
小美濃氏の土地は小生名義なれば7月限返却(同氏は吉祥寺に新設の小學校敷地となし何人も貸せざる由)、目下の建物は7月中旬破壊9月上旬改築の筈。
學生の此の上の動搖を防ぎ安心せしめるには何事も電光石火促進を要す。
小生は學校騒動は心配ならず、新設學校の促進のみ心配なり。
貴電には、小生軽卒に事を決したるが如く、目下の利益に走りたるが如くあるも、決して左にあらず、凡て里見君、評議員諸氏と連日恊議し、文部省の諒解を得たる上なり。
虚心淡快萬事御諒解を乞ふ。
名譽と利益を得る者は小生等の2代目なり。小生等は行き掛り上、責任感と犠牲心の一念に燃ふ。
小生は帝國美術学校が名實伴ふ專門學校となり、新設の鐵筋コンクリートの入口に先生の銅像を立て、僅かなりとも奥様へ20年間財團法人の名義にて謝禮をなし、小生第2代目の銅像の主とならば事足る。
若し野心あらば萬事を擲げ出して櫻井子爵又は團伊能(琢磨氏息)に校長と理事長とをお願する筈は無之候。小生個人としては缼點あるも事美術學校に関しては俯仰天地に耻ぢずでは物足らず、俯仰天地に誇ると申し得べく候。
併し若し小生等の企て御諒解を得ず候はば、右の陣立にて新たに專門學校を申請するも可、文部省は現在のものを昇格さすも、新たに財團を作って申請し、前者を廃校にするも可なりと申し候。但し此の遣り方にては先生の創立者なること、新校と何等連絡なきこととなり、銅像も縁因なきこととなり申すべく候。
速断速行罪萬死に價ひするも、小生等の案こそ、最も愼重にして、最も深遠なること御諒察御承諾の御一電上願候。
此の際人事の御干渉は絶對に御謹み被下度、折角の陣容を破碎し、先生異論ありとのことならば折角崩解せんとしつつある學生騒動に油をそそぐこととなり、重鎭の美術家嫌氣を生ずれば學校倒滅の惧れ有之候。
目下の騒動の如きは來週中鎭静すべし。今日にても無條件に容せばストライキは止むも、さすれば圖案科、彫刻科の出席組は却って奮慨すべく候。
餘は拜眉萬々 敬具
5月25日
北れい吉
(世界の大都會は東北は貧民窟となり、西南に發展す。ロンドン、ニューヨーク何れも然り東京また然り。上野毛より目黒、渋谷、大井何れも20分以内)
木下棹舟先生
(餘り無理して東横問題に奔走せる爲めストライキの禍中1週間臥床致し候)
(封筒裏) 東京市杉並區井荻三ノ一 北昤吉 五月廿五日
(封筒表)札幌市 木下成太郞様