大塚 耕二


1914年 熊本県菊池市隈府町下町に生 大塚書店の次男
1933年 旧制鹿本中学校卒業後、坂本善三に師事する。
1934年 帝国美術学校西洋画科入学
1935年 学生仲間と絵画グループ「表現」を結成。
1936年 「表現」展に発表した《丘》
      来日中の詩人ジャン・コクトーが藤田嗣治の案内で、展覧会を訪れ、大塚耕二の作品を称賛 []

画院から帰途、銀座の紀伊国屋画廊で、「表現展」を見た。その朝、六人の若い同人 がホテルへ訪ねて来て、暇があつたら、自分達の展覧会を見て批評してくれと申し入れ たのであつた。 会場へ入ると、藤田画伯の説明で見て廻つた
「表現展」とは、コクトー訪問の前年にあたる昭和 10年に帝国美術学校(現武蔵野 美術大学)の学生達が結成した絵画グループ「表現」の展覧会であった。
しかしたとえ無名の青年達の展覧会であっても、この会場を訪れたコクトーがどれだけ 丁寧に彼らの作品に接したのかは、堀口の書き残した次の一節からも感じ取ることができ る。
コクトオは各画家にどれが一番の近作かと訊 ねて、その一点に注意力を集中して難解 なこれら表現派の作品の中に秘められた各画家の意図を探らうとつとめるらしかつた。 やがて一巡し終ると、今度はもう一度、各々の絵の前に立つて、実に丁寧な批評を初め た。藤田画伯はじめ一同コクトオの親切な努力には舌を巻いて驚いた。大塚耕二君の作 品に一番感心してゐたが、その他の人の作品に対しても一々適切な批判を加へた。彼の 言葉をきいて、初めて僕なんかには画家の意図の在り所の知られる作品も一つや二つで はなかつた。

1937年 第4回表現展及び第7回独立展に《トリリート》を出品。
     マン・レイ前衛映画の『ひとで』やデュラック『貝殻と僧侶』の上映運動を行う
     
1938年 第8回独立展に《窓の女》を出品。
1939年 帝国美術学校卒業。第9回独立展に《厨房》を出品。美術文化協会の創立に同人として参加する。
1940年  熊本千徳デパートで個展を開催。美術文化協会第1回展に《鳥と太陽》《自転車》を出品。
           超現実主義告l瀧口修造に「造形詩人」と評される。
           紀元2600年展に《山》《二輪車のある海景》を出品。
1941年 美術文化第2回展に《山》《丘》を出品。10月応召、西部21部隊(熊本野砲隊)に入隊。 
1941年 応召、西部21部隊(熊本野砲隊)に入隊、満州、フィリピンに派遣。
1941年 「人生の目的は未だ不可解である。自分が生きていることは事実であり、この眼が開いていることも因縁である。親に孝養を尽すべきは申すまでもないこと。私は生涯をつくして絵画の途を貫こう。それが何のためであろうと知ったことではない。狂執でも何でもいい。人生なんてそう大したものではないことはすでに解った。地球よ、退屈はしないか。光よ、疲れないか。魂よ、悲しすぎると思わないか」日記
1942年  満州ハイラルに派遣
1944年  フィリピンに派遣
1945年 フィリピン・ルソン島プログ山にて戦死 31歳

1952年、1953年と遺作展 熊本市内