人文学報. 教育学 [巻号一覧]
人文学報. 教育学 7, 145-174, 1971-03-31
首都大学東京

魚沼,八海(はっかい)両自由大学の成立と経過 : 大正期自由大学運動研究への試み(II 日本近代史と教育)
Development of JIYU DAIGAKU Movement in Niigata Prefecture(II History of Modern Japan and Education)

魚沼, 八海両自由大学の成立と経過
はっかい 魚沼 八 海両 自由大学の 成立 と経過一 大正期自由大学運動研究へ の試み一森 山 茂 樹
1. 自由大学運動の概観 1919 (大正 8)年, 長野県小県郡神川村に, 哲学の 研究会が誕生した。 会員 は, 農村青年と教員が主であっ た。 翌大正9年の9月, この会は講師に土田杏 村を迎えて, 哲学の講臠会を開い た。 30数名の参加者があっ た。 中心人物は, 蚕種製造業を営む金井正,山越脩蔵と, 塩川村小学校教員金井栄の 3人で あっ た。 さらに大正10年の 2月には, 同じ土田杏村を講師として第2回の哲学講習 会が上田市の 高等女学校を会場に して開催された。 この講習会は, 参加者から1人3円の聴講料を徴収し, これをもっ て運営費 にあてるとい う方法をとっ た。 この方式は, 会の連続的開催を可能にすると同時に, 哲学だけでなく, 文学や法律とい う他 の分野の学問をも, この講習会のなかに位置づけて行ける可能性をもっ たもの であっ た。 参加者か ら聴講料を徴収し, それに よっ て学習会を連続的に , 綜合的に 組織 するとい う構想は, 上田地方の文化運動に深い関心を寄せてい た土田杏村の肩 入れによっ て, 急速に具体化するこ ととなり, やがて自由大学として現実の も の となる。 ところで, 長野県にはこの ころ, 信濃黎明会とい うものがあっ た。 1920(大 正9)年9月, 小県郡連合青年会の講演会に集まっ た青年たちの 5ち, 官製の 青年会に あきたらない者たちが, 有志をもっ て社会民主化運動の団体を作ろ う
1 回 か ぎ りの 講 演 会 と は ち が い ,


(146) 魚沼, 八海両自由大学の成立と経過とい うことで発足したのが, 信濃黎明会である。 会の綱領として次の点を掲げ ていた。
1 世界ノ文化的大勢ナル 人類解放ノ新気運二 協調シ人類ノ自己実現ヲ 尊重 ス0
2 吾人青年ハ 真理ト正義ノ使徒タル コ トヲ確信シ現代日本ノ正当ナル 改造運動二 参与ス。 ここに示されている, 「現代日本ノ正当ナル改造運動」とい うものが, 具体的にいかなるものなのか明らかではないが, その 後の信黎の動きをみるか ぎ り, それは, 普通選挙運動の推進や軍備縮少運動, 地方選挙へ の参加とい う政治運動であっ た。 信濃黎明会は, 1925(大正14)年秋, 信濃革正党とい う政治団体に発展的解消をとげたことからもわかるように, 時とともに政治へ の傾斜を深めていっ た。
信黎の活動が政治的な色彩をますます強めてい くなかにあっ て, 発足当時の 修養部長山越脩蔵は, 社会改造の運動に携るにはなに よりもまず自己の完成が先決だとして,自からもその 一員として出発した神川村青年たちの哲学研究会に 一方においてさらに深くかかわっ ていっ た。 ,信黎の修養部長である山越が, 同時に哲学研究会の中心的人物で あっ たた め, 1921(大正10)年10月哲学研究会を母胎として発足した信濃自由大学は,
信黎の修養部的性格をも持っ ていた。 関として自立していっ た。
しかし, やがて自由大学は独自の教育機土田杏村, 山越脩蔵, 信濃黎明会宣伝部長猪坂直一等を中心に して誕生した 信濃自由大学は, 政治活動を主とする運動団体ではなく, 青年の学習団体であ っ た。 政治や社会運動に関心をもつものの集団であった信濃黎明会の会員か自由大学へ の 参加者が少なか っ た事実に よっ て も, 当時自由大学の もっ てら, い た 性 格 を うか が い 知 る こ と が で き る 。


魚沼 ,八 海両 自由大学の 成立 と経過 (147)
こ うして農村青年の 哲学研究会を母胎とし 一方 致治運動団体の修養部と ,,
しての性格をも合わせもちながら出発した信濃自由大学は, しかしその成立経 過から知られるように, その後は政治活動とは離れた地点での教育学習活動機関としての性格を急速に強めていっ た。 政治活動よりも教育学習活動の重視, とい う自由大学の方針は, 土田杏村の 執 筆 し た 信 濃 自 由 大 学 設 立 趣 意 書 の な か に 次 の よ うに み え る 。 「我 々 の 社 会 に あ っ て も デ モ ク ラ シ イ の 原 理 の 適 用 せ ら れ な け れ ば な ら ぬ も のは甚だ多いが, 併し我々のあらゆる活動の基礎は自己教育にあるとすれ ば, 我々は先づ第...に教育に於てのデモ クラシイを要求しなけれぽならな い。 財産や政治発言権やの上に於てのデモ クラシイも, 其の基礎に教養のデ モ クラシイを胃かないでは何の意味をも為さない。 然るに我々の社会の教育 にあっ ては, 其れに参与する機会は決して平等に附与せられていない。 我々 は学校教育が大学を以て終る其れをさへ 甚だ不満足に思っ て居ることは前述 の通りだが, 其の大学の教育さへ 平等にすべ ての人間に開放されては 居な い。 大学教育を受ける為には, 其の精神的能力以外に, 莫大なる経済的資力 が必要とせられる。 その資力の無いものは此の教育を受けることが出来ず, 此の教育を受けないか ら社会にあっ ての地位も自つから高められるこ とが出 来ない。 すべての社会的不平等は教育の不平等を根本の原因として運命的に 決定せられ, 其の結果の派生するところ止まることを知らないのである。 其れ故に我々は, 最も高い程度の教育を受ける機会を何人にも与えよと要 求する。 しかも其の最も高い程度の教育は, 労働しつ つ 学ぶところの学校に 於てでなければならない とする。 我々 は此の如き学校を, 温情に より上より 授与せられようとは望まない。 我々 の眼目とするところは, 究極に於ては人 格自律の精神であり, 外形的の結果では無い。 其れ故に我々 は大学拡張教育 とい う様な, 温情主義的の 教育だけで満足するもの では無い 。 我々 は教育の 自律を計らなければならない。 結局は我々 の 学校は, すべ ての 点に於て我々



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自身によっ て組織せられ, 支持せられる。 其れは終生的の学校である。 労働 しつ つ 学ぶ学校である。」
この趣意書にみられるように, 「すべ ての社会的不平等は教育の不平等を根 本の原因として運命的に決定せられ」という見解に立つかぎり, 自由大学が政 治活動よりも教育学習活動に力点を置いたのは当然のことであっ たろうc し か し な が ら , こ こ に , 「社 会 的 政 治 的 運 動 と の 断 絶 は , 当 時 の 教 育 運 動 が自らのい の ちを保持するために払わねぽならない やむをえない 代償には柑違な かっ たが, 多くのぽあいそれは教育運動の成果をスポイル してしまうことにな っ た。 真実の人格の向上一 人間精神の変革一 が,社会と自然の変革の実践 の なかで実現するものである以上, 実践に よっ て検証されることのないままの 英知が教養にとどまっ てしまうのは当然であろ5。」「教整主義とは, つ まると
ころ理論と実践の分離であり, 社会を変革するこ とと人間を変革することとの (1)
不統一としてあらわれる ところで, 杏村の考えていた厂教育1とはいかなるものであったろうか。 彼。」と批判される基盤があっ た。
は 次の よ 5に 述べ る。
「我々が特に資本主義, 社会主義と決定せず,ただ真の人間の進むべ き道途を追求する教育を理想として教育するこ とは, 此れ亦少しも否定せらるべ ぎものではない。 i{/sは今資本主義と社会主義との何れが真なるやを断定しようとは思はない,かかる判断の真を追求し, 虚偽を拒否する人格的態度を得る
(2) ように, 相互的に教育しようと欲するのみである。」信濃自由大学 (のちに一ヒ田白由大学と改称)に続いて大正12年12月には下伊
那に信南自由大学 (の ちに伊那臼由大学と改称)が設立され, 1月松本に松本自由大学が生まれた。
さらに 大正14年こ うして自由大学の運動は長野県下に広がっ てい っ たが, そこに参加していっ たのはどういう人たちであっ たろうか。
(3 ) 記録にみるかぎり農業従事者が圧倒的に多か っ たが,その他は商業, 官吏,



