安井誠一郎

1891年 岡山県御津郡伊島村
1917年 東京帝国大学独法科を卒業。内務省に入省
1929年 柘務省拓務局長
1936年 京畿道知事
1940年 新潟県知事
   年 海外鉱業協会理事長 
1942年 東亜石油工学院校長
1943年 「帝国美術学校」 調停委員会案 安井誠一郎に校舎売却
1944年 「大東亞工学院」開校式 大東亜省
1945年 「帝国美術学校」 設立者変更(木下成太郎(1942死亡)→安井誠一郎)
1947年 東京都知事  都市計画
1953年 内田秀五郎胸像
1961年 遺族会 第3代目 会長
1962年 70歳没

植民地官僚 の形成 と交流 加藤聖文
内務省から朝鮮総督府を経て拓務省へ転任してきた安井誠一郎の場合を見てみよう。安 井は、 まず東京市社会局長か ら朝鮮総督秘書官へ転任 した ことか ら植民地 統治に関わ る こ とにな(1931年6月)。 産児制限問題の責任をとって社会局長を辞任した後に秘書官の 声が掛か った ともいわれ るが、朝鮮行 きが決 まってか ら辞任 したのかその経緯 は不 明である。朝鮮行ぎは宇垣一成との個人的関係が大きく関係していたことは事実であるが、郷里 が同じ岡山ということ以上の具体的な理由は明らかではない。
朝鮮へ渡 った安井 は専売局長 ・京畿道 知事 を歴任 したが、宇垣辞任後 に朝鮮 を去 った。
ちなみに、宇 垣 内閣流産騒動の最中、「組閣本部」 で中心的 な活動を していたのは安井 であった。
内地 へ戻 った後、拓務省拓務局長 となるが、 これ には当時 の拓務大臣 であった永 田秀次郎 との関係が大きく影響していた。永田が東京市長だった時に安井が社会局長として仕え、 そ の時以来 の関係 に よって安井 が拓務省 に呼 ばれた のであ る14。なお、安井 の朝鮮 での経歴 が拓務省入 りに関係 したかにつ いてであるが、 拓務 局の主要 な業務 は移民一特 に満洲移民 一であって、安井の朝鮮の経歴とは無関係であったことから、両者の関連性は薄いと考え るべきであろう。その後1940年4,月 に新潟県知事へ転任して拓務省時代は終わる。なぜ新潟県知事転任となったかは、満洲移民事業との関係(新 潟港など日本海側諸港の整備) も考 えられ るがはっき りした理由は不明であ る。
1967年安 井誠一郎氏記念像建設委員会編・発行r安 井誠一郎伝』


[日韓併合]