金原省吾 旧姓:河西

1888年 長野県諏訪郡湖東村の河西家の長男に生
1912年 長野県安曇郡大町の金原よしと結婚して金原姓 屋号:三つ井 媒酌;島木赤彦
    長野県師範学校
1917年 早稲田大学文学部哲学科卒
    早稲田大学研究科に在籍して東洋美学及東洋美術史
    日本橋区第二実業補導学校講師 日本美術学校講師
    アララギ派 島木赤彦の弟子
1929年 帝国美術学校 教務主任
    [金原省吾日記] . 1934.9.11-2.31. 1935.1.9-4.30. 5.1-7.31. 8.1-8.31. 9.1-9.30. 10.1-12.5
1941-1943年 満洲国の最高学府の建国大学(1938-1945長春)講師(芸術論)となる。年1回約1カ月渡満。森信三が招聘 
    (王道楽土、五族協和の一大国家建設のための貞幹棟梁の士を養成する目的。全員塾生活、学費不要、小費支給)
     
1944年 『満洲公論』2月号 満鮮文化の形成 金原省吾
     
1949年 新潟大学教授
1955年 『絵画に於ける線の研究』早稲田大学文学博士の学位。
武蔵野美術学校講師 東横女子短大講師 東京学芸大学講師
1958年 死亡69歳
1790年 金原省吾著「赤彦先生と金原省吾」金原よしお出版



帝国美術 10号  帝国美術学校学友会 昭和17年1月5日
場の表現(務台理作)、作家の言葉(一)(鏑木清方)、日本の美の伝統(金原省吾)、作家の言葉(二)(高畠達四郎)、デューラーの水彩画(片山敏彦)、作家の言葉(三)(山崎巌)

新美術 14号  春鳥会 昭和17年9月3日
ブルデルの思ひ出(清水多嘉示)、コンポジション(コンラッド・メイリ)
アジア芸術に於けるイランの重要性(瀧口修造)
大正期の画家中村彝のこと(二)中村秋一

「美の生活」(生活科学新書)
「美の構造」(青磁社)
「東洋美術論」(大日本雄弁会講談社)
「赤彦先生と金原省吾」(古今)書院
「美術の記」(青磁社)
「支那上代画論研究」

和田正一
1945年5月6日 和田君久しぶりにくる。戦線文庫の編輯。モダン日本社の仕事である。私はここに著述の約束がある。
1945年11月7日 和田正一君くる。五月麹町の家をやかれ、八月須坂に日本社移転であちらで「戦線文庫」を出すつもりの処、終戦、今もあちらに居るが、やがてこちらに来る由。綜合雑誌と叢書(にっぽん日本文庫)を出す由。
1946年3月1日 和田正一君は新日本社、社長軍団責任ありとて退却につき上京せる由。講談社、旺文社皆退却。私のもの古今書院と共に多くの著書埋れる。
金原省吾の日記『武蔵野美術大学大学史史料第七集』