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教員, 学生,製糸業, 弁護士, 新聞記者, 軍人, 宗教家, 旅館業, 医師, 職工 等々であっ た。 変わっ たところでは, 春奴とか静枝などという芸妓の名もあり聴講者の 多彩さを知る こ とがで きる。 (4) なお, 自由大学での講義科目と講師の顔ぶれは次の ようなものであっ た。
恒藤恭 (法律哲学), 高倉輝 (文学論), 出隆 (哲学史), 王田杏村 (哲学概 論),世良寿夫 (倫理学), 大脇義一 (心理学), 山口正太郎 (経済学), 佐野勝
一 也 (宗教学 ) i 波多野鼎 (経済思想史,社会思想史),新明正道 (社会学), 中 次 麿 (政 治 学 ), 金 子 大 栄 (仏 教 概 論 ), 谷 川 徹 三 (哲 学 史 ), 佐 竹 哲 雄 (哲学), 住谷悦治 (経済学), 安田徳太郎 (生物学)。 (5 ) この講座及講師につ いて猪坂直一氏は次の よ5に述べ てい る。
一主として土田杏村氏のきもいりによるものだが, 当時いずれも新進第一級 とみられていた学者であっ たから自由大学に対しては世のいわゆる te成人教 育” とは異なることが注日された。 しかし世評の中には tt白由大学はむずかし過ぎる”とい うのが多い のは当然として,
CCあれは社会主義,共産主義の 研究所だ”というものもあれば,その反対にヒ粕由大学はブルジ。 ア講座 だ” と批判する連中も多かっ た。 聴講者の中に市長がいたり, 芸者がいては そう見られるのもやむを得ない ことだっ たかも知れない。 しかし私は自由大 学をブルジ・ ア教育だとい5批半lにl対して自由大学雑誌の中で噛由大学こそ資本主義に災いされない教育である” ことを力説した。」 具体的に どの ような内容が講義されたのか明らかではないが, 大学での一年 分の講義が自由大学では5日問で終わっ てしまっ た, とい 5講師も居たと髫われ,かなり密度の高い ものだっ たと思われる。 さて, 長野県下の 上田, 伊那, 松本の各自由大学の ほかに, 県外で は新潟県に 魚沼, 八海の両自由大学, 群馬県に前橋自由大学, 学,東京に東京市民自由大学, 福島県に東北自由大学等が続々 と設立されていた。 っ , “一 大学の数が増えるにともなて相互の連絡の必要もありまた自由大学

宮城県に 石ノ巻自由大今

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運動のいっ そうの発展をはかるという意味からも各自由大学を統一した連盟機 関が必要となっ た。
1924(大正13)年 8月20日, 長野県別所温泉高倉輝宅で 自由大学協会設立の 準備会が開かれた。 出席者は上田自由大学か ら金井, 山越, 猪坂, 魚沼, 八海 両自由大学より渡辺泰亮, それに高倉輝であっ た。 協議の結果,
(1漣盟を「自 由大学協会」 と名づける。
(2)機関雑誌を発行する。
(3)「自由大学協会規約」(土田杏村草案)の決議。
(4)協会の専務幹事に猪坂直一を推薦。 が決定された 。
翌大正14年1月に機関雑誌として 「臼由大学雑誌」第1号が発行された。 24 ページ1部15銭であっ た。 執筆者には, 土田杏村(自由大学へ ), 新明正道(忘 れられたる花篭), 高倉輝(露西亜文学研究(1)等の顔がみえる。 自由大学協会規約は 1.目的 2.組織, 3.会員, 4.役員及会議, 5.会費及会 計, 6。事業, 7,講師、8.附則の 8章10条よりなるもの で, 第2条には 「本会とい う4つ の事項は独立せ る各 IU由大学の 共通問題を共同的に 処理 し, 其の 事務の 連絡と統一 とを得, 更に自由大学運動を全国的に派及する様努力することを以て 目的とす,多大の経済的負担をかけるもの であっ た。 だか ら自由大学が不況の影響をまと もに受けて存立の基盤をゆさぶれたの は無理もない こ とであっ た。

この時点での加盟校は, 上田, 伊那, 松本, 魚沼, 八海の 5大学る。 」とある。 であっ た。 農村青年たちのささやかな哲学研究会に端を発し, 長野県から県外の各地に まで広がっ た自由大学運動は , 連盟を結成するまで に成長したが,昭和初年に はほとんどその灯は消えてしまっ た。 1つには, 農村の不況とい う経済的な打撃が大きかっ た。 当時の夊化講演会 のように誰かがおぜん立てしてくれた集会にただ参加して話をきいて帰っ てく るとい うのではなく, 参加者が聴講料を払っ て連続的に講義を聞くとい う自由 大学の在り方は, それが大ぎな特色であっ たとはいえ 一方において聴講者に

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さらに自由大学運動の大きな支柱であっ た土田杏村の病気の悪化と高倉輝の 左傾も痛手であっ た。
大正末期か ら昭和初年にかけての社会状況の深刻化も, ある意味で教養主義的な色彩の濃かっ た自由大学の存続を許さなかっ た理由であろう。 (6) この運動についてのまとまっ た研究や評価は今までのところ少ないが, 杏村 (7)た高倉輝は次の よ5に総括している 「結局白由大学が全体としてどれだけの効果をあげることが出来たかとい う
と と もに 常に 運動の 中心 に あっ。こと, したがっ て, 自由大学が実際に どれだけの意義を持っ たかとい うこと は , も っ と 長 い 歴 史 に 語 ら せ る よ り仕 方 が な い 。 だ が , 5 里 , 6 里 の 雪 の 山 道をも厭わず, 貧しい財布の 中か ら毎月2円3円の お金を出して, そして講 義を聞いて, 帰る頃にはもう夜が明けかけていたとい うような, それらの聴 講生の 熱意が無意味に終るこ とは絶対に無い であろ う。 それは, 人間として 生産者として, あくまでもそれらの人々 を養っ ている筈である。 それはどう い う意味かで, 必ず日本の社会を大ぎく押し進める陰の力となっ ているに相 違ない 。 」
以1:が長野県を中心にみた自由大学運動の概観であるが, この運動の もっ て い た歴史的な意味と限界を,総体として明らかにするために は,長野県下におけ る 運 動 の み で な く各 地 に 誕 生 し た 自 由 大 学 の 実 態 を 詳 細 に 解 明 し て み る 必 要 が あると思われる。 ところが従来長野県以外の自由大学については, その実情がほ
とんど知られていなかっ た。 この小論では, さしあたり新潟県に創設された, 魚沼, 八海の 両自由大学につ いて可能なかぎりの 解明を試みてみたい と思う。
(註 ) (1)宮坂広f乍著, (2)伊那臼由大学パ ン フ レ ッ 1・, 「自由大学とは何か」 (3) 自由大学雑誌第1巻第2号26ペ ージ。 及び猪坂直一著, 「枯れた二枝」(49 〜 50ペ ージ)

「近代日本社会教育史の研究」(460〜461ペ ージ)


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(4)猪坂直一著「枯れた二枝」(52〜54ペ ージ) (5)前掲書 (51ペ ージ)
(6)宮原誠一著, 「教育史」(254〜256ペ ージ), 平沢薫著, 「社会教育の展開」 (149〜150ペ ージ)等においてわずかにふれられてい るが,最もまとまっ たも の として,前掲宮坂の 「近代日本教育史の 研究」の うち第3部近代日本にお ける社会教育運動の思想と実践, 猪坂直 著, r枯れた二枝「, 雑誌 「教育」 昭和12年9月号の 高倉輝論文等がある。 その他に 上木敏郎編集 「土田杏村と
そ の 時 代 」 (第 7 ,8合併号)がある。
(7)雑誌 「教育」, 昭和12年9月号, 「自由大学運動の経過とその意義」(高倉 輝)
2. 魚沼, 八海両自由大学の誕生と活動た。
八海自由大学は,同年12月新潟県南 ケ に 魚沼郡伊米 崎村 誕生した。
・923(/tlE・2)年8膈 縣 北鰡 欄 之内紐誕生し鰡 舳 大学は, (2)
これよりさきr大正11年8月に, 両村には 「夏期大学一1が開かれ, ⊥円杏村, 高倉輝等が講師と して来村してい た。
伊米ケ崎村における夏季大学は, 名称を八海夏季大学と言い伊米ケ崎村小学 校校長渡辺泰亮の努力によっ て開設されたものであv. た。 渡辺は伊米ケ崎村の 人間であっ たが, 新潟師範出のイソ テ リで, 師範時代土田杏村の 2級後輩であっ た。 学校時代から2人は親交が厚く卒業後も交信が続いていた。 そんなとこ ろか ら渡辺は長野県における杏村らの 自由大学運動の話を聞き, また杏村か らのすすめもあっ て伊米ヶ崎村に夏季大学を開い たもの と考えられる。 い わば± 地の イン テ リの啓蒙活動的色彩を帯びて生まれたものであっ た。 一方堀之内村の夏季大学は発生の事情が多少ちがっ ている。 1922(大正11)年8月, 1一越線が長岡より堀之内村まで開通した。 鉄道の 開 通 を 記 念 し て 商 工 業 に 従 事 し て い る 同 村 の 青 年 た ち の 親 睦 団 休 r響 倶 楽 部 」 は


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記念事業を計画していた。 その ころ堀之内村丸末書店の店員中条登志雄はかねて懇意の 渡辺泰亮に夏季大学の構想を聞き, 響倶楽部の青年たち と図っ て記念事業としてこれを具体化するこ とになっ た。 こ れに 同村の数名の教員が加わ (3)り,さらに堀之内村出身の関魚川が主筆の地位にあっ た北越新報社が後援して 夏季大学が実現した もの であるv 魚沼夏季大学と呼ばれたQ その 時講師として招かれた杏村は, 「教育ノ基礎 トシ テ ノ哲学 (自由教育論 上 巻 )」 と 題 し 次 の よ う な 講 義 を し た 。
第1論 教育ノ意義
問題ノ提出 教育者と被教育者 教育可能ノ問題 被教育名ヘ ノ影 (マ マ ) 響 影響ノ継続的意識的 環境ノ問題 究極理想ノ予想 批判的
教育学ノ 立脚点 教育概念ノ 中心的構成 教育概念ノ決定 教育ノ 客体 人格自律 ト臼由教育 教育者 ト教育客体 影響ノ特質
第2論 教育ノ 目的
存在ト当為 規範 ト自然概念 価値 ト快苦 価値 ト実用 主観及ビ 人格 夊化ノ概念
笏3論 個人ト社会 社会ノ 構成 自由及ビ奉仕ノ概念 理想ノ社会 第4論 教育者及ピ被教育者
人格ノ 白律 ト教育 実践理性ノ優位 但しこの時の講義では第1論に重点が置かれ,第2論以下は簡略なもの であ
った。 (4) この時の魚沼夏季大学には約300人の人間が参加した。 八海夏季大学の こと
は不明であるが, 翌大正12年3月/日付杏村より渡辺へ の葉書には.杏村の次
の ような提案がみえる。 「8 月 の 会 の こ と , あ れ は 2 度 に や る の は 運 動 と L て 不 利 益 だ 。と合併するなり,8月だけ魚沼主催,
八海後援とするなりで ,八海 と魚沼 1度に 1箇所



(154) 魚沼, 八 海両 白由大学の 成立 と経過
でやる方がよい と思ふ。 これは高倉君も君の方から帰っ て頻りにい っ て居 た。 もっ と具体的の君の腹案をきかせてくれたまへ 。 そろそろ講師をたのま ない とおそい。」
しかし結局2つは合併することなく, この年8月と12月にこの 「8月の会」 は F}由 大 学 と 名 を 変 え て そ れ ぞ れ 正 式 に 発 足 し た 。 r 自 由 大 学 」 の 名 を 冠 す ることにつ いては, 講師の選択を打ち合わせる次の手紙の中に, 杏村の考えが表 明されて い る。
「渡辺君 今朝電報を打っ ておいたからもう見て くれたことと思ふ。 山本宣治君(京大, 理学部講師)は別紙のように承諾してくれた。 2人出来たからまあ開会は現実になっ た。 Ilr口君からはまだ返事が来ない。 FI取りは山本, 高倉2人に打合せさせるとよい。 2人は親戚の間柄だから。 山木君の性教育論は随分立入っ た話をやることと思ふ。 わきの方の影響が悪 いと思っ たら, 手加減をして貰ひたまへ 。 併し京大主催の講習会でもやるの だから弟支へは無論ないと思ふが。 田舎のわからずやはひょっ とするとびっ くりしようカ、 ら0
これで2人とも婦人にもよい。 いつか午後にでも婦人デーをやりたまへ 。 僕は開会の 口に2人の紹介をかねての長文の祝辞をおくる。 君からよんで貰はう,会の名称も夏期大学では平凡だが 「魚沼自由大学ゴとしてはどうか。 啓明会でも今年は向由大学と銘を打っ たし, 東京のは前から市民自由大学だ。 この方がこれから新らしい気分を象徴する。 夏期大学とか夏期講座とかは何だ 一 ([)か生ぬるい 空気の気がする
後略 こうして1923(大正12)年8月, 魚沼自由大学は発足したが, 病気のため発
「魚沼自由大学の盛会を祝します。 白由大学へ 高倉,山本両君を講師として。」。
会式に欠席をよぎなくされた, 杏村は, 次のようなメ ッ セ ージを送っ た。
御紹介することの出来たのは,私の非常tこl と るところで 光栄 す あります。
高 倉 君 は , 非 常 に 長 い 間 外 国 文 学 特 に 露 西 亜 文 学 を 研 究 し て 居 ら れ た 学 究


魚沼, 八海両自由大学の成立と経過 (155)
で あ ります。 高倉霜の ように苦しんで, 厳格に, 露西亜文学を研究した人は少ない こと
と信じます。 其事は同君の 「蒼空」や 「我等いかに生くべ ぎか」をお読みに なっ た人の 痛切に お感じになる点であらうと思ひます。 然るに同君は此の 数 年来は其の 下準備を基礎として , 全然創作の 中へ 没頭して了はれました。 ここに も亦驚嘆す可ぎ高倉君を私は眺め て居ります。 山本君は京大理学部の講師でありますから, 本当の意味の学究でありますが, 単に学究たるには少し熱血が動き過ぎます。 性教育や産児制限問題など に就ては我国の第一人者であり, 本年夏の京大の講習会では, 此処と同じ題 目の性教育を講義し, 老大家の河上博士の講義に次ぐ多数聴講者を得ま し た。 今後同君がど5いふ途を進まれるかは,満目の等しく注意しつつあるとこ ろで あります。 高倉君, 口」本君は, 共に古い階級を代表せず, まさに生れんとする新時代の先駆者として,文壇, 論壇, 学界の少壮花形となっ て居られる人達であり ま す か ら , 必 ず や 諸 君 と 共 鳴 し 合 ふ もの が あ る こ と と 瓜 ひ ま す Q
我々の自由大学は何等かの主義主張を宣伝する為の機関では無い。 我々は ただ教育の 上に於てのデモ クラシイを叫ぶだけである。 我々すべ てが, 春夏 秋冬, 高い教育を受けることの出来る機関を作りたいと希ふだけでありま
す。 両君は民衆運動に深い同情を持っ て居られ られました。 私は両君 と親しい 友誼を持ち, 吐つ 両君へ の 出講を御依頼する お 使 ひ を し た 関 係 一h , こ こ に い さ さ か 両 君 を 御 紹 介 中 し ま し た 。 最後に私自身の ことを申します。 先きに確実に出講を承諾して 禮きなが,ら, 病気の 為, 全然其の 約を破毀しなければならぬ事に なっ た罪を, ひ とへ に幹部諸君並びに聴講者諸君におわび中します。 幸にお許しあらんことを希ひ ます。 」悦んで魚沼自由人学へ 出講せ



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会場は堀之内小学校を使用し, 参加者は約150名であっ た、, この時の時間割 は 次 の 通 りで あ る 。
8月6口午前9時 高倉輝 近代思潮論 同午後 1時半 高倉輝 婦人の 為の 講演 恋愛と家庭 8月7日午前8時 高倉輝 近代思潮論 同午後1時 沖野岩三郎 科外講演 宿命されたる個人は如何にして自由を得べ きか 8 月 8 日午前 8 時 高倉輝 近代思潮論 同午後 1 時 山本宣治 性教育論 8月9日午前8時 山本宣治 性教育論 同午後1時 中山晋平 科外講演 音楽実地指導 8月10日午前8時 山本宣治 性教育論 同午後1時半 山本宣治 婦人の為の講演会 性の 問題 以 上 の よ う な 5 日 間 に わ た る 講 義 の の ち 第 1 回 の 魚 沼 自 由 大 学 は 幕 を 閉 じ た ,, さて, この時のもようを講師の 1人 山本宣治の 手紙によっ て見よう。 山本 は 講義の 合間をみて 8月10日堀之内村か ら京都の 杏村に あて て 次の よ うに 書き 送っているc



魚沼, 八海両自由大学の成立と経過 (157)
「 (前 略 )教 壇 の わ ぎ に 立 て た 雪 塊 は , 大 都 会 の 花 氷 の や う な 人 工 味 も な く ,
豪壮な涼味を覚へ ます。 京大のはより集まりの教育者で皆中々威厳を保つの 『
に著心して居たらしく中々笑ひませんので私も何かギコ チなさを感じたので すが, ここでは 白然な笑声も湧い て来る。 之が何よりも私を涼く思はせる。 8日午後, 9H 午前と既に約5時間話しました。 今日は朝ひる共にぶち通し 埓をあける考えです。 京都のよりもコ ソデソスされて内容もより豊かになっ殊に目下病(種の神経痛)に悩まされつ つ も共 を排して忍んで三面六臂の大活動をして居られる渡辺君にも感謝しつつ, 私 も出来るだけの事をやっ て居りますから, 魚沼自由大学の第2期の結果は悦 ばしいものでせう 一略一 堀之内の諸君は私を歓待Lてくれます, 殊に若
た と 自信 し て 居 りま す が,。。い人々の真険な態度と婦人聴講者の忍耐熱心とに感激せざるを得ません。 人 生観に動揺を感じたとい ふ人もありますが, 高倉氏と私によっ て与へ られた 刺戟がどうい ふ反響をもたらすでせ うか。 攻学青年「の無い事, 教育者の内,特に若い人々に熱烈な確信と深い薀蓄体験を具へ た人の多い事は関西農村の 「知識階級一:と異る愉快な点で (6) 察して居ます。」,雪の冬の影響もあろうか と興味深く観
ところで大正10年代の新潟県にあっ ては, 官製の 「夏季大学」も盛んであっ た。 民衆が自らの意志によっ て自ら作りあげた「自由大学」と, おヒのお仕着 せ の 官 製 夏 季 大 学 と の 違 い を 次 に み よ う。 1922(大正11)年8月,新潟鼎当局は越佐夏季大学とい う名の官製講演会を 開設した。 翌大正12年夏, ち ょ うど魚沼自由大学が誕生した同じ8月に , 越佐 夏季大学は第2回めの開講を迎えていた。 そのもようを, 大正12年8月2日付 北越新報は 次の よ うに 報じてい る。 「赤倉温泉の越佐夏季大学 最新式の無線電話講話 聴講者632名亅とい う 見出しに続き,
「赤倉温泉に開会の第2回越佐夏季大学は 1日より妙高小学校に開会, 聴講



(158) 魚沼, 八海両自由大学の成立と経過
者632名内女子53名, 午前8時開講式を挙げ知事代理千葉内務部長開講の辞を述べ 講演に入る, 第一・席京都大学教授野上法学博上は能率増進の三問題と題し世界戦争後, 国際間の 競争は兵力, 金力を超越して人力競争となりと前提し適材適所, 境遇の改良, 仕事の過程の改良の三問題を詳説し,適材適所 の各論に入り 個人差を 説し 人類採用と職業選択とを詳論し,午前11時詳 半一先づ終了。 更に午前11時半より東京高等工業学校教授竹内理学士はアイ,
,ンシ ュ タインの相対性につ き, 「相対性と物理学の将来1と題し相対性の理 論を説き午後0時半ひとまず休憩, 午後1時半再会, 相対性に 就ての講演を続け午後3時終了, それよ り京都帝大教援鳥飼工学博士は無線電話の講話を 開くにつ き実験を毎日午後3時より5時迄行ない聴講者に聴助せしむべ く1日新潟, 長岡, 高田3市外の聴講者に聞かしめたるが午後5時終了したり。 因に この無線電話は最も新式の もの にして京都大学に於て本年4月大阪の文 化 講 座 に 於 て 実 験 し 公 衆 に 示 し た る もの に て 今 回 は 第 2 回 日 な り と 。 」 「能率増進の三問題」などを掲げてい る越佐夏季大学と, 魚沼自由大学の比 較はわれわれにさまざまな事を示唆して興味深い 。
ところで, 魚沼自由大学の誕生を知っ た新潟県当局はこの年の秋, 自由大学 運動の弾圧にの り出した。 次にみるような 「注意書」を, 県内の郡市長,町村 長, 青年会長, 学校長等に発している。
「近時一般民衆の知識欲旺盛に趣き結果各地に於て講習会講演会夏期大学等 を開催するもの 遂年増加するは一般夊化の 進展上慶賀に堪へ ざる所なりとい えども往々 に して講師の 人選に 周到なる注意を欠ぎ講師其人の思想の傾向発 表方法等頗る寒心に堪へ ざるものありて其筋に於ては予而特別の注意を要す る人物として取扱はれつ つ ある者たるに拘らずこれを講師として招聘し講演 を聴か ん とするもの あるが如きは大い に 考慮を要する次第に有之候条亦今講 師の 人選に 関しては 主催者に 於て一層周到厳密なる調査を遂げか か る人物を 講師として招聘するこ と無之様十分御注意相成様致度此段及移牒候也。」



魚沼, 八海両自由大学の成立と経過 (159)
この注意書を読んで杏村は怒っ た。 これを単に一一白由大学へ の圧迫と微視的に受けとるの でなく, 時代を覆う危険な徴候として受けとめた彼は, 早速, 「震災に際{、ての思想戦」という一文を草し東京の報知新聞に発表した。 これは同
(7) 紙上に4回にわたっ て分載された。 そのなかで, 彼は次のように反駁する。「県自身が笹年大規模の夏期大学を開催して居たげれども, 其講は御用学 者許りであっ て青年の要求を充たすに足りないか ら, 我々 は昨年以来自由大学を創設して新らしい 空気の 思想運動を起した。」と主張したあと, 「この牒書を読んで見れぽ, 或いは社会主義者を講師にしたものの様に聞え もしよう。 然るに我々が事実を調査したところでは, この中の 「其筋に於て は予而特別の注意を要する人物1 に該当するものは,沖野岩三郎氏及び京大 理学部講師山本宣治氏で あっ た。 沖野氏は女学論を為したが, 氏の思想に特 別の注意が必要だとも思はれない。 思想的にはもっ と幼稚な朝鮮や満洲でさ へ 氏の講演を歓迎して居た様に記憶する。 山本氏は性教育を論じたのである が, これは京大主催の通俗講習と内容の 同じもの であっ た。 しかるにそれ等 すべての講師を一括し, 指すに 「かかる人物」とは何たる無礼ぞ。 議 員 選 挙 の 時 に 其 の 候 補 者 の 或 物 を 指 し , 「彼 は 其 筋 の 予 て よ り 特 別 の 注 意を払っ て居るものだから, かかる人物に投票するな」との注意書を県民に 発したとすれば, 何人もかかる赤裸々な選挙干渉は無いとし, 憲政の一大恨 事としてそれを攻撃するであろう。 しかるに各県に於て現に行なはれつ つ あ る思想干渉は, 遙に其の選挙干渉に過ぎて居り, しかも其の遣り方は専制的 である。 ただ其の干渉が一見しては法律のどの夊句にも抵触して居る様に見 えないものだから, 平然として為さるるまでの事である。 けれども原則とし てそれは思想の白由を拘束した, 許す可からざる憲法違反でさへ ある。」 報知紙上で反撃したあとすぐに 杏村は伊米ケ崎村の渡辺泰亮にあてて長夊の手紙を送っ てい る。 次はその一部。 「決して妥協してくれたまふな。 あの訓示はあまりひどいから, 東京の報知


(16の 魚沼,八海阿自由大学の 成立と経過
新聞にかいておいた。 痛烈に罵倒した論文を4日間書いた。 君には全然関係 な くか い た 。
もっ と県が圧迫Lた ら後藤に上申するつ もりだ。 後藤は 自分で夏期大学を やっ てるからよくわかるつ もりだ。
何にせよ, 教育界にはやる仕事が沢山ある。 県の馬鹿どもを合手にしない
(8 ) で, 我々は我々の魂の声にきいて動かうではないか。」
伊米ケ崎村小学校長という厂公職」にあっ て, しかも当の白由大学の中心人 物であっ た渡辺に対する杏村の心づかいが見える。 県 当 局 の 圧 迫 に も か か わ ら ず , 魚 沼 自 由 大 学 に 続 い て こ の 年 12月 , 八 海 自由 大学が続いて創設された。 1923(大正12)年12∫]16凵である。 午前10時より伊 米ヶ崎小学校に多数の 聴講者を集め て発会式が行なわれた,
(9 ) に みえる ゚一この時は.にて , 高倉輝 発会式 臨み 」と題して次のような演説を行なっ た。一 1私は 「八海自由大学1の発会式に臨んで劈頭諸君と見ゆるの光栄を有するを得たこ とを心か ら喜びとする者である。
先ず第1に私は この 自由大学の創立に対する諸君の異常なる 「熱」に対し て心からの愉快なる愕きを抑へ ることが出来ない。 この熱とは言ふまでもなく諸君が諸君自身を教育し成長されん とする所の巳むを得ざる熱望で あり またこの 熱望こそは現在あるこ とろの公立大学の制度の徒らに唯だ学生に職 業を字ふるのみの機関に堕しつ つ あるに対して正に確然と自由大学存立の意 義を植えつげる所のものであり, 而してまた同時にこれこそは諸君がやがて 来 ら ん と す る 光 栄 あ る 時 代 の 健 全 な る 一.・単 位 と し て い ま 確 実 に そ の 参 与 の 資 格を把持しつつある何よりの証左である。 即ち諸君は巳に諸君の健全なる職,業を持っ てい る。 この 自由大学に よっ て諸君の職業の 上に何等か の私益を得 身、ようと言ふ毫厘の野望をも持っ てはいない。 即 ち 諸 君 の こ の 学 問 芸 術 に 対 す る 熱 望 は あ た か も 渇 け る 者 の 水 を 求 め る 如と当時の 新聞記事

魚沼, 八 海両 自由大学の 成立 と経過 (161)
き純粋なる巳むことを得ざる熱望である。 而して本来学問芸術とはかかる純 粋に飢えたる者の 場合に於ての みこれに豊かに して健全なる滋養をす可き性 質のものである。 即ち諸君の精神がかくの如くに飢えている限り恐らくはこ の自由大学は永久に続くであろう。 而して恐らくは永久に諸君を養ひ諸君の 成長を助げる最も大いなる糧となるであろう。 ここに私もこの 厂八海自由大学」の一員として永久に諸君と同じ道を歩き, 永久に自己の成長を計らうと (10) する の 喜びを分た うとする者で ある。 」
こ うして魚沼,八海の両自由大学はその歩みの第一歩をしるしたが, こ こで 自由大学発詳の地となっ た堀之内村と伊米ケ崎村につ いて簡単にふれておきたいo 堀之内村の入口は,大πr13年の記録では総数7,580人, その うち男3,809人, 女3,731人で, 世帯数は1,389戸であっ た。 上越線の開通によっ て当時村は活気 を呈してい たが, 大正13年1年間の堀之内駅の乗者人員は79, 210人, 降車人員 は78, 115人, 旅客収入金は33,837円32銭であっ た。 村当局の 教育に対する熱意 が特に高かっ たとも思われないが, 村史をたどれば次のような事実がある。 明治36年, 教育の徹底は環境の如何にある, とい う認識にたっ て堀之内村教 育会を創設してい る。 事業としては , 教育の補足, 優秀児, 無欠席児の表彰, 忠良孝子の表彰, 文庫の 経営などであり, 必要経費は 村の 補助金と村内有志に
よっ てまかなわれていた。 これほ支那事変の頃に解散している。 大正5年には大正文庫が創設された。 これは大正3年5月7日に大正天皇御 即位記念事業として村内巡回文庫の設置が議決され, それに もとついて創られ たものであっ た。 主として青年会と村内有志の努力によるものであり, 収容書 籍は643冊を数えてい る。
大正10年12月には農商補習学校を創設し予算2, 826円を計上してい る。 伊米ケ崎村にいたっ ては文字通りの僻村であっ た。 大正13年同村の総人口は 2, 878人, その うち男1,459人, 女1, 429人, 世帯数


(162) 魚沼, 入 海両自由大学の 成立 と経過
は 503戸であっ た。 開通した上越線か らも遠く, 交通不便な寒村に 自由大学が 生まれ, そこに知識を求める多くの人々が集まり, 続い たとい う事実は驚くに値する。 さて, 翌大正13年夏には第2回めが開講されるのだが, その前に次の2点にふ れてお きたい 。 一つは魚沼自由大学を推進してい く人々の間に内紛があっ たということである。 将来の 自由大学の在り方につ いて 見解を異に する二 派が生まれ, 結局, 響 倶楽部の主流は魚沼自由大学から手を引くことになっ た。 その結果, 残っ た者 はあらたに同人組織魚沼自由大学を作りその後の運営にあたることとなっ た。 結集した同人は約30名, 代表者は林広策, 主力同人に は中条登志雄, 森山新蔵, 加藤金治等がい た。
次に, 杏村や渡辺らの間でも自由大学のもち方につ いていろいろな反省があっ たらしい。 のちにみるように次回大正13年夏の魚沼自由大学の姿は, 長野県をも含めて自由大学の歴史のなかでは異色の様相をみせている。 つ まり自由大学のなかに, まじめな講義だけでなく,娯楽的要素をも添えたことである。 その間の事情を杏村の次の手紙が語っ ている。
「講習の件, 魚沼と八海と2箇所でやるのはどうしても不利のように思ふがどうか。 若し八海でバッとしたものをやり,魚沼でじみのものをやれば八海の方ぽかり聴講者多くなり, 魚沼は非常にさびれることと思ふ。 魚沼の方もど5かして生かしたい。 冬は八海の方でやれぽ夏は魚沼の方でやるとか, そこに何とか妥協の方法はないか。 そして白由大学の理想としてはしっ とりと落ちついたのがよいのだが, 信州ほどに夊化が開けず, やはりバッ としたのがあたるとすれば, その中間を取り, バ ッ としたところ1人位に, じみなもの 1人, とかいふ風にして漸進的にやっ て見るか。 今の新潟県の 状態じゃあ , と て も じみ な もの 許 り で も い け な い ね 。 上 田 な ど は も う 自 由 大 学 に 信 頼しきっ て居るから学課により, 大して聴講者に変動はないが。


魚沼,八海両自由大学の成立と経過 (163)
も う一 度 よ く 魚 沼 の 方 と 相 談 し て 見 ら れ て は ど うか 。
(11) も生か したい ものだ。」ど うか し て 2 箇 所 とさて第2回めの開講を前に して, 杏村らは自由大学に対する理解を求めてさ かんな啓蒙宣伝活動を始めている。 次に掲げる夊章は 「白由大学の意義」と題 す る 杏村 の 呼 び か け で あ る 。 「 (前 半 の 部 分 は 省 略 ) 自 由 大 学 は す べ て の 社 会 人 を 終 生 的 に 教 育 す る 教 育 設備である。 勿論それは単に知識を教へ る謂では 無い 。 自由大学の 学習は , 己教育を本位とするから, 開講せられて居る期間は甚だ短かいが, 其の講義 は毎年連続し, 且つ 其の 講師に も変更が無い か ら, 我々 は 自由大学に於て ,
静かに 深く自己の 教聲を進め るこ とが出来る。 ことが無い。 寧ろ自由大学の理想は, 労働しつつ学ぶ人格をつ くることに置
かれて居る。 のみならず自由大学を支持して行く計費は極めて僅少のもので あっ てよい。
我国の現状を見れば, 改造せられなければならぬものは多々 あるが, し其の 何れの改造も, 根基に教育の充実を置かなければ何の意義をも発揮し 得ない もの許りである。 社会の此の 重大なる危機に 臨んで, 私は 1日も早く 自由大学の制度が全国的に行き亘ることを希願してい るものである。 自由大学の理想は確然として, 此れに一点の疑義の介在することも許され ては居ない。 こ こに 同じい成人教育の 目的を遂行しつ つ も, 教育の 方式とし て我々の満足しがたき2つ の施設が, 現に社会では実行せられているから, 其れに就き一言を費して置きたい。 第1は, 以前から各地に開催せられて居 る所謂夏期大学である。 私は其れに全く反対するものでは無いが, しかし, 近時の夏期大学が徒らに形式倒れとなり, 実質に於て次第に低下しつつある 事は疑へ ないと思ふ。 のみならず其の講義が断片的となり, 聴講者の 自学的 習慣を養ひ得ない点で其れは根本的の欠陥を持っ て居るやうである。 若し今 日の夏期大学が此の欠陥を救済したとすれば, 其の結果は当然我々の自由大
自由大学は農村の 労働を奪ふしか自


(164) 魚沼, 八海両自由大学の成立と経過
学となるであろう。 しかし自由大学以外に此種のあることには, 我々は賛成 こそすれ, 無下に反対しようとするものでは無い。 第2は, 近時関西の諸地 方に設立せ られつ つ ある所謂公民大学である。 公民大学は我々 の 臼由大学よ り後れて発達したものであり, 其の設立者は現に公民大学を本位としての教 育理想なるもの を持っ ては居ない が, 元来我々 の 自由大学の 方法を模して設立したものであるから, 其の 方法だけを見れば自由大学と何の 相違をも持た ぬものの如くに見える。 しかし我々の場合には民衆自身の要求に発し, 民衆 自身が其れを設立し, 支持して居るに対して, 公民大学の場合に は, 其れの 設立は民衆の要求とは別に出発し, 其れを設立し, 支持するものが郡教育会, 郡其のものといふが如き官公的集団なる点に於て, 我々は此れと其の理 想を別にしなければならない。 勿論, 我々は官公的集団其のものを排斥する のでは無く, 共れには固有の社会的任務あることを十分に容認するものであ るが, 自由大学を設立支持するもの としては, 官公的集団は最適者でない ことを此処に高調して置きたい。 教育とは自律的の人格をつ くることであり, 且つ 成人教育に於ては特に 自学自治の 習慣を養成生長せ しむべ きもの なるが 故に , 官公的集団が成人教育機関を設立支持する こ とは , 実は 民衆に 対 して 親切なるものでなく, 且つ 理想として, 白由大学の高調する教育の自由を奪 ふことになると思ふのである。 此の故に我々 は飽くまでも,其等の集団より 離れ, 民衆自身の要求に即して自由大学を設立し, 民衆自身の熱心によっ て 此れを支持して行か 5と思ふ 。 郡教育会其他此れに 類する官公的集団が自由 大学を側から援助することは,我々 の歓迎し, 感謝するところなるは言ふま で も無い 。
自由大学を通ほしての成人教育は,我々 の世紀の教育理想となり, 近き将 来に全国化せらるるに至ることを, 私は今, 確信を以っ て断言し得るものである。」 文中, 「官公的集団」に対しての批判があるため,この時も県当局からある種



魚沼, 八海両A由大学の成立と経過 (165)
の圧迫があっ たが,その内容の詳細は今はわからない。 杏村は更に新聞紙上にも 一夊を草して自由大学へ の参加を広く呼びかけてい
る。 次は大正13年7月10日付北越新報所載の もの。「我々の自由大学の季節が来た。 友よ, 鍬を捨て, 鎌を収めて, 新らしい講 義を聞く人とならうでは無いか。 どんな新らしい 呼び声が我々 の耳に響いて来るか。 其れを思ふの は今か ら大い なる楽しみだ。 我々は人間になるのだ。 人閥らしい人問になるのだ。 からっ ぽな政治騒ぎ や, 村治の改良が何のやくに立つ か。 我々 は先づ自分の精神をしっ かりと建 設しなければならない 。 自分は冢庭の事情で大学へ まで進んで 行く事が出来 なかっ た。 けれども自分はか うして労働する事を,人問として光栄だと信ず る。 さうして今は家に居ながら, 此の労働の あい 間に, 大学の講義を系統的自分は労働をする。 そして此 の講義を忘れない。 自分の知識は磨かれて, 堂々たる学者の其れにも達しよ う。 けれども自分は 一個の農夫だ,商人だ。 其処に黙々 たる生活の自信がある。 友よ,我々 を呼ぶ 自由大学の鐘は高く鳴っ て居る。 さあ, 鍬を捨て, 鎌を 収める時だ。 我々自身の 守り立てて居る学校が開かれるのだ。 魚沼自由大 学, 八海自由大学, 其れが今我々 の 生活を導い て居る口標だ。 我々の自由大学は, 所謂夏期大学とは類を異にして居る。 我々の自由大学 は毎年連続した講義を以て進め られて行く。 知識の 断片を得て虚栄を大きく するのでは無い、, 考へ る仕方を深めて人問の品位を高くして行くのだ。 そし て此の自由大学を, 誰れからも強制せられず, 自分自身の内面の要求から, あらゆる犠牲を忍び, 共同の努力で擁護して行くのは, 何といふ壮快さだ。 我々 は今い ろい ろの計画を持っ て 居る。 其れは 此れか ら次第に実現せ られ て行くだらう。 今はまだ自由大学の芽が生れ出ただけだ。 枯らすも生かす も,其の責任は我々 自身に ある。 友よ, 1人で も多くの友を呼び起して , 我に聞くことの出来るは, 何といふ悦ぽしさだ。

(166) 魚沼, 八海両白由大学の成立と経過
々の新らしい講義を聞かうではないか。 自由大学の鐘は今しきりに鳴っ てい るの だ。 我々は所謂夏期大学のやうに形式ばかり大きく内容の空っ ぽなものには飽 き々々 した。 あのお祭り騒ぎの中から何が生れよ5。 我々の学校は丸太造り だ。 柱か らはまだ葉のつ いた小枝が出て居るだろう。 けれども其処での講義 は何処までも澄み切っ たものだ。 晴れた八海山巓の星夜のや5に。 其処での 思索は内面へ 突き進んで, 何処までも深い ものだ。 神秘の蔭深き魚沼の森林 の や うに 。
友よ, 自由大学の鐘は今しぎりに鳴っ て居る。 川を越え.11亅を越え, 草の 畝に, 木の葉の上に。 友よ, さあ鍬を捨て, 鎌を収めて, 待っ て居た新らし い 講義を貧 り聞く時が来た。 」 パ ソ フ レ ッ トの発行や新聞を通して の宣伝活動の あと,は大正13年8月次の 日程で開催された。 まず八海自由大学は, 8月1日, 2ロ 山口正太郎 (帝大大阪高商教授) 理論経済学 8月3日野冂雨情 童謡及民謡講義 この時の会場は伊米ケ崎小学校ではなく, 少しはなれた, 魚野川の対岸浦佐村の普光寺というお寺であった。 会員外からは1科目につぎ1円50銭の聴講料 を 徴収 し て い る 。
初日は午前9時に 開講し,渡辺泰亮拶挨の あと講義に うつ っ たが, こ の時の 聴講者は約150名であっ た。 3日めの野口雨情の講義は, 午前中は童心芸術につ い ての話があり, 午後は2時から童謡教育につ いて述べ たあと一般質問に うつ り4時に閉講した。 当時 すでに 「枯れすすき」の歌で野冂の名が知られていたためか, 聴講者はさらに
第2回め の 自由大学


魚沼, 八海両自由大学の成立と経過 (167)
増えて200人を越えた。 一方, 魚沼自由大学はこのあとを うけて, 8月18日か ら20日まで 3日間堀之
内小学校を会場として 開催された。 講師は高倉輝と由良哲次の2人であv)た。 この時由良は 覡代の哲学特にナ
トル プにつ い て」と題して講義している。
初日は午前9時から2時間高倉の講義, 終わっ て30分の簸 応 答。 午後2時か ら4時まで由良。 2日, 3日めは午前7時半開講, 午前中を高倉の講義にあて, 午後は由良が受けもっ ていずれも4時に終了してい る。 参加者は約100人, 会員外か らは 3円の 聴講料を徴収したが, 北魚沼郡内ぽかりでなく, 遠く古志郡, 長岡,南魚沼郡, 中魚沼郡等か らも聴講者があっ た。 教員, 学生が最も多く, その他は農業, 商業, 女性や僧侶とい 5顔ぶれで あった。 さて, 前述したようにこの時の魚沼自由大学には注目してよい 1つ のことがある。 それは 自由大学に多少の 娯楽的要素が加味された こ とだ。 具体的には絵 の展覧, レ コ ードコ ソサート, 仕舞の上演である。
堀之内村出身の宮芳平は洋画家で, 文展や大正博などに入選した絵画ぎであ っ たが, この時休憩室に白分の作品50余点を展示して観覧に供した。
また,小千谷町 (現在は小千谷市)小船井時計店主は昼の休憩時間に レ コ ードコ ンサートを開いたQ ほん もと
さらに同地にあっ た踊りの同好会で瓢会の会員有志は, かねて本本彦作氏に時間割は ,
つ い て練習を積んでいたが,この時休憩時間を利用して田村, 松風 小袖 曾我等の仕舞を演じた。 自由大学が地味な学習の場とい うよりも, 地域の文化セ ソ ター的役割を負ってい るかのようにみえるが, このことのもつ 意味にはここでは深くふれず, 事実を記すに とどめ たい 。 第2回の両自由大学は以上の ように して幕を閉じた。



(168) 魚沼,八海両自由大学の成立と経過
ところでここに, この時講師として来校した由良哲次がのちに渡辺泰亮に送 (12)っ た手紙がある。 由良は滞在中の礼を述べたあと, 次のように書いている。 折角の学を愛する熱誠なる青年諸君の 御招きに よりたるにかかは らず全く 小生の未熟と不才の 為毫も御期待に そふ 能はず徒らに諸君の 時聞を空費したるの罪は実に慙愧にたえません 一一略 。 小生の責務としてかの講演の。
結末だけはつ け’るの義務ある為来春3月以後(3月までば試験と論文にて全 く閉口です)開講の期に番外として附加下され, かかるもの (筆者註 謝礼 金)は重ねて受けぬこととして, 有志の人々にのみかの続き西南学派とマ ル ブル ヒ学派の大要を語っ て 結末だけはつ けたい との責任感に 5たれて 居りま す。 いつ でもよろしいから必ずもう一度参ります。」
教育とい 弓もののあるべ ぎ姿の 1つ が,教える者と教えられる者とい う硬直 した関係を否定し, 相互変革を媒介としつ つ より高い 次元へ と成熟してい くも のであるとするならば、教えを受ける青年たちの , 知識を求めるひたむきな熱意が講師を突き動かしていっ た白由大学の授業のなかに豊かな教育の可能性を見 出 す こ と が で ぎ る で あ ろ う。 行けない地方の青年たちに単に与えたもの だと受け取られがちであるが, 高倉 輝の例を引くまでもなく, 講師たち自身が逆に教えを受けたとい う側面も見落して は ならない と思われる。
第3回以降の両自由大学の様子は現在の ところ明らかでなく今後に期するよりないが, 判明してい る事実のみ列挙すれば次の通りである。 魚沼自由大学に ついては,大正14年1月富田砕花(関西学院教授) アイル ラン ド文学史 堀之内小学校 参 加約40名の他は夜問2時聞)。
大iE 14年12月12日より5 日間 時自由大学の 講義は ,大学程度の 内容を,大学へ。,1 午前午後そ’ (12日は午後2 より 131は

魚沼, 八海両自由大学の成立と経過 (169)
住谷悦治 (同志社大教援) 社会思想史 堀之内小学校 参加約40名 この時の聴講料は 1円であっ た,, 昭和2年6月 今中次麿 政治学 堀之内小学校 参加約50名八海自由大学につ いては, Jく正15年12月26日か ら3日間 柳田謙十郎 リッ カ ー ト, 認識の 対象概論 伊米ケ 崎小学校 さて両自由大学がいつ 頃まで存続したかは現在必ずしもはっ きりしないが, 昭和の初年には消滅したと思われる。 支柱であっ た渡辺泰亮は, 大正15年に新 潟県視学として転出したf、 さて, 自由大学における講義内容が, 具体的に どんなもの で あっ たの か 興味 がもたれるが, 最後に当時の参加者の筆記ノ ートを再録する。 次に掲げるものは,」〈正15年12月,八海自由大学における柳田謙十郎の哲学 講義を, 当時小学校の代用教員であっ た伊米ケ崎村の桑原亮川氏がノートしたものである。 (13)
リ カ ー ド 認 識 の 対 象 概 論 第 1 章 認 識 の 対 象 第 2 章 一}三 観 と 客観 第3章 内在論の立場 第1節 原因としての超越的実在概念 ユ.r見 出 し な し ) 2 .補 充 と し て の 超 越 的 の 概 念 3 .意 志 に 対 立 す る も の と し て の 超
越的概念 第4節 意識一般と心的実在との区別 第4章 判断と其の 対象 第1節 判断する事と表象する事 第2節 承認と して の認識 第3節 判断
必然性 第4節 Seinと Sollen(事実と価値) 第5章 認識の対象として (マ マ )
の不許不 講義内容は以上のようになっ てい る。 ここでは全部を収録することは紙数の
都介E不可能なので, 第1章の一一部分のみとする。 なお転載にあたっ ては原文 のままとした 叉, 講演後精神講話として, 「田冂職工の美談「なるもののあ題目は,っ たことをつけ加えておく。



(17の 魚沼,入 海両 自由大学 の 成 立 と経過
第1章 認識の対象 r哲学は驚異から始まる』と古の哲人は叫んだ。 懐疑は来る可き真新へ の
門であるより徹底したる懐疑はより深き新真へ の扉である。 自己の魂の根に 秘め られるたる罪の意識に何の 善恥を も煩悶をも感ずる事の無き世上の善人は仏の悟りからは尤も遠ざかっ た無縁の衆生である。 現実の生活に対して, 何の不満をも感ぜざる人は世界の 隅々に渡っ て充ち溢れる神秘に対して, 何の疑惑をも驚異をも感ずる事の 無き人で ある。 これ等の人に対して哲学は必 要はない。 哲学はただ人生の神秘なる扉の前に立っ て, 根本的に自己と人生と宇宙とを疑ふ者の為にのみ与へ られる緑の草である。 常識は独断である。 彼は瞬間の反省に依っ て疑ひ得べ き殆ど自明の否真理 をも, それが彼の生活の 便宣に役立つ 限り自ら眼を塞い で現金に通用させて 省ない。 彼は思ひ切っ て, 無反省な功利主義老である。 随っ て, 哲学は決し て常識か らは生れない 。 常識に対する反逆か らのみ哲学は生れるの である。 か くて常識は言ふ [此の世界と自己とは吾人が表象するが如き姿態を持っ て,吾人が感覚するが如き色と明暗とを持っ てゐる。 又吾人が知覚するが如
き大さと位躍と形とを持っ て此の時間と空間との中に厳存する。 我等の認識 の 真 と疑 とは 只 こ の 客観的なる対象の 実相を忠実に 吾人の 主観的表象の 中に 取入れるか否か, 換言すれば, 吾人の表象が客観的なる其の対象的実在の模 写として其の原型に一致するか否かと言ふ事に依っ てのみ決せられる。 これ が完企なる模写たる限り, そは完全なる認識である、, それが不完全なる模写 たる限り不完全なる認識である。 其の不完全性は更に度を越えて, 最早何等 の 模写としての 意味をもた らさぬ限 り, そは何等の 真理をも持たぬ誤れる認 識となる。
彼等の 斯の 如き思想夊は信仰には 2つ の 重要な 1nomento 契機がある。 其 の 1は, 認識の主観と客観,換言すれば認識するもの とされるもの とは, 全 く相対立せず独自なる実在として各々其の存在を保つこと, 他の1つは此の


魚沼, 八海両自由大学の成立と経過 (ヱ71)
各々独自なる実在は, 主観の認識作用に依っ て, 完全にか不完全にか, 兎に 角模写されることが出来ること之れである。 此の二者は彼等の思想に共通な る盲目的信仰として, 彼等の独断の闘充をなしてゐる・ 疑惑に輝く哲学老の 眼は, 先ず此の2つ の独断の前に閃かなけれぽならない。 冷く光る科学者の メ ス は 先 づ 此 の 封 ぜ ら れ た る 屍 体 の 上 に 振 は れ な け れ ぱ な ら な い 。 (古 代 に
於ては哲学者は又科学者であっ た。) かくて哲学者は言ふ。 此の世界は一 実在としての宇宙の真想は決して我
等の感性知覚に現るる如き姿態と性質とを持っ たものである事は出来ない。 吾人の感覚する如き色と明暗とをもっ て, 夊吾人の知覚するが如ぎ大さと位置と其の変化 (運動)とを持っ て, 実在するものではない。 仮令ば色は我 等の眼球と之れに分布する神経との構造に依っ て, 我等自身の主観に生じた 感覚であっ て, 決してそれは客観的なる実在そのものが有する性質ではな我 等 よ り独立 な る もの , くマつ音は聴官の構造に 基く我等自身の 感覚で ある 或ひは其の性質ではない。 同様にして, 味ひも匂ひも触感的種性質も皆我等い。。
の単なる我等の主観的表象以上の物である資格を持たない 。 実在の世界は到 底斯くの如き世界である事は出来ない。 随っ て又これは無音無色無味無嗅の 世界でなければならない。 五官に依っ て吾人が表象するが如ぎ世界は,それ、。e翻1 ( )騨 、。翻 。取。て,。 然覡 え・鵬 界ある。 本当の実在の世界は此の現象界の 奥に有っ,其の 現象界存立の 根拠 Geln・1・・schel ・ ・ 脳1・ で− ・vを為す Etwas で なければな らない 。 此のヱ トワス は, 吾人の感性認識では, 到底達する事の出来ない 特殊の世界, それはただ我等の理性の みが辛ふじて, 認識可能性を有する世界でなければならぬ。 哲学者達はかく論証した上各々得意の鼻を蠢かして, 常識を尻目にかけ乍ら, 彼等の得意な世界に入っ て行く, 斯くして彼等は自ら其のエ トワスの世



(172) 魚沼, 八海両自由大学の成立と経過
界, 宇宙の本質の世界を彼等の理性に依っ て認識する事が出来ると信じ る者はそれは水だ と需ひ, 或老はそれを火だ と言ひ, 空気だ と需ふ。 或者は 地水火風の 四元だ と言ひ, 又或は 更に小六 ケ敷くトア パ イP ソ で そして更に,,は・ム 進んだ哲学者は 1堺 物tttJhtsるアトか繊ると言ひ請襯Jオ,る觚0 墨 ) か ら 成 る と 薄 ひ 又 一・元 か ら な る と 言 ひ 多 元 か ら 成 る と 言 ふ 、, 併し此等の哲学者に して見た処で1 常識が有する独断を完全に征服してか らの議論には成っ てゐない。 これは只問題を一歩暗いところに押込んで仕舞 っ たにILまる。 彼等も又 常識と同様に真認識の可能条件に関しても2つの 要素を独断的に仮定してかか っ てゐるのである。 併し此の 2つ の 要素は我等 切 の認識に関して如何に して必然的なもの として前提されなければなるま ひL, 不可疑な確実性を持っ たものであろうか。 哲学はもともと根本的に懐 疑する者に課せ られた運命的な課題である。 疑ひ得るすべ ての もの を疑{, て ,しか も尚疑ひ得ざるところに立脚して 自然と人生とを頁に 不動なる董礎 の .L に 建 設 せ ん と す る と こ ろ に 哲 学 の 最 も 深 い 要 求 が 密 ん で ゐ る 。 故 に 哲 学 者は常識や科学の独断が不可疑とする其の 根本仮定に 対して も又疑ひの 日を一一向 け な け れ ば な ら な い ,,後 略 , , 年 号が 大 1ドか ら 昭 和 に 改 元 さ れ た こ の 時 , 年 の 暮 を ひ か え た あ わ た だ し い 時」
期にもかかわらず, 雪国の冬休みにはい っ た小学校の寒い一室で以上の よ5な 講義に耳をすましていた人々は, 何を求めていたのだろ5か。
以上が魚沼, 八海両自由大学の 素描である。 大正期の後半に生まれ, 昭和初期に消えた自由大学運動は,それが 純民間運動であ一. , , たためか,従来ほとんどかえりみられることがなかっ た。 数少ない労作もほとんど長野県における運動の み が取り扱われ,それ以外の 地域を対象に した研究は 少ない 。 自由大学運 動 を 正 当 に 評価 し 正 し く位 置 づ け る た め に は , 各地 に 誕 生 し た 自由 大 学 を 堀 り起こし総体としての姿を浮きぽりにするこ とがまず何よりも必要であろう。その 意味で運動の もっ ていた意味や限界を早急に判断することを避け こ の ,あ

魚沼, 八海両 自由大学の 成立 と経過 (173)
小論ではまずできるだけかくれていた資料紹介を中心として, 事実を明らかに す る こ と に 努 め た 。 自 由 大 学 運 動 の 評 価 , と りわ け 最 近 の 大 学 解 体 や 反 大 学 , 解放大学等の動きとの関連に相わたっ ての評価は, 私の最も関心の あるところで あ る と は い え 後 日 に ゆ ず りた い L , (註 )
(1) 1926 (大正15)年11月10日, 町制施行に よ り現在は 堀之内町。
(2)1954(昭和29)年5月1日, 町村合併に より, 現在は, 北魚沼郡小出町伊
米ケ崎。
(3)本社は長岡市坂ノ上町2丁目。 昭和27年7月以降新潟日報社に吸収合併さ
れその 夕刊となっ た。
(4) 当時の 参加者林広策氏の 記憶に よる。
(5)大正12年6月26口付手紙。 京都市新町頭土EH杏村 よ り伊米ケ崎村渡辺泰
亮へ 。
(6) 「土田杏村とその時代1第7・8合併号ぐ38〜39ペ ージ:)
(7)報知新聞, 大正12年11月4日〜7日。
(8)大正12年11月9日付手紙。 京都市新町頭土田杏村より伊米ケ崎村渡辺泰亮
V \C
(9)北越新報,大正12年12月18日付記事。 「南魚沼郡伊米ケ崎小学校に 於て去 る16日午前10時よ り高倉文学士を聘し八海自由大学の 発会式を兼第1回講演 会を開催せ るが聴講者多数あ りと。 」
この草稿の日付は12∫]20日となっ てい る。 前出新聞記事との異同につ いて は未詳。
(11)大正13年3月10日付手紙。 京都市新町頭土田杏村より伊米ケ崎村渡辺泰亮 へO
(iZ 大正13年8月23日付手紙。 京都市北白川由良哲次よ り伊米ケ崎村渡辺泰亮 へ;


(174) 魚沼, 八 海両 白由大学の成立 と経過
桑原氏の ノートには, リカード 認識の対象概論 柳田謙太郎述 と記入 されてい たが, 当時新潟師範に在職されてい た柳田謙十郎氏が講師として来
したがっ てノートの 「謙太郎」は 厂謙十郎」の誤り であり, また 「リカード」は 「リッ カート」のまちがいであると柳田氏より
校されたことがわか り,
ご 教示 を い た だ い た 。